第一章 ネズミ肉串と小籠包 ①

 旧神奈川県の三浦半島北東部に、海岸通りと呼ばれる、横須賀市街から観音崎に向かって海沿いを真っ直ぐ伸びる道路が、かつて存在した。

 戦争中は軍需品が行き交う戦車道として使われたのも今は昔。

 アスファルト舗装がひび割れ雑草に持ち上げられ砲弾の穴が放置され走れなくなった戦車が放置されて野生動物のすみとなる、かつて道だった場所がそこにあるだけだった。

 晴れた日には対岸の房総半島の工業地帯のはいきよを見ることができる。

 その旧海岸通りのえんていに腰かけ、ニッシンは古びた竿さおを海に垂らし大きく欠伸あくびをした。


「今日は駄目かあ」


 さほど真面目に釣りをしていたわけでもない男は目じりを拭って竿を上げると、立ち上がって大きく体を伸ばす。


「土産持ってってやりたかったんだがなぁ。ま、釣れなかったもんは仕方ない」


 ニッシンは堤防から降り、下にめてある原形をとどめないほど適当に改造されたオフロードバイクにまたがり、ヘルメットをかぶってエンジンをかけて旧海岸通りを西に向かって走り始めた。

 秋風の冷たさに首をすくめたとき、途端にポケットの中でスマート端末が鳴ったため、ペアリングしているヘルメットのスマートバイザーを使って通話を取る。


『ちょっとニッシン! もう約束の時間だけどどこにいんの!?』


 途端にエンジン音に負けない怒号がヘルメット内部に響いて危うくハンドル操作を誤りそうになった。


「あー、悪い悪い。土産の一つも用立てようかと思ったんだけどな。ボウズでさ」

『ニッシンに釣りの才能は無いんだから本当やめなよね! 今日のほうおうけんはニッシンのおごりだかんね! 早く来てよ!』


 通話が切れたノイズにニッシンは顔をしかめた。

 いきを吐きながら、ニッシンはバイクのスロットルを吹かして、気持ち急いだ。

 道路の状態もバイクの状態も決して最良ではなかったため、スピードはさほど上がらなかった。


「あー、腹減った」



 二十一世紀初頭に既に問題となっていた人口減と少子高齢化問題を解決できないまま、日本は第三次世界大戦に突入する。

 本土に侵攻を許した大戦争の終戦後、日本の人口動態と経済は壊滅。

 戦争を防げず本土に侵攻を許したそれまでの政権はかい

 新たに戦後復興を掲げて立ったポピュリズム政党率いる新政府は壊滅した経済を復興させるため、戦後制定された新憲法に、納税、教育、勤労の義務を支える第四の義務として『健康』を書き加えた。

 この健康義務を支えるために生まれたのが、食料安全維持法と食料国防隊である。

 食から国民の健康を支え、最終的に社会保障費を抑制し、労働生産性を向上させ、これをって経済を復興させることを国家の至上命題とし、そして。

 日本政府と食料安全維持法、そして食料国防隊は、健康の義務を守らない国民を厳しく取り締まった。


『安全で健康的な食品』以外の生産、販売、所持を禁じる食料安全維持法は『食品衛生環境の清浄化』により、人体に有害とされる成分を含む全ての食品を、戦後日本から駆逐した。

 着色料、保存料、香料、人工甘味料、防腐剤といった食品添加物と称された物質は人工・天然由来問わず一律に禁止された。

 全ての農産物生産者は殺虫剤を始めとした農薬、化学肥料、化学飼料の使用を禁じられ、養殖水産品の育成現場からも化学飼料が駆逐された。

 もしそれらの禁に違反する食品を生産、販売、所持した場合は、食料国防隊によってと呼称され取り締まりの対象となった。

 法律制定当初は取り締まりが過剰すぎる、多くの食品産業が壊滅するという批判もわずかにあったが、それらの言説は全て『大企業や悪徳政治家と癒着し国民の健全な食生活をおびやかす反健康主義者の虚言』とレッテルを貼られ、政治犯として取り締まられた。


『違法食品、ダメ、絶対! 発見したら、食料国防隊に通報を!』


 ニッシンのバイクにあおられて、古いプロパガンダチラシが舞い上がって海に落ちる。

 そこには威圧的な制服をまとった食料国防隊の美男美女が、床にいつくばって『インスタント食品』を食べているアディクターを銃で制圧する絵が描かれていた。

 バイクの巻き起こした風も冷たくなる、二〇七五年の、秋の日だった。



「遅いよニッシン! 先に始めちゃったからね!」

お前……これを奢りはエグイだろ」


 待ち合わせの『鳳凰軒』で待ち合わせの相手がテーブルの上に繰り広げている光景に、ニッシンは頭を抱えた。

 十本以上のネズミ肉の串に残飯チャーハン。更にアメリカンコーラの空き缶が既に二つ並んでいた。

 ニッシンに明香音と呼ばれた少女は、盛られた串をニッシンに一本差し出す。

 長く伸びた髪を無造作に束ね、体にフィットするヴィヴィッドな色合いのセーラー服を纏った金色の瞳の少女は、まだニッシンが待ち合わせに遅れたことを許していないようだ。


「大きな仕事だって言ったでしょ。体力つけとかないと! ほら食べて」

「これ奢るって考えるだけで食欲なくなるわ」


 それでもニッシンは肉串を手に取り一口齧った。


「それで? デカい仕事って何だよ明香音。俺も暇じゃないんだ。手短に頼むぜ」


 つき明香音。

 少女と呼んでいい小柄なたいとあどけない顔をしているが、戦いとなればその軽量級の体を生かして戦場を縦横無尽に走り回り、自分の倍近くある男相手にも決して引けを取らない。

 荒廃した横須賀で生き抜く力と資格を持つ、一流のアディクターだ。

 派手なセーラー服は本人の好みで、『横須賀らしさを出すため』と選んで着ているらしい。


「釣りで遅刻した奴が言うセリフかっての。私の食料品の輸送を手伝ってほしいんだよ」

「はあ?」


 ニッシンはあつにとられて思わず声を上げる。


「それの何がデカい仕事なんだよ。わざわざグレーチングストリートまで呼び出すから、てっきりシンジケートがらみかと思ったぜ」


 グレーチングストリートとは、戦前に旧横須賀地区で最も有名だった繁華街だ。

 かつては数多あまたのバーやカフェやレストランが軒を連ね、米軍基地のアメリカ兵や外国人観光客が集まる多国籍、あるいは無国籍な飲食体験が楽しめるランドマークとして名をせた。

 大戦を経て横須賀全土がスラムとなった今は『違法な食品』で腹を満たそうとする住人と、そんな住人のために『違法な食品』を何らかの方法で手に入れ運んでくるアディクター達の根城となっていた。

 ニッシンの言うシンジケートとは、グレーチングストリートに集まるアディクターが結成している組合のようなものだ。

 今ニッシンと明香音が打ち合わせをしている鳳凰軒は、グレーチングストリートの中で乗り物や食料品を手配する役員を務める端木という男の経営する中華料理屋で、ニッシンが鳳凰軒で明香音と会うときは、規模の大きい仕事をするときと相場が決まっていた。

 それだけに、明香音のソロ輸送の手伝いと聞いてニッシンは拍子抜けするが、明香音の顔は真剣だった。


「用心のためだよ。もし私が捕まったら、代わりにブツを届けてほしいんだ」

「詳しく話せ。どういうことだ」


 ニッシンに負けず劣らずのいつぴきおおかみである明香音がこれほど弱気なのも珍しい。

 先を促すと、明香音は小さく息を吐き、ぽつぽつと話し始める。


「ニッシンさ、地獄の金沢ラインって知ってる?」

「金沢って、金沢八景あたりのことか?」

「そう。この半年、そこでシンジケートのアディクターが何人も食防隊にやられてるんだ。今回はそこを通らなきゃならない。ブツは根岸港までは運んでもらえる。そこからはこっちの仕事」

「根岸港か。それはそれで横浜シェルターに近いから嫌な場所だな。もう少し南側に来てほしいとこだが、取り引き先もその金沢ラインを越えたくねぇってことか?」

「多分ね。なんなら入管や食防隊南関東州本部がある横浜シェルター外縁のスラムより、金沢ラインの方が取り締まりが厳しいって話まであるくらい」

「大回りになるし金もかかるが、戸塚から西のさきの方に回して海から葉山の海岸に上げるってわけにはいかないのか」

「そっちはそっちで危険なんだ。そもそも、金沢ラインを厳しく見張ってるのが鎌倉署の部隊だから、西側の海も同じくらい見張られてて、割に合わない」

「鎌倉署ねぇ。去年の浄化作戦のときに組織がガタガタになったんじゃなかったか?」

「その隙に出世したうできが現場の部隊を再編して半年前に新部隊を作ったんだって。今そいつらが金沢を通るアディクターをビシバシ引っ張ってるみたい」

「まぁ食防隊が網を張ってるルートを通らなきゃならんことは分かった。問題はそんな状況で、何でわざわざ危険を冒すかだ。そこまで切羽詰まってんのか?」

「私じゃなくて、がね」


 美都璃とは、明香音が一緒に暮らしているぬのたき美都璃のことだ。

 明香音のホームは旧横須賀中央駅裏手にある山の麓にある廃ビルの一角だった。

 そこでは明香音と美都璃は、横須賀で親をくした子供達を集めた孤児院を経営している。