こちら、終末停滞委員会。 1

プロローグ『船と影』 ②

 何十人もの死にゆく人々の思念が、否応なしに俺の心に侵食する。死にたくない。死にたくない。死にたくない。怖い。助けてくれ。痛い。嫌だ。気持ち悪い。死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 俺は思わず、叫び続けた。喉が枯れるまで叫び続けた。


「かわいそうに」


 不意に、俺の頭を何かが覆う。それは――彼女の腕だった。魔王と名乗った少女の。


「……そう。君は私とおんなじだったんだね。化物仲間だったんだね。人間になれなかったもの。人間に憧れたもの。強い指向性。いつか終末を迎えるもの」

「なん……なんだよ……。一体、どういう事なんだよ……」

「ねえ、笑わないとダメだよ。私達みたいな奴は、必死に死ぬ気で努力して、やっとほんの少しだけ報われるんだ。たとえ何を犠牲にしても。どれだけ痛めつけられても」


 彼女は俺を優しく抱きしめる。


「アンタは……何者、なんだよ……ッ」


 彼女は笑った。煌めく星々のような満面の笑顔で。


「我は魔王也! 世界と相対する者也。決して敗北せぬ者也。光に屈さぬ、ますらを也!」


 光が。

 太陽の光が、雲によって覆われた、瞬間に。


「な――」


 ――巨大な影の化物が、海を二つに割っていた。昔に映画で見た怪獣よりもずっと大きな影だった。水平線の彼方まで広がる視界一面の怪物だ。世界よりも、影の方が大きく見えた。


「私は! 私の夢を諦めない! 決して希望を捨てたりしない!!」


 巨大な怪物が世界を切り裂いて、跪く。その小さい真っ黒な魔王のために。

 少女は怪物の腕に乗ろうとして、その前に俺の足かせを腕力だけで引きちぎった。


「――私はそうする。――君はどうする?」


 ころころとした声で、彼女は笑う。


(どうする? どうするか? だって?)


 だって。俺はさ。必死に諦めて来たんだよ。

 希望なんて持った所で無駄だって。どんなに頑張っても救われる事は無いんだって。

 どうせ勝てないなら、したり顔して、やり過ごしたほうがマシだって。


(なのにこの子は、ものの10秒で)


 俺が毎日歯をガタガタ言わせて怯えていた連中を、片付けた。同じ穴のムジナだと思っていた少女が。俺とおんなじ、負け犬だと思っていた少女が。


(本当は。俺だって)


 頭の中では彼女みたいに、戦っていた。

 けれど、怖かった。怖かったんだよ。


「クソ……クソ……クソ…………ッ!」

「どうして泣くの?」

「わ、わかんねえ……わかんねえけど……クソぉ……ッ!!」


俺の心を占めているのは、圧倒的なまでの怒りだった。それが何故かは分からなかった。


「……だって……俺は……弱いんだよ……」


 言い訳じみた惨めったらしい言葉が口から漏れて、俺は頬がカーっと熱くなるのを感じた。


「だから強くなるんだよ」


 彼女の笑みをとても綺麗だと思った。真っ黒で、混じりけのない、全てを塗り尽くしてしまうその色に、触れたいと、一瞬感じた。ああ、俺は――彼女に惚れてしまったんだ。


「夢、叶うと良いね」


 俺は何かを考える余地もなく、ただこくんと頷いていた。

 頷いてしまった。それがどんな意味を持つのかさえ深く考えずに。


「君が青春にたどり着くか、私が終焉にたどり着くか、競争だね」


 黒の魔王が、優しく笑った。


「だったら私達、敵同士だ!」


 ――影の化物の腕が、船に巻き付く。バキバキバキ! と鈍い音を立てながら、船がゆっくりと倒壊していく。俺は縦になった船の甲板で必死に手すりを捕まえていた。


「ばいばい。それじゃあね。がんばろうね。お互いにだね」


 俺はへらへら笑う彼女に何かを言ってやりたかった。けれど、明確な言葉は出てこなかった。

 彼女は影の化物に乗って去っていった。俺は荒波によって空中に放り出される。


(わけわかんねえ)


 心の底からそう思った。


(ふざけんな)


 何もかも分からないけど、そう思った。

 分かる事はこのままだと俺は海の藻屑になることだ。


(だとしたら、どうするんだよ)


 今までみたいに、必死に昏い顔をして、運命に顔面を殴られ続けるのか?


(それは、いやだ)


 俺だって。


(俺だって本当は、あの魔王みたいに)


 闘いたかったんだ。


(俺だって本当は――夢を叶えてみたかったんだ)


 ずるいよ、と思った。


(ああ、俺――生きなきゃ)


 海に落ちると同時に、気がついたんだ。これからすべきこと。これから戦うべき相手。

 『運命』。俺はそいつをタコ殴りにしなければいけない。

 あの魔王が顔色一つ変えずに、世界を滅ぼそうと邁進するように。


「あぁあああああああああああああああああああ……ッッッ!!」


 俺は叫びながら、泳ぎ始めた。


(なんて惨めなんだろう。なんて格好悪いんだろう?)


 今ここにあるのは、俺と、海だけだ。清々しいぐらいに、俺の敵は一人だ。

海水を掻いて、蹴り飛ばす。漂流する材木を見つけて、体を預ける。


「俺は……っ! サンドバッグなんかじゃ……ない……ッ! 生きてる! 生きるんだ!」


 多分無理だ。だって太平洋の真ん中だ。誰にも見つからずに死ぬだろう。

 けれど、天命に身を任せるのは飽き飽きだ。全部が嫌になってきた。偉そうな運命とやらにヘコヘコしながらやってくのなんて、もう、ゴメンだ。


(俺だって……夢を叶えるんだ……)


 普通の高校生みたいに友人を作りたい。

 普通の高校生みたいに学校に通いたい。

 普通の高校生みたいに恋がしてみたい。


(――ライトノベルの、主人公みたいに)


 俺は決心して――『ソレ』を視界に入れてしまった。


「…………」


 うそだ。


「…………あ……あ……」


 うそだ。


「ああああ!! ちっくっしょおお!! ふざけんな!! ふざけんな!! ふざけんなよ!! マジでなんなんだ、テメエは!! 笑ってんのか!? 楽しいのか!? 満足なのかよ、これで! なァッ!! おい! ふざけろ、答えろ、ボケ!」


 俺は海水を蹴り上げた。圧倒的な質量の海。怒りに身を任せて蹴り続ける。

目的地まで辿り着いた俺は『ソレ』の脇に抱えて掴み、元に居た浮きまで戻る。


「ぷはっ」


 『ソレ』――ラファエル・ガルシア。筋肉質な彼は泳ぎが苦手なのか、絶え絶えな呼吸を繰り返しながら、薄い板に捕まった。


「く……っ」


 この板じゃ、二人分の体重は支えられない。船の残骸は、とっくに遠く。他の浮きになりそうな物を探すなら、リスクを背負うことになるだろう。

 あるいは、ラファを見捨てる、という手も当然あった。

一人分――俺だけなら、この板に捕まっていられるだろう。


(あ。俺、そういう事できる人間じゃ、ねーんだな)


 そうか。俺はこういう状況になった時、他人を優先して助けることが出来るような奴なんだな。知り合いを放っておいて、自分が助かるなんて、普通に嫌で、最初から選択肢に入っていない。やるじゃん、俺。

 それは救いだ。涙が出るほどに、救われた。


「待て! 心葉!」


 背後で板に掴まっているラファが叫んだ。俺は振り向きもしない。


「俺は……俺は、お前を見捨てたんだッ! 本当は、俺がお前を救わなければいけなかったんだ! 俺しかいなかったんだ! それなのに俺はッ! 怖くて、勇気が出なかったんだ! 俺は……俺は……お前に救われる権利なんて、無いんだよッ!」


 いつも小さな声の彼が、必死に叫んでいた。俺は少しだけ笑った。


(なんだよ、ラファ。俺たち、同じだったんだな)


 ……なあ、俺はもう、そんな事はしないよ。

 たとえ神様だろうが運命だろうが。

 必死で藻掻いて、ぶん殴って、きっと夢を叶えるよ。


「ラファ。アンタがよくくれたカルネ・アサダ(ロースト肉)のタコス。美味かった」

「……心……葉……」

「いつか、レシピを教えてくれよ」

「……っ」


俺は大海に挑む。それは運命との戦いだ。

 背後から必死で響いていたラファの声も、巨大な海水の音に掻き消される。

 辺りには、何もない。

 生きて、生きて、生き抜いて、絶対に夢を叶える。


 次第に、体力の限界が訪れ始める。

 指先に力が入らなくなる。

 海水を大量に飲み込んで、肺が正常に動かなくなる。

 手を伸ばしたが、空に届かなくなる。


 浮上する体力も、いつの間にか失くなっていく。


(生きる……生き、る……ん、だ……)


 俺は、夢を目指して泳ぎ続ける。

 不意に、――ぷつん、と糸が途切れるように視界が閉じて。


(ちくしょう……死んで、たまるか……)

(しんで……たま……る、か……)

(し……)


 ……………………。


そうして、俺は死んでしまった。


   ■


 ガキの頃。俺は寺に預けられていた。

あの頃、俺は目に見える全員が敵に見えていた。だって人の心が見えてしまうっていうのは、人の悪い部分が見えてしまうっていうことだ。

思春期の誰にも愛されなかった子供が、人の悪意だけに晒されて、歪まないわけがない。


「おう、ガキ。ボロボロだな。また喧嘩に負けたンか」

「うるせえ、ジジイ」


 俺の面倒を見てくれていた住職は、近所の悪ガキとか上手く社会に適応出来ない子どもたちを集めて、一緒に暮らしている物好きな爺さんだった。


「ジジイ。もっと教えてくれよ、ボクシング」


 爺さんは若い頃やんちゃしていたが、プロボクサーになってそういう事から卒業したらしい。尤も、結局才能が無くて実家の寺を継ぐことになったわけだが。

 居間には誇らしげに当時の白黒写真が飾られて、格好良いと思わないこともなかった。


「おれ、強くなりてえんだよ、もっと」

「……強くなって、どうする?」

「だって、知ってるだろう。ジジイ。みっちょんをいじめてる連中。いじってるとか言うけど、ランドセルをゴミ捨て場に放り込んだり、給食にチョーク混ぜたり。最低だよ。みっちょんが喋れないからって」

「そうか」

「喋れねえけど、泣いてるんだぜ。本当に、ずっと泣いてるんだ」


 みっちょんは俺より3つ年下の、俺より少し後にこの寺に預けられた女の子だ。言葉を上手に喋れなくて、皆に笑われるのが怖くて、いつも口を閉ざしている。すごく優しい子なのに。いつも俺に、道端で咲いたへびいちごを届けてくれるような女の子なのに。


「良いさ。ガキ。人の殴り方ぐらいなら幾らだって教えてやるさ」

「……! ああ」

「でも、お前が本当に知りたいのは……」


 ジジイは俺の頭を撫でた。グローブみたいに分厚い掌だ。


《子どもたちよ。お前が幸福になるためなら、おれは何でもするよ》

《どうか神様。お願いだから。これ以上こいつらから何も奪わないでくれ》


 ――いつだってジジイは、酷く大きな悲しみを背負いながら俺たちを見ていた。嘘はつかない人だった。そんな大人は初めてだった。


「ガキ。お前はこれから苦労するよ。普通の人よりも、うんと苦労するだろうよ」

「……だから、なんだ?」

「だから強くなるのには賛成だ。けれどいつか、どんなに拳を鍛えたって勝てないような、目を見張るぐらいの化け物が、お前の行く手を塞ぐ時が来るだろう」


 そんなの、全然ピンと来なかった。

 だってジジイが、俺の知ってる世界で一番強い人だったから。


「だから……その時は……」


 ジジイはニカっと笑った。しわくちゃの笑顔だった。


「――いいヤツで、居なきゃだめだぜ」

「……どういうこと?」

「人は苦しく辛い時、どうしたって嫌なヤツになっちまうのさ。自分が辛い分、相手を苦しめようとか、誰かのせいで自分が辛いんだと信じて、誰彼構わず殴りかかっちまうもんさ」

「……うん」

「でも、お前は。いいヤツで居なきゃだめだ」


 酷い話だ。何で、俺だけ? と思った。ジジイは笑う。


「だって、誰かがその連鎖を止めねえとさ……終わらねえだろ?」

「オセロみたいに?」

「そう。どんなに黒に挟まれても、白で居なきゃいけねえのさ。俺や、お前みてえな奴は」


 どうして、ジジイはそんな風に思うんだろう。でも俺は、ジジイと同じくくりに入れられたのが少しだけ誇りらしくて、何となく、こくりと頷いてしまっていた。


「わかった。よくわかんないけど。うん。わかったよ」


 そうか、とジジイは笑った。俺はこの人みたいになりたいと思った。いいヤツになりたい。

 なりたいと思ってたんだ。思ってた筈なのに。


 捨てられて、殴られて、鞭で打たれて、地べたに何日間も放置されて。


 俺は、いいヤツじゃなくなってしまったんだよ。

 クソッタレマフィアの便利な道具になってしまってたんだよ。

 俺のせいで沢山の人が苦しめられて、傷つけられたんだよ。

 きっとその中には、みっちょんみたいな子どもたちも居たんだろう。

 なあ、ジジイ。俺が地獄に落ちたら、アンタはどんな顔するかな。


 ごめんな。おれ。約束まもれなくて。ごめんな。

刊行シリーズ

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