こちら、終末停滞委員会。 1

プロローグ『船と影』 ①


 どこまでも行くのだ、この果てしない旅路を。


 愛と勇気の鎧と盾で。

 夢と希望の銃と剣で。


 たとえ、宇宙が滅んでも。




 俺の名前はことよろずこと。どこにでも居る普通の高校生だ。

 ……と言いたい所だけど実は高校には通っていないし、中学を卒業する前にメキシコのマフィアに拉致監禁されて奴隷扱いされて、今は邪魔になったので船に乗せられて、どこかに捨てられようとしている真っ最中だ。『普通』を騙るのは、流石に図々しいだろう。


《本当にあんな子供が》

《――囁き屋Susurrador?》


 甲板を掃除している水夫の一人が、足を鎖で繋がれている俺に怯えていた。

 『Susurrador』。ススラドール。その意味は、『囁く者』。

 彼ら、サングレ・オクルタ隠された血はメキシコで最も大きなマフィアの一つだ。

 そんな連中が、俺みたいなクソガキに怯えてこそこそと様子を盗み見ている。


(クソ。頭が痛い……死にそうだ)


 こんな目立つ場所で観衆に晒されて、否応なしに他人の思念が頭に響く。他人の心は毒だ。俺の脳みそを掻き回して、思考を乗っ取ろうとする。


「心葉、悪いな」


 背後に、足音が響いた。革靴の音だった。靴音に比べて、その声は小さかった。


「……ラファ。アンタ、来てたのか」


 ラファエル・ガルシア。もう40代であるにもかかわらず、酷く筋肉質な背の高い男だ。黒いジャケットを着ており、その下には幾つものタトゥーが見え隠れしている。


エル・ソブリノ甥っ子がゴミ出しか。親孝行だな」

「すまない、心葉。叔父を止めようとはしたんだが」


《俺が説得できていれば》

《……しかし、ボスの命令は絶対だ》


 なんて実直な男だろう。俺は笑ってしまう。この男はいつだって心と言葉が同じ形だ。


「結局のところ、幹部共はお前が怖くなったんだよ。俺の叔父も含めてな。心葉。俺たちのファミリーはこの数年で急拡大した。異常な程に。それにはお前の功績が大きい。大き過ぎたんだよ。お前は誰の秘密も暴いちまう。警察や政治家の醜い願いも、敵対マフィアの弱みも。……そして、ファミリーが隠したがってる数々の秘密も」


 当然の結果なのかもな、とは思う。俺は時限爆弾だ。心を盗み見てマフィアに囁く悪魔だ。内部崩壊の火種にも成るし、敵対組織に奪われでもしたら一巻の終わりだ。


「……心葉。何故、お前は命乞いをしないんだ?」

「え?」

「お前はいつでもそうだった。うちに来た頃からな。いつだって昏い目をして、不平や不満なんぞ殆ど漏らさず、命令だろうが拷問だろうが無言で耐え続けた。お前は俺の友だと思っているが、お前から『助けて』という言葉を一度も聞いたことがない」


 それは。


「何故だったんだ?」


 何故か。考えようとすると、頭に鋭い痛みが走った。俺は呟く。


「……希望なんて物に救われた事が、かつて一度も無いからさ」


 ラファは一瞬泣きそうな目で俺を見て、すぐに視線を反らした。

 彼の心の水面に、小さな男の子の顔が映った。10年前に心臓病で亡くなった彼の息子が、今でも生きていたら俺と同い年だと話していたことを、なんとなく思い出す。


「これからもっと暑くなる。これでも食ってろ」


 そう言って、ラファは俺の口に大きな飴玉を放り込むと、去っていった。そうだ。あいつはあんな悪人面で実際に酷い悪人のくせに、笑えるほどに甘党なんだ。


「……あっま」


 太平洋の大空の下、奴隷同然に繋がれた俺は、甘すぎる飴を舐め続ける。


「――それ美味しそうだね。私にもくれない?」


 声がして、驚いた。ころころとした女の子の声だ。


「ん、んー……っ。ふわあ、よく寝た」


 大きく伸びをしたのは、真っ黒なコートを着た真っ黒の髪で真っ黒な瞳の少女だ。俺と共にこの船に乗せられてずっと気絶していた。てっきり死体なんだとばかり。


「それで、私にもくれる? あめちゃん」

「くれるって……俺もう食べちゃったし、手錠が邪魔で手渡せない」

「お口の中残ってるでしょ? あーん」


 彼女は雛鳥のように口を開けて、何かを待っていた。まじか。


(俺の口の中の飴玉を、口移しで食わせてくれって言ってる?)


 それは……なんというか、たじろぐ。


(だ、だって久々に見た女の子だし!)


 彼女の年も高校生ぐらいだろうか?


(でもこの子……俺よりも厳重に拘束されている)


 俺が手足に鎖を付けられているだけなのに較べて、彼女は拘束着で全身が縛り付けられている。まるで獰猛な獅子や狼でも取り扱うかのような慎重さだ。


「ねえ、待ってるんですけどー!」


 俺は動揺しながらも、彼女の口に唇を近づけた。

 彼女の心の中に、悪意のような物は全く無かったからだ。恐ろしい程に、何も無かった。


「ン……れろ」


 舌先で転がすようにして、砂糖の塊を彼女の口に注ぐ。

 唾液を伴った飴玉が、彼女の前歯に当たって、カラン。と小さく音を立てた。

 それが俺のファーストキスだった。


「ンー! あま! はぁー♡ 生き返るーっ♡ 助かったよ、ありがとー♡」

「……いや。俺も。最後に、『良いこと』が出来てよかった」


 その言葉がどういう意味なのかさえ尋ねずに、彼女は笑う。


(綺麗な子だな)


 シルクのような肌。柔らかそうな唇。黒曜石のような瞳。


(俺も、本当はこういう子と……)


 なんてね。


「それで君は、どうしてこの船で捕まってるわけ?」

「いろんな秘密を知りすぎた。だから、遠くの国に捨てられるんだ。ていうか、売買されるんだろうな。なんでも俺は、20億ドルで売られるらしい」

「わお! それはすごいねえ」


 ありがたやー。と言って彼女はなむなむ手を合わせた。俺はなんか笑ってしまった。


「そっちは?」

「色んな所で恨みを買っちゃってね。ヘマしちゃったのさ」

「……何? アンタもマフィアなのか?」

「ううん。私はただの――魔王」


 魔王。黒の少女は綺麗に笑った。俺にその意味は分からなかったが、別にどうでもよかった。


「ぺろぺろ。……んー。回復した。あんがとね。飴玉返すから、口開けて」

「いや、もうちょい良いよ。食っとけって」

「ダメダメ。見た感じ、君、頬ゲッソリコケてて、今にも死にそうだし」


 そうだったのか、と思った時には彼女の顔が俺に近づいていた。口を開くと、さっきよりほんの少し小さくなった飴玉が、微かな粘液と共に、俺の中へと流し込まれていく。


「……流石にちょっと照れるね」


 顔を真っ赤にしてヘラヘラ笑う彼女を見て、急激に頬が熱くなるのを感じた。

 ……いやいや。そんな、青春っぽいことしてる場合じゃねーから!


「それで君――逃げないの?」


 魔王と名乗った少女は、恐ろしい程に澄んだ視線で俺を見つめた。


「逃げられるもんなら逃げてるさ。でも見ろよ。足には鎖。何十人ものマフィアに囲まれて。第一ここは太平洋のど真ん中だ。どう考えても無理だよ」

「でも、頑張るしかなくない?」


 彼女は笑った。青空が似合わない女の子だな、と思った。


「無理だと思ってても、殆ど可能性は無いとしても、頑張らないよりは頑張ったほうが『マシ』でしょう? 数字で考えよ。0か。0・0000001なら、後者の方が大きいんだから」

「……無責任だ。酷い、暴力みたいな言葉だ」

「でも、私はそうするよ」


 強い決意を伴った視線を向けられて、笑ってしまう。だってこんなに終わってるのに。


「私にはどうしてもやりたいことがあるからね。下らない絶望や袋小路なんかで、物語を終わらせるつもりは無いんだよ」

「やりたいこと、ねえ」

「君には無いの? 人生で、絶対にやってみたいこと」


 俺は考えた。やりたいことなんて物、メキシコの広い屋敷の狭い地下室で2年間も家畜扱いされてきた俺が考えるにはあんまり眩しい概念だった。――だけど妄想ぐらいなら。


「やりたいこと……さっきもう、少しだけ叶っちゃったんだよ」


 彼女はキョトンとして見返す。


「俺さ。長い事監禁されてたんだけどさ。まあ仕事とか頑張ったら、テレビとかは見せて貰えてたんだよね。そんで、深夜にさ、日本のアニメがやってるの。普通の高校生が主人公で、学園に通ってて、女の子と出会ったり、ちょっとした問題を乗り越える、日常のお話でさ」

「うん」

「……俺もこういう風になりたいな。ライトノベルの主人公みたいに。青春がしたいなって」

「へえー」

「馬鹿みたいかな?」

「……ううん。分かるよ、そういうの」


 『分かるよ』と言われて、俺は何だか妙に納得していた。だってこの真っ黒の少女は、どう考えたってまともなわけないもんな。きっと同じ穴のムジナなんだろう。


「なるほど。つまりー」


 彼女は少しだけ視線を逸らしながら、恥ずかしげに。


「私、ヒロイン役しちゃった?」

「少しだけね」


 女の子と飴を交換。ファーストキス。若干特殊だが、青春だ。

 それが俺の夢。唯一の夢。でも夢なんて物は届かないから夢って言うんだろ?


「もったいないよ。私なんかブスとちょっと口移ししただけで満足するなんて!」

「……いや、君は相当可愛いと思うけど」

「ぬあっ」


 彼女は大仰に飛び退いてから。


「そ、そんな事ないと思うけど……もじもじ」


 もじもじしていた。


「とにかく! 勿体ないよ! 君は青春したいんでしょ!? 友だち作って! 彼女作って! 夏の思い出とか! ほろ苦い恋とか! そういうのをしたいんでしょ!? だったら、諦めたらダメだよ! ――夢と希望を捨てたら、終わりだよ」


 ガキの頃に聞いたJーPOPの歌詞みたいな事を言う人だな、と思った。

 残酷で、恐ろしい人だな。


「希望なんて持つのは間抜けだけ。期待した分、痛めつけられるだけ。そういう運命なんだ」

「運命? 君は運命の奴隷なの?」

「奴隷? どうかな。サンドバッグぐらいが身分相応かな」


 彼女は悲しそうな目で俺を見つめた。


「そう信じて、自分を護るしかなかったんだね。キミは」

「……じゃあ、アンタの『やりたいこと』って何なんだよ?」


 どうせもう出来る筈も無いけどさ。無意味な、価値の無い三文話さ。

 けれど彼女は――黒の魔王は、一点の曇りも無い笑顔を浮かべた。


「――宇宙の滅亡!」


 瞬間、蒼い光が網膜を焼いた。

 それは、彼女の『影』が放つ燐光だった。


「な……に……?」

「私ね、世界を滅ぼしたいんだ。宇宙が鬱陶しくてたまらないんだ。生きている者全部がなくなってしまったらどんなに最高だろうか! って思うんだ! だから私はそのために、一生懸命頑張るって決めてるの。たとえどれだけの絶望に後ろ指を指されても!」


 彼女は何を言ってるんだ?


《飴玉を貰えて良かった。この微かなエネルギーがあれば》

《私はまだ、がんばれる》


 俺は、彼女の心の声を感応した。それは、酷く恐ろしい、真っ黒の狂気じみた感情だった。こんなに純粋な黒を感じさせる人間の心は初めてだ。……いや、この人は……人間なのか?


「だってね、私は信じているんだよ!」


 彼女の影が巨大に膨らむ。それはやはり蒼い光を放つ。いや、それだけじゃない。あれは幾何学模様だ。彼女の自在に動く影には今まで見たこともないような模様が刻まれていた。


「――夢は、いつか必ず叶うって!」


 瞬間、蒼い影が閃光のように甲板を駈けた。


「ぐぅ……っぎっ」


 影の駈けた先に居たのは、水夫の男だ。男の影が蒼く光り始める。瞬きの間に、蒼い影はその持ち主の体をミシンが縫うように貫き始めた。血しぶきが甲板を赤く染める。


「ぎゃあああああああ!!」


 赤髪の水夫が叫んだ。彼は蒼の影に口から肛門までを一直線に貫かれて死んだ。


「やめろッ! やめろッ! やめろぉおおおおおおおおッッ!!」


 長い髭の水夫が悲鳴をあげる。彼は巨大な蒼い影に押し潰された。トルティーヤみたいになる。


「なん……だよ、これ。なんだ……」


 船は酷い惨状だった。


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