同盟相手の気遣いによってもたらされた、いつもより少し遅めの帰宅時間。『辻川』という戸籍上の姓が刻まれた表札を横目に、心なしか重い新居の鍵をあける。
そのまま息をひそめて見つからないように二階へと直行……したいところだが、流石にリビングには顔を出すようにはしている。
「…………ただいま」
「おかえりなさい」
リビングのテーブルの上にタブレットを広げて原稿を書いていた母さんが顔を上げ、俺の帰宅を出迎えてくれた。
「おかえりなさい、紅太くん。バイトお疲れ様」
そして母さんと一緒に俺を出迎えてくれたのは、辻川明弘さん。
俺の新しい父親であり、母さんの新しい夫となった人。
……仕事も忙しいはずなのにこうして俺を出迎えてくれるあたり、やっぱり良い人だ。
「今から真紀子さんにコーヒー淹れるんだけど、君も飲む?」
「あー……えっと、俺は大丈夫です。ありがとうございます」
「そっか。もう夜だもんね」
特に気を悪くした様子もなく、明弘さんは母さんの分のコーヒーを淹れる。
「じゃあ……俺、部屋に戻ります。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい。ゆっくり休んでね」
何のためにリビングに顔を出したのか。それを特に指摘することも突くこともなく、明弘さんは二階の部屋に向かう俺をそのまま見送ってくれた。
……本当に、良い人だ。
明弘さんと接していると、つくづく思う。
俺は子供だと。そして未だ馴染めていない、それどころか逃げてすらいる自分の不甲斐なさ、彼らへの後ろめたさを。
────お前は、どれだけ俺を失望させれば気が済むんだ?
「…………あー……くそっ。嫌なこと思い出した」
頭の中にフラッシュバックする、アイツの声。
今になっても忘れられない、自分の奥深くに刻まれ、こびり付いた記憶。
「クソ親父……」
本当にどうかしている。明弘さんみたいな良い人を素直に「父さん」と呼べないくせに、あのクソ親父のことは未だに「親父」と呼ぶことができるなんて。
こういう時、嫌というほど自覚する。
俺の中で『父親』という存在は自分で思っている以上に染みついているということ。『父親』が今もなお俺の心の中に居座っていることを。
……さっさと風呂に入って寝て……いや。寝る前に映画でも見るか。家まで帰ってくる間に、加瀬宮からさっそく『取り急ぎのオススメ』として何本かの映画の名前がスマホに送られてきたし。心の中でそう決め、足早に二階の廊下を歩こうとした矢先だった。
「おかえりなさい、兄さん」
かけられた声の主は、一つ年下の少女。
やや小さめの体格を淡い色のルームウェアで包み込んでいた。腰まで伸びた髪は乱れ一つなく、佇まいや所作から清楚で上品な印象を受ける。
「あぁ……うん。ただいま、辻川」
俺がなんとか絞り出した一言だけれども、失言だということも分かっている。
彼女は義理の妹であり、名前は辻川琴水であり、義理の兄である俺が彼女のことを呼称するのならば『琴水』が正しいのだろう。妹のことを苗字で呼ぶ兄などいない。ましてや彼女はつい最近まで赤の他人だった俺のことを『兄さん』と呼んで歩み寄ってくれているのだ。俺の方がこんな体たらくでは内心、面白くはないはずだ。
「惜しいですね。そこは気安く気軽に『琴水』って呼んでくだされば、兄さんに義妹ポイントを十点あげてたんですが」
何だよ義妹ポイントってという疑問はあるものの、これは辻川なりの気遣いだろう。