プロローグ

 朝の八時三十五分。都内の公立高校、星修高校にて。


「おい、そろそろあの日下部くさかべが来るぞ」

「あー、教室戻るか」


 階段を上っていると、上の階からそんな声が聞こえた。なんとも不名誉な名前の使われ方だが、いまさら傷つくようなことはない。

 校門横での挨拶活動をいつも通り終えた俺は、二年生の教室がある三階に着いた。一つ息を吐き、教室前の廊下へと足を踏み入れる。

 ――廊下に小さな緊張が走った、気がした。

 何人かから視線が集まり、飛び交っていた話し声が少しトーンダウンする。俺の姿を確認して教室に入るような生徒もいる。

 だが俺は、周囲の反応に気づかないふりをして歩みを進めた。俺の目的地、二年一組の教室は廊下の突き当たりだ。


「……む」


 しかし視線の先に、まさしくギャルという派手な格好をした二人の女子生徒が目についた。

 襟元の赤いリボンを見るに一年生のようで、この階にいるのは珍しい。窓にもたれかかり、二人で一つのスマホを見ながらワイワイ騒ぎ立てている。

 それだけなら特段問題はない。制服の着崩し方も許容範囲内だし、廊下で騒いではならないという校則はない。

 だが、俺の目についたのは別の部分だった。


「君たち、少しいいか」

「はい?」

「そのピアスは校則違反だ」


 俺は二人の前に立ち、片方の女子生徒がつけたピアスを指さした。

 校則違反を見つけてしまったからには取り締まる。生徒会長として当然の行いだ。

 だが、スマホから顔を上げた二人は顔を見合わせ、むしろ愉快げにニヤッと笑った。


「すご、ホントに気づいた!」

「生徒会長一本釣り、大成功じゃん」


 なぜかケラケラ笑って盛り上がる二人。一年生に校則違反を注意したことは何度もあるが、こんな反応は初めてだった。愉快犯が出るほどに知れ渡っているのか。

 そう思うと複雑だが、それでもやるべきことは変わらない。俺はかまわず右手を差し出した。


「ん、何その手。渡すわけないんだけど?」

「心配しなくても、ピアスは職員室に保管され、今日の放課後には返却される。俺に預けたくないなら自分で職員室に持って行ってもいい。俺が同行しよう」

「いやいや、そんな話してんじゃないし。ってか写真撮っていい?」


 俺が返事をしないうちに、二人はスマホのカメラをこちらに向けた。


「うわ、顔怖っ。もっと笑って笑って~」

「そんなんじゃいつまで経っても彼女できないよー」

「や、まずは友達作るところからでしょ!」


 馬鹿にしたように笑う女子生徒たち。さすがに眉に力が入る。

 そして気づけば、周りから好奇の目を向けられていた。廊下の少し離れたところから、あるいは窓越しで、「何か面白いことが起こってるぞ」とばかりに俺たちを眺めている。

 もちろんその中には、俺に助け船を出してくれる友達なんて存在しないわけだが。

 ――ルールに厳しく厄介な堅物生徒会長。そういう評判は俺自身よく理解していた。校則違反への注意をやめれば、その悪評も次第に収まるのだろう。

 だからといって、注意しない方がいいとは思わない。小さな緩みが積み重なり、いずれ大きな綻びへと繋がるからだ。通学電車などで学外に迷惑をかける生徒が良い例である。

 それを未然に防ぐことができるのなら、これも必要な役回りなのだろう。


「話を逸らすな、今はピアスの話だ」

「だから渡さないって言ってんじゃん。はい終わり」

「……それ以前に、君たちは敬語を使った方が良い。まさか先生にもそんな態度なのか?」

「そんなのあたしらの勝手だよね~」

「ねー」


 二人はニヤニヤするばかりで、話を聞く気は一切ないようだった。これでは埒があかない。

 さて、どうしたものか。

 そう俺が頭を悩ませていた――その時だった。


「どうかされましたか?」


 俺たち、いや廊下中の生徒たちの視線が声の元に集まる。場の空気が一変するのを感じた。

 透き通った声とともに現れたのは一人の女子生徒――はなさきはるだ。

 ピンと伸びた背筋、スラリとした手足。目はパッチリと大きく、鼻筋は綺麗に通り、それでいてあどけなさを残す顔立ち。そんな、誰もが振り返ってしまうほどの美貌を持つ少女が、天使のような微笑みを浮かべていた。

 窓から差す光に反射し、滑らかな茶髪がサラサラと揺れている。この場にあるものすべてが彼女を際立たせているかのようだった。


「あの子が花咲夫婦の娘って噂の?」

「初めて見たけどやっぱ可愛いな……」


 周りからは口々とそんな声が聞こえる。花咲も一年生なので、二年生にとって見る機会はなかなかない。そんな反応になってしまうのも無理からぬことだ。

 そして、花咲は俺と同じ生徒会役員である。


「花咲か。今、ピアスをつけた生徒に注意していたところだ」


 そう言いながら女子生徒たちに目を戻す。すると、ピアス女子は背筋をピンと伸ばし、「あ、初めまして」と花咲にぺこりと頭を下げた。実にうやうやしい態度だ。

 一学年上の俺にはタメ口なのに、女子のヒエラルキーはよくわからない。


「それはいけませんね。ピアスは校則で禁じられています」

「あ、はい。そうですよね」

「私がお預かりしますね」


 花咲は柔らかにそう言いながら右手を差し出す。するとピアス女子はすぐさまピアスを外し、素直に花咲の手のひらに置いた。

 花咲はピアス女子に微笑みかける。


「確かに受け取りました、担任の先生に預けておきます。一年二組の大堀さんですよね?」

「え、クラスも違うのになんで知って――」

「おしゃれな方がいるなあと思って見ていたので、自然と名前を覚えてしまいました」

「あ、ありがとうございます!」


 ピアス女子……改め、大堀と呼ばれた生徒の顔が輝いていく。


「髪のセットや小物のセンスを見ればわかりますよ。大堀さんはピアスをしなくてもおしゃれです。明日からは校則を守った範囲でおしゃれをしてくださいね」

「はい! わかりました!」

「そう言ってもらえて嬉しいです。では先輩、行きましょう」

「あ、ああ」


 花咲は花のような笑顔を残し、職員室に続く階段へと歩き出した。俺は慌ててそこに並ぶ。

 後ろからは女子生徒たちの会話が聞こえた。


「ヤバい、あの花咲さんに褒められたんだけど!」

「うらやまー。てかマジで可愛いすぎでしょ、同じクラスになりたかったー」

「わかる! あのピアスは家宝にするわ」


 校則違反を取り締まられたというのに、これ以上ないくらい声を弾ませて話す二人。俺への態度との違いに呆れてしまうが、無理もなかった。

 花咲が有名な理由はその容姿や性格の柔らかさだけではない。彼女の両親、花咲すみさんと花咲だいすけさんは、芸能に疎い俺でも名前を知っているほどの大俳優だ。花咲夫婦と呼ばれて親しまれる二人は現在タレント業にも力を注ぎ、テレビで見ない日はないのだとか。

 そして花咲自身、その道を継いで女優になることを公言している。テレビで特集されたこともあるらしく、将来は約束されたようなものだ。


「ホント天使だよな~。日下部なんかにも優しいんだし」

「マジそれ、もったいなさすぎでしょ。なんであんなやつと……」


 だからこそ、こうして廊下を並んで歩けば、そんな声も聞こえてくるのは必然だった。

 片や学校一の人気者、片や学校一の嫌われ者。偶然花咲が生徒会に入ってきただけで、そうでなければ一生関わることもなかっただろう。

 俺自身が一番よくわかっているし、周りの声にももう慣れた。

 だが、そんな声が花咲に聞こえないよう、俺は花咲に話しかける。


「俺はああいうのには疎い。さっきは助かった」

「いえいえ。私が大堀さんを知っていただけですし、困ったときはお互い様ですから」


 階段を降りながら花咲をねぎらうが、サラリとそう言われてしまうと肩身が狭い。花咲には人望があり、先ほどのようなことは珍しくない。いつも助けられてばかりである。

 花咲は手のかからない、いや俺よりはるかに優秀な後輩だ。


「だが、わざわざ三階に来たのは何か用事があったんじゃないのか? もしそうならピアスは俺が持って行くが」

「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です、先輩に放課後の予定を伺いに来たので。今日は外へ見回りに行こうかと思っています」

「見回り?」

「最近とある場所で、うちの生徒がたむろしているらしいです」

「なるほど、それは注意が必要だな。それくらいなら俺一人で行ってもいいが……っと」


 そんな会話を交わしながら一階に着く。すると、花咲がぴょんと俺の前に進み出た。

 ここの階段は校舎の隅にあり、ちょうど今は周りに誰もいない。花咲もそれをわかっているはずだ。

 花咲は俺の進路を遮るようにして振り返り、俺の目をまっすぐに見つめる。


「ダメですよ、セ~ンパイ?」

「――っ」


 突然、花咲の声色が変わった。

 いつものお淑やかで凜とした声ではない。どこか小馬鹿にするような、馴れ馴れしい声だ。

 ニマニマした挑発的なその表情は、先ほどのピアス女子を彷彿とさせた。


「さっきはびっくりしましたよ~。一年生の女の子にめちゃめちゃナメられてるんですもん。何したんですか?」

「……俺は校則違反を指摘しただけで、初めからあの調子だった。俺をおびき寄せてからかうためだけにピアスをつけていたらしい」

「なるほど。ついにセンパイの評判もその域にまで達しましたか」

「何も嬉しくはないがな」

「冗談ですよ」


 花咲は俺をからいながらクスクスと笑う。

 それからわざとらしく「やれやれ」とでも言いそうなポーズを取った。なぜか嬉しそうに。


「それにしても、たまたま私が来なかったらどうなっていたことか。仕方のないセンパイですね~」

「……すまない」

「謝らなくて良いですよ~。でも、もし一人で見回りに行ったら、また同じことになっちゃうんじゃないですか?」

「それは……」


 やはりニヤニヤしながら俺に問う花咲。悲しくも否定はできなかった。


「だから私がついていってあげます」


 有無を言わせずにそう宣言すると、花咲は歩み寄り、俺との距離を詰めてきた。思わず後ずさりそうになるが、後ろが階段なのでそうもいかない。

 そうして体が当たりそうな距離になると、花咲は上目遣いに俺の顔を覗き込み――言った。


「センパイには私がいないとダメなんですから」

「……っ」


 ニヤリと口角を上げ、得意げとも生意気ともとれる表情を浮かべる花咲。なのに声は甘く、どこか嬉しそうで、脳が混乱してしまう。

 ……皆の前では絶対に見せない姿を至近距離で見せつけられ、俺は一つため息をついた。


「ふざけたこと言ってないでさっさと終わらせるぞ」

「は~い」


 俺が花咲の体をかわして歩き始めると、花咲は気の抜けた返事をし、弾むようにして俺の横に並んだ。まったくもって不可解である。


 ――いつもお淑やかに振る舞う花咲は、なぜか俺にだけ、小悪魔な態度を見せるのだ。