エルフの渡辺

第一章 渡辺風花は園芸部の部長である ②


 花は写真撮影を練習する被写体として極めて優秀である。

 それはおおゆくの持論であり、ゆくが写真という世界に興味を持つに至る原点であった父、おおしんいちの数少ない教えの一つだった。

 いわく、『カメラの設定を意識して外さない限り、花はそれなりにれいに撮れる』らしい。

 だから新しいカメラを手にしたとき、まず最初に練習で被写体にするべきは花なのだと、父は力説していたものだ。

 そのため幼い頃から父の影響で人よりは少しだけカメラにんでいたゆくも、新しいカメラを手にしたときや、撮影の練習をするときはまず手近な花を撮ることで準備運動としていた。

 だから高校一年生のおおゆくが、十月の土曜日に、とある古くて新しいカメラの慣らしとして、家の近くの神社で開催された『第六十回板橋区菊祭り』に撮影練習に向かったのはごく自然な成り行きだった。


「おおー」


 駅や幹線道路から離れているため普段は閑散としているいたばしかわじんじやの境内は、色とりどり形とりどりの菊で埋め尽くされていたのだ。

 菊祭りと聞いて、見物客がいてもお年寄りばかりだろうと何となく想像していたのだが、意外にも若い人の姿も見受けられた。

 自分と同じように真剣にカメラを構えている見物客も多くいる。

 にぎわってはいるが、混雑しているというほどではない境内を歩きながら、やがてゆくは最初の展示コーナーでカメラを構えファインダーをのぞいた。


「んー、ちょっと背が高すぎるな」


 そこには背の高い菊が一輪、鉢に植わった形式のものが無数に並べられているのだが、その背の高さのせいで全体を撮ろうとすると余計なものが映り込み、接写しようとすると並んだ他の菊が画面の中でゴチャついて干渉する。

 数度シャッターを切るが、ろくな結果になってはいないことは手応えで分かった。

 ゆくは両手の中の、古いフィルム式一眼レフカメラの背面に視線を落としてから小さく肩をすくめた。

 そう、ゆくが今使っているのは、製造されてから何十年もっていそうな、メーカーも型番もさだかでない代物なのだ。

 昨今写真を撮るために『ファインダー』をのぞく人は激減していると言われる。

 コンパクトデジタルカメラの大半はもはやファインダーを搭載しておらず、スマートフォンは言わずもがな。ミラーレスデジタル一眼レフですら、日中の太陽光の強い時間を除けば大きな液晶画面を見ながら撮影する人は非常に多い。

 写真を仕事にしているか、趣味として人生を賭けるレベルで心血を注いででもいない限りファインダーをのぞきこむ必要性そのものが薄れているため、今境内を見回しても、ファインダーをのぞきこんで写真を撮る人は見当たらない。


「でもやっぱこの方が、撮ってるって感じするよなあ」


 一輪の菊を撮ることを諦めたゆくは、沢山の菊を集めて人形の形にしている展示や、ドーム型にしている展示を何枚か撮影する。

 きっとこれらには専門的な呼び方があるのだろうが、菊に詳しくないゆくには作品の全景や使われている菊の美しさをただ観賞するだけで精いっぱいだ。


「見つけた」


 その瞬間は、唐突に訪れた。

 ファインダーの中に一輪、それそのものが輝きを放っているとしか思えない菊を見つけたのだ。

 先ほどのように鉢からぐ伸びる菊ではなく、竹の一輪挿しのようなものに挿されたものだ。

 花びらの内側が紅色。外側が深い黄金色の華やかな姿。


ともえにしき』と呼ばれるその菊が、まるで自らを撮ってくれと言わんばかりにファインダーの中からゆくを誘っているように見えた。

 撮影の結果がすぐに分からず取り回しも不便、その上現像に金がかかる古いカメラを持ちだしてきた大きな理由がこれだ。

 このカメラのファインダーをのぞくと、輝く被写体を発見できるのだ。

 少なくともゆくの主観にいてはそうだった。

 肉眼で見ると気づかなくても、このカメラのファインダーを通して見ると不思議とそれが『見える』ような気がするのだ。

 他にもともえにしきはあったし、一輪挿しのカテゴリーで展示されている菊も数えきれないほどあった。

 それでもカメラがそのともえにしきを撮れと言っているようで、夢中になって何度もシャッターを切った。

 そしてあらかた撮り終わってから、出品者の名前が添えられていることに初めて気づく。

 そこに書かれていた名こそが。




『一年B組、わたなべふうさん』


 翌週明け月曜日の全校朝礼。

 自分の目の前にいるクラスメイトの名が呼ばれ、ゆくは自分が呼ばれたわけでもないのに緊張で身を固くした。


「はい」


 控えめな返事とともに、目の前にいた小柄で背筋がぐ伸びた同級生女子がぴょこりと動き、壇上へと上がってゆく。

 わたなべふうは目立たない生徒だ。出席番号がゆくの一つ前なので、入学直後の座席は近かったのだが、特に会話をした記憶が残っていない。

 だが間違いなく一昨日の菊祭りでカメラが示した輝く被写体たる菊のかたわらには『みなみいたばしこうこう わたなべふう』の名札が掲示されていた。


みなみいたばしこうとうがつこう一年、わたなべふうさん。あなたは本年度の板橋区菊祭りあつもの・切り花の部に出品し、敢闘賞を受賞いたしました。その努力をここに表彰いたします』


 みなみいたばしこうこうは、東京の板橋区。東武東上線かみいたばし駅から徒歩十五分ほどの場所にある。

 公立高校ながら特定の分野の部活で伝統的に実績を出しており、この日もバスケ部の秋季大会優勝と映画研究部の全国大会金賞という分かりやすい表彰が先行していた。

 そのため、菊祭りのあつものの部という聞き慣れない単語の並びに、全校生徒の空気はややかんしていた。

 言ってしまえば耳みのないジャンルの個人表彰に興味を失っていたのだ。

 だが当のわたなべふうはそんな空気は意に介さず、義務的な拍手の中で瞳を輝かせ、高揚した笑顔でクラスの列に戻ってきた。


「お、おめでとう。わたなべさん」

「!」


 ゆくは、自分がそんなことをしたのか分からなかった。

 だが自分の目の前に戻ってきた、普段ほとんど交流のない女子の誇りに満ちた空気と笑顔を見て、ゆくは思わず小さく祝福の言葉をつぶやいていたのだ。

 流石さすがに真後ろでのこと。つぶやきもはっきり耳に届いたらしく、わたなべふうは驚いた表情でゆくを振り向いた。


「実はね、これ、出品したら必ずもらえる賞なんだ、ふふ」


 賞状で顔を半分隠しながら、わたなべふうは照れくさそうに、だが誇らしげにほほんだ。


「でもありがとう、おお君」


 そして、ほとんど交流の無いゆくの名を呼んでまた小さくはにかんだ。

 はにかむ、という普段みのない言葉を、よくぞ思い出せたものだと思う。

 だがそうとしか表現しようのない穏やかでおごりの無い笑顔が、まるで視界の中ではじけたような錯覚を覚えた。

 まるで、あのカメラで輝く被写体を見つけたときのようだった。


「……のさ」

「え?」


 その声は、もはや気づかれたことが奇跡と思えるほど、喉に引っかかったささやきのような音量だった。