こちら、終末停滞委員会。 1
プロローグ『船と影』 ③
■
「……きて」
誰かに体を揺すられている。
「起きて」
俺は海の藻屑になって死んだ筈だ。だったら俺を呼ぶのは地獄の悪魔だろう。
「起きて。
――ふりふりのカチューシャ。目を開けて、視界に飛び込んだのはそれだった。
「あっ。おはよーございまーす」
眠っている俺を見下ろして笑っていたのは、だぼっとした水色ジャージに真っ白のエプロンフリフリカチューシャを付けた年上のお姉さんだった。
「言万クン。お体の具合はどーですかー?」
どこか気だるげな視線。目元を微かに赤く塗ったメイク。バチバチに耳に開けているピアス。まともな状態の俺だったら、怖くて話しかけられないタイプの女の人だ。
いや待て。事態に頭が追いつかない。
(ここはどこだ……? 少なくとも、地獄って感じじゃない。むしろ……天国?)
俺は辺りを見渡す。そこは荘厳な神殿だった。見たことのない宗教の絵画が天井を覆っている。屋久杉みたいに大きな乳白色の柱が天井を支えている。
「まあー……良かった。お元気なようで安心っすわー」
ジャージメイドさんはフリルを揺らしながらほっと息を吐いた。
《はぁー。だる。蘇生には成功して良かった》
《色々文句付けられるの、めんどいしなー》
事情がありそうだなと思いつつ、正直彼女の内心に目を向けられる程の余裕が俺にない。
「……ここは、どこなんですか?」
「ここは……えと、なんだっけ。たしかあ、『運命と転生の女神・ペルシオーネ様の神殿』だったかな? アタシ馬鹿なんで、あんま知らないンですけど。あなたはなんか、ペルシオーネ様に呼ばれて、謁見する栄誉を頂けたとかそれ系です」
「女神って……」
それは何というか、随分突拍子の無い話だ。俺は笑いそうになってしまって。
「――目覚めたようですね、人間よ」
腹の底から震えるような、オペラ歌手のような声だった。
(うお……まじか)
視線を神殿の奥に向ける。翠玉のような色をした髪の女神が立っていた。女神? いや、わかんないけど。多分があれがそうだろうって程度には迫力のある人だ。
「びっくりさせてごめんなさい。私達はあなたを見ていました」
「見て……って」
「船が転覆した事、残念でしたね。しかしあなたは良い行いをしていた」
それは、ラファを助けた事を言っているんだろうか?
「あなたは確かに死にました。この度その魂を、私が招致させて頂いたのです。どうかお願いです。その輝かしき勇気で、この世界に救いの手を差し伸べてくれませんか?」
女神が呟いて、指を振る。すると天井から一枚の石版が降ってきて、それには妙に鮮明な、とある世界の様子が映し出されていた。それは中世のような光景だったが、人々の中に獣人やエルフ、魔法使い風の冒険者などが混じっている。
「き、聞いたことあるかも。もしかしてこれ……異世界転生ってやつですか?」
「最近の若者は物の分かりが早くて助かります」
「中学の時、よく読んでいたんで……」
隣のクラスの佐竹くんが、よくオススメのウェブ小説を教えてくれた。俺は結構ライトノベルとかのラブコメ派だったんだけど、楽しく話していた事を思い出す。
待て。本当に? そんなものが存在するのか? そんなラノベみたいな?
「では素敵なスキルを授けましょう」
「だから、そんなラノベみたいな!」
「何でもありますよ。超経験獲得・不老不死・肉体強化に無限魔力。スキル吸収・進化適応。時間操作に全属性魔法・治癒の手に強化融合・会話翻訳・無敵の盾・モンスターテイムや領域支配・万能錬金術・召喚の達人。ああスキルの複製なんかもいいですね。空間移動? 透明化? えっちなのが好きなら催眠なんか。重力制御も便利ですが……」
「……。ちょっと考えさせてください」
俺は少しだけ深呼吸してから。
「これは夢? それか、走馬灯の亜種みたいなやつ?」
ジャージメイドさんに尋ねた。
「ほっぺ引っ張りましょうか」
「お願いします」
「むに~」
ジャージメイドさんがほっぺを引っ張ってくれた。
「ふふ、へんなかお。かわいいね」
「……」
超近距離でお姉さんに笑われて、恥ずかしくて顔真っ赤になった。
いや違う。ほっぺが痛い。大事なのはそっちだ。集中しろばか。どうもこの状況は夢では無いようだ。確かに辺りの質感や存在感は妙にリアルだ。
(……もう一度、チャンスを与えられたということか? 異世界転生で?)
――俺は、ラファにかつて投げられた言葉を思い出していた。
『砂漠に落ちてる宝には、蛇が潜んでいるもんさ』
そうさ、こいつの言ってる事はあんまり虫が良すぎる。
(女神の心を盗み見すべきだな)
俺は自分の心臓の辺りに集中する。深く、相手の心を読もうとする時に想起するイメージだ。女神の内側の音を、色を、盗み見るように観察する。
「……」
女神の心は――優しさや慈愛に満ちていた。
本気で俺のことを案じ、幸せにしようとしているようだった。
俺のくそったれな境遇を知り、次の生では楽しく過ごせるように本気で案じていた。
「ご満足いただけましたか?」
女神は優しく笑った。俺に心を盗み見されるのも、分かりきっていたようだった。
俺は思わず、自分を恥じてしまった。
「……すいません。もっといろいろ教えてくれませんか? その、異世界転生? について。スキルとかについても、色々」
女神は笑って、俺に沢山の話を聞かせてくれる。
■
女神から話を聞き終えた俺は、頭を整理するために神殿の外を歩いていた。
(……俺が思っていたよりも、世界はとっても複雑らしい)
首を上に傾けると、空にあるのは見たこともないような形の銀河だ。女神曰く、俺の立っている半径5キロメートルほどしかない惑星は地球から19万200光年は離れた銀河系にある、多次元を繋げる基地局の一つだそうだ。
『輝かしき勇気』を持つ死んだ人間の良き魂をリサイクルするために活動しているらしい。
(輝かしき勇気、ねえ……)
「あ。心葉クン。居た」
「ええと……あなたは」
「……ン? アタシ? Luna。まあ使用人っていうかメイドさんっていうか奴隷っていうか……、まあここで働いている人的なヤツ」
ジャージメイドさんが妖しい目つきで笑う。何だかやっぱり怖そうな人だな、と思った。まるで蛇や猛禽類のような強者な生物の風格を漂わせている。
「こちら、どぞー。お腹減ってるんじゃないですかぁ?」
「……! いただきます」
Lunaさんから受け取ったのは梅のおにぎりだった。まさか久しぶりの日本食を天国で食べるハメになるとは。まあ死ぬまで食べられないのはだいぶ覚悟してたけど。
「おいし?」
「うまいっす」
彼女は笑って、タバコに火を付けた。吸っている銘柄はセブンスター。昔母親が吸っていた銘柄と同じだ。気怠い目つきのジャージメイドさんに、重めのタバコは妙に似合う。
「この神殿って、よく人来るんすか」
俺が尋ねると、Lunaさんは少し考えてから。
《おっと、どうしようかな。そういうの興味ある感じ? いや、世間話か》
《そうだ。心の中。無心にしなきゃ。この子は心を覗くンだっけ》
タバコの煙を吐き出しながら、呟く。
「そうですねぇ。月に4、5人ぐらいですかねえ。あの女神サン、あれでけっこー人を選ぶ方だから。『輝かしき勇気』なんてモンを持ってる人、そーそー居ないから」
「はは。俺も。自分にあるとは思えねーっす」
思わず乾いた笑いが出てしまった。だってそうだろ? 俺はマフィアに居て、一度も勇気を出して戦おうなんて思えなかった人間だ。奴らに殴られたくなくて、必死に従ってきた人間だ。
「俺、人の心が見えるんですよ。だから……まあ、尋問とかが超上手いわけですよ。はは。だからさ。その……嘘とか暴いてさ……。そういう役割を、よくやらされてたんです」
「うん」
「組織の情報を警察に流してる幹部を探せって。だから俺、暴いたんです。……その人の娘、誕生日だったのに。5歳ですよ? 5歳の……誕生日だったのに……し、知らなくて」
Lunaさんが、二本目のタバコに火をつける。
「俺が……俺が嘘を暴いたせいで……。れ、連中は……武装した車で……パーティーの会場に……。他の、子どもたちも……居たのに。ピエロも……お母さんたちも……お構いなしに。……ニュースで現場を見ました。あ、あれは……本当に……酷くて……酷くて…………」
囁き屋(Susurrador)。殴られるのが怖くて、必死に誰かを売り続ける男。自分がこんな地獄に居続けられる事が信じられなくて、必死にアニメを見て現実逃避していた男。
「だから俺、輝かしき勇気とか無いです。良い行いをしたから救われるとか言われても、全然ピンと来ないです。だって神様が居たら、俺って絶対地獄行きじゃないですか?」
だからなんか、少しだけ。幸せになっちゃダメなんじゃないかな、とも思う。
「仕方がないよ。だって、ガキじゃん」
Lunaさんは俺の頭に掌を置いて――優しく撫でた。
「あんま悲しいことばっかり考えてちゃ、いけないンだよ」
ぶかぶかのジャージの袖が額に触れる。俺は少しだけ泣きそうになる。
俺は、ジジイのくちゃくちゃの笑顔を思い出していた。Lunaさんみたいな美人とは似ても似つかないけど。それでも、妙に懐かしい気持ちになっていた。
《……悲しい子。まだ、大人にハグされてないといけない年のくせに》
《ああ……アタシは、こんな子供を……イヤ、だめだ。考えるな》
彼女の心の中は、何だか妙に悲しげだった。俺と同じか、それ以上に。
俺はなんだかこれ以上彼女に悲しい気持ちになってほしくなくて、ポジティブな話題を振る。
「異世界転生……俺、実はめちゃめちゃ楽しみです」
「そーなんですか? ふふ、なにが?」
「だって、次こそいいヤツになれるチャンスじゃないですか……。俺、いいヤツになりたいんです。普通のいいヤツに。泣いてる子供を笑わせる事が出来るぐらいのヤツに……。今まで酷いことしてきた分……ありったけ、いいことがしたいんです……」
そういうのが良いな。そういう、誰にでも胸を張っていられるような青春が良いな。
俺も異世界で頑張ったら、少しはそんなヤツになれるんだろうか?
「……すぱー……」
彼女は紫煙を吐き出す。
「酷いことしてきたんじゃない。させられてきたんでしょ?」
「同じことです」
「全然違う! ぜんぜん違うよ……!」
彼女の表情は歪んでいた。泣きそうな顔で、俺をじっと見つめていた。
「君は……君は……」
Lunaさんは何かを言いかけて、必死に言葉を飲み込んだ。
「……くす。ほんと子供だね」
「ひどいっ」
Lunaさんは、タバコを踏み潰した。
《考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな》
彼女は必死に何かを隠していたんだ。今にも泣きそうな少女のように。