主人公の幼馴染が、脇役の俺にグイグイくる 1

プロローグ 俺にできることをしよう。今あるもので、今いる場所で

 屋上のフェンスを越えると、荒々しい風が吹いていた。

 少しでもバランスを崩せば、地面に汚らわしい落書きを描くことになりそうだ。

 まぁ、そのために来たんだけどな。


「もう、疲れた……」


 面白そうだし、困っているなら手助けしてもいいか。

 あわよくば、少しくらいおいしい思いができるかもしれないし。

 そんな軽い気持ちで引き受けたことが、後に重たすぎる現実となって襲い掛かった。

 何をしてもいい奴、苦しめるべき存在、消えることを望まれた存在。

 それが、俺。

 味方なんて、誰一人いない。みんな、いなくなった。

 お調子者の父さん、しっかり者の母さん、素直じゃない妹。

 いて当たり前だった存在は、いなくなった時に初めてどれだけ大切だったかが分かる。

 言葉ではそんな話を何度も聞いていたけど、その意味を理解するのは失ってから。

 遅すぎた……。何もかも遅すぎた……。もう、何も取り戻すことはできない。

 あいつらに憎しみがないと言ったら、噓になる。

 だけど、それに勝る感情がある。恐怖だ。

 もう失いたくない、もう傷つきたくない、もう…………生きていたくない。

 だから、俺は終わらせることにした。

 自分にとって、赤黒い思い出しかないこの学校に、最後にもう一つ赤黒い思い出を作ろう。

 下を見ると、何人かの生徒が俺の姿を発見して、目を輝かせながらスマートフォンを向けている。「飛ぶのか?」「どっちに賭ける?」「やべ! マジやばくね?」。

 ここまでやっても、あいつらにとって俺の価値は一瞬のエンタメでしかないわけだ。

 もう、それでいいよ。


「笑い続けて生きろよ、ゴミ共」


 呪いの言葉を告げて、一歩前に足を踏み出す。爪先が空に触れる。

 背後から屋上のドアを開く音がけたたましく響いた。振り向くとそこには一人の女子生徒がいた。

 冷たく鋭い刀剣のような性格、整いすぎた容姿。

 誰に対しても興味を抱かないことから、『氷の女帝』なんて呼ばれている少女だ。

 だけど、今は珍しく随分と焦っているように思える。


「────っ! ────────っ!!」


 女帝の声は、風によってかき消された。女帝の姿は、重力の影響で見えなくなった。

 俺の瞳に映っているのは、汚らしい空だけ。太陽が照り輝く、雲一つない汚らしい空。

 そんな空を眺めながら、重力に従い俺はどこまでも落下していく。

 グチャリ、と気持ちの悪い音が頭に響くと同時に何も考えられなくなった。


◆ ◆ ◆


「──て。──かげん、──てよ!」


 誰かが俺の体を揺すっている。鬱陶しいな……。もう、放っておいてくれよ。


「ねぇ? ……ねぇ!」


 俺は、死んだんだ。ようやく、あの地獄から解放され──


「おきなさい! 私の可愛くないお兄ちゃん!」

「いってぇぇ!!」


 容赦ない平手打ちが、顔面に直撃した。

 予想外の激痛に体を起こす。鼻を中心にジンジンと痛みが広がっていった。


「痛すぎるわ! ちょっとは、てか、げ、ん、を……」


 顔面に平手打ちをしたであろう暴行犯を睨みつけた瞬間、怒りは霧散していった。


「やっと起きた! 遅い! 遅すぎ!」


 その人物は両拳を腰に当てて、俺を睨みつけている。

 中学二年生の割に幼い自分の顔を気にしてか、少しでも大人っぽく見せようと伸ばした髪。風呂上がりに、我が家に一台しかないドライヤーで髪を乾かしていたところに、貸してほしいと頼むと、「女の子は大変なの!」なんて文句を言って決して明け渡そうとしなかった。


「ゆ……柚希?」


 どうしてだ? どうして、ユズがここにいる? というか、ここはどこだ?

 俺は学校の屋上から飛び降りて……ユズが怪訝な表情を浮かべる。


「なに変な顔してるの? それより、起きたならさっさと着替えて。もう、朝ご飯できてるんだからね。入学式から遅刻とか、ダサすぎ」


 それだけ告げると、ユズは不機嫌な足取りで部屋から去っていった。


「入学式、だって?」


 意味が分からない。俺は、屋上から飛び降りて命を絶ったはずだ。

 だというのに、気がついたら自分の部屋で死んだはずの妹に叩き起こされている。


「早くしてよぉ〜!」


 一階からユズの声が響く。ひとまず言われた通りにクローゼットを開けると、そこにはしわ一つない綺麗な制服がかかっていた。まるで、新品のようだ。

 ジャージから制服に着替えて一階へ。ドアを開けて、リビングへと入る。


「おはよう、和希君! 昨日の夜は眠れなかったのかな? 和希君がそんなウキウキだなんて、父さんも一緒にウキウキしちゃうよ!」

「和希、早く食べなさい。遅れちゃうよ」


 父さんと母さんだ。

 父さんと母さん、そしてユズがいる……。


「うっ! うぐっ! ふぐぅぅぅぅぅ!!」

「え!? どうしたんだい、和希君! もしかして、お父さんの笑顔がお気に召さなかったのかい? これでも、会社ではナイススマイルと定評があるんだよ?」


 父さんが慌てて立ち上がり、俺の両肩を摑む。

 その生々しくも力強い感触が心地よくて、気がつけば俺は父さんに抱き着いていた。


「ええええええぇぇぇ!!」

「あ、会いだがっだ!!」

「昨晩も会ってるけど!?」


 突然の事態に混乱する父さん、啞然とする母さんとユズ。

 だけど、どうしてだ? どうして、三人が生きているんだ?

 その時、テレビがニュースを告げた。


『今日から新学期! 二〇二三年度新学期の始まりですね!』


 浮き立ちながらもどこか事務的なアナウンサーの声が、俺に冷静さを取り戻させる。

 二〇二三年だって? おかしいぞ。今は二〇二五年のはずだ。

 ユズ達がいる時点でおかしいのだが、それにしても色々と奇妙なことが起きている。


「……っ! まさ、か……」


 自室でユズから告げられた『入学式』という言葉。

 本来なら死んだはずの三人がここにいる事実。ニュースが告げた、二〇二三年という言葉。

 そんなはずがない、そんなことが起きるはずがない。

 聞き間違いか? 恐る恐る母さんへと問いかけた。


「母さん、今年って何年だっけ?」

「二〇二三年だけど?」

「ぶっ!」

「汚い! それは、汚いぞ和希君! すでに涙と鼻水で父さんのスーツは手遅れになっているわけだけど、そこに唾液のトッピングまでは求めていないぞ!」

「ごめん! じゃあ、唾液じゃなくて涎ということで受け入れてもらって……」

「体液を受け入れるフェティシズムを所持している前提で進めないでもらえないかい!?」


 父さんのそんな叫びを聞きながら、俺は全ての状況を理解した。

 戻っている……。時間が戻っているんだ……。

 俺にとって最悪の思い出しかない、比良坂高校の入学式の日へと。

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