エルフの渡辺

第一章 渡辺風花は園芸部の部長である ③

 だが、目の前のわたなべふうはきちんと聞き取り、また振り返ってくれた。

 前髪に隠れそうな大きな瞳がこちらを見上げ、その瞳の色を見て、またゆくの視界はきらめき爆発する。


「あの……っと……」

「うん。何?」

「あ、っ…………アツモノキリバナって、何?」


 その疑問は、衝動的にかけた祝福の呼びかけとは違い、意識して絞り出したものだった。

 わたなべふうの目が、きょとんとして、その後しっかりと見開かれる。


「あ、あのね! 薄い厚いの厚い物って書いてあつものなんだけど、菊の代表的な種類なの! 丸くてふんわりした大きい花の菊って見たことない!? 菊祭りのエントリーって色々なカテゴリーがあるんだけど、切り花はカテゴリーの一つで、他にもボンヨウとかオオヅクリとか色々あって、その中でもあつものはいかにも菊っ! ていう分かりやすい形をした一本はっきりと大きい菊を……」


 そしてまだ朝礼が終わっていないのに、しっかりゆくに向かって振り向いて賞状を握りつぶさんばかりの勢いでいつせいしやべり始める。


「え、あ、ええと」


 絞り出したあやふやな問いに思わぬ熱量で打ち返されてゆく狼狽うろたえ、


「おーいわたなべうれしいのは分かるがうるさいぞー」


 周囲にもその早口は聞こえていて、近場に立っていた担任教諭から渋い声で注意が飛ぶ。


「あ、ご、ごめんなさいっ」


 わたなべふうははっとなって話を中断し、フィギュアスケートのジャンプもかくやという勢いで前に向き直る。

 だが少しして、わずかに振り向きながら、少しもじもじして、言うのだった。


「後で少し時間もらえますか? そうしたらもっときちんとお話しできるから」

「う、うん!」


 この返事は、声こそ小さな子どものようだったが、明確に意思を持ったものだった。

 この後、わたなべふうと話す約束をする。

 それがたとえようのないほど魅力的な提案に思えたからだった。


「ふふ、よかった。ありがとう、おお君」


 今度ははにかむ微笑ではなく、はっきりと笑顔だった。

 朝礼が終わってから一時間目が始まるまでのわずかな時間。

 何となくゆくわたなべふうとつかず離れずの距離で歩いて教室まで戻る。

 そしてわたなべふうの席に手招きされたゆくは、彼女が机の中から取り出したパンフレットを差し出され、


「どうぞ。座ってください」


 わたなべふうの席の椅子に座らされた。

 誰かの席で話し込む場合、席の主が自分の椅子に座り、他のメンバーは前や横の席を借りるか立ったまま話すものだと思うのだが、ゆくは賓客のごとわたなべふうの席に座らされ、そのかたわらに立った彼女からのぞき込まれる形になった。


「まずこれが、今回の菊祭りの出品者向けの応募概要です」


 そう言って彼女が取り出したのは本人の言う通り菊祭りの出展者に向けたパンフレット。

 ちなみに、出品者向けの解説と概要しか書いていないため写真はなく、細かい字だけ。


「板橋区菊祭りは今年で六十年目を迎え、毎年区外からも沢山の応募がある歴史あるお祭りです。出品できる花のカテゴリーはいくつかあって、切り花、ふくすけぼんよう、だるまあたりは、花の本数は少ないけどどっしりとした大菊を使います」


 応募の締め切り日や主催者や事務局の問い合わせ先、そして出展するカテゴリーとレギュレーションの説明だった。


「は、はあ……」


 高校に入って以来最も女子と接近しているシチュエーションなのだが、この立ち位置と書類は完全に応募者と案内の係員であり、このままではゆくが次回の菊祭りに出品させられてしまうし、多分授業が始まるまでに『アツモノキリバナ』が何なのか分からない。


「ここまでで何か質問はありますか?」

「その、わたなべさんの作品の『アツモノキリバナ』のことなんだけど……」

「え? あっ!」

「え?」

「そ、そうだよね! そういう話だったよね! ごめんなさい、おお君が菊祭りに興味を持ってくれたのがうれしくて、しっかり解説しなきゃって思っちゃって!」


 アツモノという聞き慣れない単語の詳細を尋ねただけで、まさか祭りの概要と出品手続きの解説から始まるとは思わなかった。


「えっと、えっとね、私が出品した切り花はこういうあつものって呼ばれる丸くて大きい『大菊』を既定の高さに切って筒に挿すの」


 そう言ってわたなべふうが差し出してきたスマートフォンには、ひな壇のような場所に並ぶ色とりどりの菊の写真が表示されていたが、ゆくが見たともえにしきではなく別の展示スペースにあった菊だった。


「右の丸いのがあつもの。この傘みたいに広がってるのがくだもの。奥にある鉢はまた違うものなの」

「そうだったんだ」


 菊祭りのときには、分厚い花びらと細い花びらは同じ花なのだろうかと疑問に思ったものだが、なるほどこうして解説されると菊にはゆくが知らない多様な品種があったということらしい。


「何かあれだね、全然違うかもしれないけど、花火みたいだ」

「っ! そ、そうなの!」


 ゆくが写真について素直な比喩をすると、わたなべふうはまた目を見開きスマホを握りつぶさんばかりに意気込んで、ぐっとゆくに顔を近づけてきた。

 間違いなく人生で最も女子と顔が近づいた瞬間で、ゆくの心拍数と血圧が急上昇する。


「私も初めて見たとき、花火みたいって思ったの! 実際に花火には『菊』とか『しんぎく』って名前のものがあって、菊ってそれくらい日本人の心に親和性のある美しさでそれで……あっ! あれ? えーと、えーと! あれっ!?」


 そこでわたなべふうはスマートフォンを更に操作しようとしたのだが、画面を凝視したまま慌てた表情になる。


「どうしたの?」

「わ、私の出品した菊の写真を見てもらおうと思ったのに、充電できてなかったみたいで」


 淡い緑色のカバーがかかったスマートフォンをこちらに向けると、そこには真っ暗な画面に無情に表示される電池切れのマーク。

 ゆくもたまにスマホの充電を忘れることはあるが、今時のスマホはよほど長時間動画を見たりゲームをしたりしなければ、丸二日くらい電池が持つものだ。

 それが充電を一度忘れたくらいでこんな朝早くに電池切れを起こすとは、意外にもスマホのヘビーユーザーだったりするのだろうか。


「これで二日連続なの……充電忘れたの」


 するとそんなゆくのちょっとした疑問を先回りしたように、わたなべふうはしょげ返った声で言った。


「そ、それはなかなかのうっかりだね」


 一日充電を忘れたら、翌日はバッテリー残量にヒリついた一日の末に一も二もなく充電をすると思うのだが、こうなると逆に今時の女子高生らしくなく普通よりもずっとスマホを使わない人なのかもしれない。


「あ、でもこんなときのために予備バッテリーを持たされててね……!」


 ここで今時の高校生らしくきちんとセーフガードを用意していた。

 だがゆくは未来を予知する。

 二日連続でスマホの充電を忘れる女子高生の予備バッテリーが、果たしてこの非常事態に即応できるほどしっかり充電されているものだろうか。


「あれ? お、おかしいな。充電始まらない」


 案の定というか、取り出された予備バッテリーの充電残量はゼロだったようだ。

 先ほどまでの誇らしげな様子はどこへやら、意気消沈したわたなべふうは消え入りそうな声で言った。


「ごめんなさい。折角興味持ってもらえたのに、菊、見せられなくて……」


 消沈のあまりそのまま床を突き破って物理的に沈んでいきそうに見えたので、


「あ、あのさ、実はこれ!」


 ゆくは慌てて『それ』を差し出した。


「これって……あ」


 L判の写真を収めるための透明なOPP袋。

 その中には菊祭りで撮影したわたなべふうともえにしきりすぐりのカットが二枚、入っていた。


「私の菊の写真を、どうしておお君が?」


 わたなべふうは驚きのあまり何度も写真とゆくを見比べる。


「実は俺、その菊祭りに行ったんだ。そこでわたなべさんの菊と名札を見て、もしかしてって思って、それで、その、そしたら今日、表彰されたから、やっぱりそうだったのかな、って」