その日は、新雪が積もって肌寒かったのを覚えている。
寒い寒いと言いながら母さんと乗り込んだ桃色の軽自動車は、エンジンをかけても温風が出るまで時間がかかる。その間に、母さんの好きなゆったりとしたバラードが流れて、水晶のネックレスを瞬かせながら歌を口ずさむ。その横顔を横目に心地よい和音に浸っていると、足元が暖まってくる。その後になって、可愛らしいパステルカラーの軽は走り出すのだ。
冬場に訪れる、いつもの日常。何もかも欠伸が出るほど繰り返しで、その日もいつものように、イオンへの買い出しに付き合わされるはずだった。
はずだった、のに。
サイドミラーの奥から突っ込んで来るトラックを視認した時には、もう手遅れだった。
「──気がついたか!? しっかりしろ!!!!」
気付いた時には、担架の上だった。救急隊員の声が、近くて遠い場所から聞こえてくる。
仄暗い意識が覚醒し始めたと同時、五感へ莫大な情報が押し寄せてきた。
薄墨色の空。頰に降ってきた雪の冷たさ。幻想的な白銀の世界に似合わぬガソリンの香り。鳴り響くサイレンに──焼かれるような右半身の疼痛。
突如爆発した激痛に、絶叫した。呼応するように、世界も金切り声を上げた。
そして、のたうつ俺の目に、どうしようもない異物が映り込む。
フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走った大型のトラックと──踏まれた果実みたいにぐちゃぐちゃに潰された軽自動車の残骸だった。
ひゅおっ、と喉が干上がった。
痛みすら一瞬失われる惨劇を目にして、プツンと糸が切れるみたいに意識を失った。
次に目が覚めたのは、病室だった。
事故から二日が経っていた。意識を手放している間に主要な手術は終わっていて、右腕はぬいぐるみか何かのように糸で傷口が塞がれていた。開放骨折というやつらしかった。
透明なパックが頭上にぶら下がり、一定拍で水滴を落としていた。その非日常感に、眩暈と耳鳴りがした。全ての雑音から逃げるように、濡れたティッシュを耳へ詰め込んだ。
『母さんはどうなったんですか』
不安に満ち満ちて震える手で、画用紙に問いを記す。
診察に来た医師は一度首を捻るも、合点がいったような顔で返答を書いていく。
『君と一緒に助け出されたよ。検査が終わったら、会いに行ってあげなさい』
看護師に付き添われて向かった部屋は、ICU──集中治療室だった。ガラスの向こうで身体中から無数のチューブを生やす母さんの姿は、今まで経験したどんな窮地より怖かった。不意に強い雑音が混じって、直視することができなくなった。
そんな時、母さんの口癖を思い出した。
『水晶にはね、邪気を払ってくれる力があるって言われてるんだよ』
だとしたら、きっと、いつでも水晶のアクセサリーを身につけていた母さんは大丈夫なはずだ。そう自分に言い聞かせて、医師から渡された母さんのネックレスをぎゅっと握りしめた。
それから、リハビリに没頭した。母さんの意識が戻るまでに、身体を万全な状態まで戻しておかないと。そう、前を向きながら。
半年後。俺の努力は実を結び、日常生活にほぼ支障がないレベルにまで身体能力は回復した。
しかしながら、母さんからは全ての音が失われた。
結局、一度も目を覚まさなかった。
──奇跡なんて、何処にもありはしなかった。
◇◇◇
話し終わっても、星宮は何も答えなかった。ただ黙って俺を見ている。二人きりの静寂は、動物園に住まうやや遠い喧騒が踏み荒らした。自分とは関係ない人生がそこらで巡っていることを感じて、また一人だけ、世界から置いて行かれたような感覚に陥った。
「母さんが死んで……でも、せめて……二人で目指した夢だけは、追いかけようと思ったんだ」
言って、水晶のネックレスをシャツの下から取り出した。母さんの形見だ。
その控えめながら純粋な輝きは、しかし不相応に暴力的な爆音で俺を殴りつける。そして最終的には、その心を憎悪へと変貌させるのだ。
──どうして救ってくれなかったのだ、と。
「実は俺は、eSportsのプロを目指す音ゲーマーだったんだ。知ってるかもしれないけど、スマホとかタブレットでもできる『モバイルパネラー』って音ゲーアプリがあってな。ワンプレイごとに百円必要な筐体じゃ金なくてやり込めなかったから、それが専門だった」
『モバイルパネラー』──通称モバパネは、eSportsの種目にも採用された有名な音ゲーだ。扱っている曲の傾向としては、アニソンやドロシー楽曲など、サブカル的な曲が多い。
そんなモバパネで頂点を目指すなら、タブレット端末が必須だった。母さんに頼み込んで買ってもらった。先行投資だなんだと言い訳して貯金を崩してくれた。だから、頑張れた。
「最初は、ノイズからの逃避手段だった。リズミカルに叩く音ゲーは、ノイズがしなかったからな。でも、いつの間にか、それでプロになるのが俺の夢になってた。だから、退院したあと、俺はeSportsの世界へ戻ろうとした。……でも、もう、駄目だったんだ」
「ブランクってこと?」
「違う。……後遺症だよ」
右腕の長袖を捲し上げる。その下から、巨大なムカデのような縫合の痕が顔を出した。
星宮の息を吞む音が聞こえた。
「事故の影響で、指先には痺れが残ってる。こんな状態で、音ゲーなんてまともにできるわけなかった。一フレーム一二〇分の一秒の世界じゃ、致命的なハンデだったんだよ」
ふと自身の右腕へ目をやる。まっすぐ走る痛々しい手術痕は、呪いのように消えてくれない。
「でも、一番は、モチベーションだった。俺は、プロになりたかった。だから友達なんてもんも作らず研鑽して……でもそれは、全部母さんのためだったんだって、気づいたんだ」
夫──俺の父親を早くに亡くし、妙な体質に苛まれる一人息子を女手一つで育ててくれた母さん。そんな自慢の母が応援してくれたからこそ、早くプロゲーマーになって楽をさせてやりたかった。だから、毎日バカみたいに練習していた。
毎日が、輝く音で満ちていた。
徹夜で練習している時はお茶漬けを用意してくれた。試合を勝ち抜くたびに大袈裟に喜んでくれ、好物の麻婆豆腐を作ってくれた。eSportsの名前が浸透してきたとは言え、中高生の息子がゲームに熱中していてここまで純粋に応援できる親が、日本に一体どれだけいるだろう。
でも、全部過去形だ。
今の俺に、かつての輝きは微塵も残されていない。
「全部失った。全部パァだ。もう母さんはいない。自己ベストを更新したとして、真っ先に伝えたい人はもういないんだ」
残ったものは、自身を苦しめる原因不明のノイズだけ。だったらもう、生に執着なんてない。この生き地獄を駆け抜けるための理由が、もうないのだから。
「だから。もう、終わらせよう。──そう思ったんだ」
夕陽が、地平の向こうへ消えていく。これから、ビルが乱立した街並みは暗闇に落ちていき、一方で人工的な光が灯っていくのだろう。俺を、独り置いていくようにして。
星宮は、キャップの鍔を摘まんで目元を隠す。一方で、その口元は真一文字に結ばれていた。
「……えっ?」
ふと、星宮が驚いたように目線をあげる。そのまま、円かな瞳をパチパチとしばたたかせた。
「なんだよ」
「いや、べつに……」
言いながら、星宮は疑念の視線を止めない。突然の来訪者に警戒する飼い犬みたいだった。
「まぁ、良いか。ねぇ月城さ。あんた、今から帰ってもやることないわよね?」
「え? まぁ、そりゃ」
「だったらさ、」
星宮はサングラスをかけると、ベンチを立つ。
「ウチ、寄ってきなさいよ。夕飯くらい食べていきなさい」