1 路上キス -Smooch-

 後から思い出すと「全ての始まりだった」と思えるその日も、夕方まではなんでもない、ありふれた一日だった。


 その日、俺は夕食をった後、ふとコンビニに行きたくなって外に出た。

 季節は梅雨だった。夕方まではさめが降っていたが、夜になった今はんでいた。だが雨の気配はまだ空気の中に漂っていて、皮膚に感じる風は重たく湿っていた。

 帰宅ラッシュの時間だからだろう、駅前は人であふれていた。

 時間的にオフィスワーカーの人が多かったが、大学生風の人や、ベビーカーを押している家族連れや、エコバッグを提げた老人など、様々な人がいた。

 人混みの中にはカップルもいた。

 ちょうど俺の目の前を、一組のカップルが歩いていった。

 年齢は高校生か大学生くらい、つまりは高校二年生の俺の少し年上だった。二人は手をつなぎながら、幸せそうにほほっていた。

 俺はカップルが苦手だ。カップルを見ると、なにかばちが当たればいいのになと思ってしまう。自分でも性格が悪いようで嫌になってしまうが、どうしてもさいな神罰を願ってしまう。

 なんて、そんなことを他人に言ったら、人は俺のことを心の狭い、陰キャのひがみのようなものを持っている人間だと思うのだろう。

 そしてそれは半分くらい事実なんだろう。悲しいことに。

 だが、言い訳のようだが、俺がこういうじくれた人間になってしまったのには、理由がある。

 それは──ふじしろいんのせいだ。

 ルインは俺の、小学生の時からのおさなじみだった。そして、認めたくはないが初恋の人だった。ファーストキスをささげた人間でもある。俺の短い人生における、たった一人の元カノ……と言っていいのか、それはいまだにわからず、そこは複雑な事情があるのだが、ともかくルインは日陰者の俺の人生に現れた、光のような異性の一人だった。

 なのに、あいつは──。

 その時だった。

 さっきのカップルなんて目じゃないくらいの、ひときわ目を引くバカップルがやってきた。

 女の方が男の方を後ろから抱きしめていて、半分おんぶのような格好で歩いていた。男はその状態を楽しむように、わざとのろのろと進んでいた。

 つまりは公衆の面前で抱き合いながら歩いているような状態だった。さっき見たカップルよりも年齢は若く、俺と同年代くらいだった。

 節度を失っていると思ったのは俺だけではないらしい。他の通行人も二人を見ては、眉をひそめたり、目をらしたりしていた。幼児が二人の方をじっと見つめていたが、「見ちゃいけません」と母親にたしなめられていた。

 こういうやつらを見ると、品性のないやつらだと思う一方で、自分もこんなふうに彼女を作って、青春をおうしてみたかったのにな、という羨ましさもむくむくと湧き上がってくる。

 そして、なんでこんなにも品のない連中が青春をおうしているのに、日々をつつましく生きている俺にそれができないんだろうという、不条理な気持ちもやってくる。

 そう思いながら彼らを見ていると、二人はおんぶの姿勢から、向き合うような姿勢に変わって──、

 急に濃厚なキスをし始めた。

 見ている俺が、思わず声を漏らしそうになるくらいに熱烈なキスだった。駅前をラブホテルだと勘違いしているんじゃないかと心配してしまうようなキスだった。そしてやたらとキスの時間が長かった。カップ焼きそばでも作れそうなくらい長かった。

 実に最悪な気分になってきた。

 もうちょっと年上のカップルであれば、「俺にも将来彼女ができて、こんなふうにイチャイチャできるかもしれない」と自分を慰めることもできるのだが、なまじ年齢が近そうなだけ、その言い訳も使えない。

 だいたい、こういった頭の悪そうな人種を、自分は羨んでいるのだろうかと思わされるだけで、嫌な気分になってくる。

 さっさと無視してコンビニに行こうと思った、その時だった。

 カップルの女の方を見て、俺はに気づいた。

 に気づいてしまうと、最悪な気分は、もっと最悪になった。

 一目で気づかなかったのは、髪の色が、よりも明るく染め直されていたからだ。

 おそらくは市販のヘアカラー剤を使ったのだろう。彼女の髪はどこか人工的な光沢を持った青色になっていて、たぶん意図的でない夜空のようないろむらができていた。

 それから、私服のを見たのがとても久しぶりだというのもあった。

 彼女の耳元には、銀色のピアスが一つ着いていた。そして首元にはスタッズの付いた革製のチョーカーが巻かれていた。黒のハーフキャミの上にシースルーのアウターを羽織っていた。ワイドベルトのミニスカートを穿いていて、そこから伸びる脚はどこか無防備な印象があった。やけにソールの高い、歩きにくそうなブーツを履いていた。

 くわえてその顔には見覚えがあった。目が大きく、顔のパーツの一つ一つの形がいい、誰だって美人だと認めざるを得ないような整った顔立ちをしていた。

 藤代瑠音だ。

 彼女は俺の初恋のおさなじみ、そして、今となっては何の関わりもなくなってしまった、俺の人生で唯一の元カノだった。

 ルインが見知らぬ男と、路上で熱烈なキスを交わしていた。その光景を、俺はまじまじと見せつけられていた。もちろん勝手に見ているだけで、強制されているわけではないけれども、衝撃のあまり体が硬直し、首の角度すらも動かせなくなってしまったのだった。

 男の手が伸びて、ルインの胸がついでのようにまれていた。ルイン自身も首を動かして、男の体を求めていた。

 二人が情熱的に舌をからませっているところを、俺はなすすべもなく見つめていた。



 藤代瑠音──。

 彼女を一言で表すとビッチだった。

刊行シリーズ

宮澤くんのあまりにも愚かな恋の書影
宮澤くんのとびっきり愚かな恋の書影