Chapter. 2 雑音の牢獄、正しい音色の奏で方④

 その日は、新雪が積もってはだざむかったのを覚えている。

 寒い寒いと言いながら母さんと乗り込んだももいろの軽自動車は、エンジンをかけても温風が出るまで時間がかかる。その間に、母さんの好きなゆったりとしたバラードが流れて、すいしようのネックレスをまたたかせながら歌を口ずさむ。その横顔を横目にここよい和音にひたっていると、足元が暖まってくる。その後になって、わいらしいパステルカラーの軽は走り出すのだ。

 冬場におとずれる、いつもの日常。何もかも欠伸あくびが出るほどかえしで、その日もいつものように、イオンへの買い出しに付き合わされるはずだった。

 はずだった、のに。

 サイドミラーの奥からっ込んで来るトラックをにんした時には、もうおくれだった。

「──気がついたか!? しっかりしろ!!!!」

 気付いた時には、たんの上だった。救急隊員の声が、近くて遠い場所から聞こえてくる。

 ほのぐらい意識がかくせいし始めたと同時、五感へばくだいな情報が押し寄せてきた。

 うすずみ色の空。ほおに降ってきた雪の冷たさ。げんそう的な白銀の世界に似合わぬガソリンの香り。ひびくサイレンに──焼かれるような右半身のとうつう

 とつじよばくはつした激痛に、ぜつきようした。呼応するように、世界も金切り声を上げた。

 そして、のたうつ俺の目に、どうしようもない異物が映り込む。

 フロントガラスに状のヒビが走った大型のトラックと──まれた果実みたいにぐちゃぐちゃにつぶされた軽自動車のざんがいだった。

 ひゅおっ、とのどがった。

 痛みすらいつしゆん失われるさんげきを目にして、プツンと糸が切れるみたいに意識を失った。


 次に目が覚めたのは、病室だった。

 事故から二日がっていた。意識を手放している間に主要な手術は終わっていて、みぎうではぬいぐるみか何かのように糸で傷口がふさがれていた。開放骨折というやつらしかった。

 とうめいなパックが頭上にぶら下がり、一定拍ですいてきを落としていた。その非日常感に、眩暈めまいと耳鳴りがした。全ての雑音からげるように、れたティッシュを耳へめ込んだ。

『母さんはどうなったんですか』

 不安に満ち満ちてふるえる手で、画用紙に問いを記す。

 しんさつに来た医師は一度首をひねるも、てんがいったような顔で返答を書いていく。

『君といつしよに助け出されたよ。検査が終わったら、会いに行ってあげなさい』

 看護師にわれて向かった部屋は、ICU──集中りよう室だった。ガラスの向こうで身体からだ中から無数のチューブを生やす母さんの姿は、今まで経験したどんなきゆうよりこわかった。不意に強い雑音ノイズが混じって、直視することができなくなった。

 そんな時、母さんのくちぐせを思い出した。

すいしようにはね、じやはらってくれる力があるって言われてるんだよ』

 だとしたら、きっと、いつでもすいしようのアクセサリーを身につけていた母さんはだいじようなはずだ。そう自分に言い聞かせて、医師からわたされた母さんのネックレスをぎゅっとにぎりしめた。

 それから、リハビリにぼつとうした。母さんの意識がもどるまでに、身体からだばんぜんな状態までもどしておかないと。そう、前を向きながら。

 半年後。俺の努力は実を結び、日常生活にほぼ支障がないレベルにまで身体能力は回復した。

 しかしながら、母さんからは全ての音が失われた。

 結局、一度も目を覚まさなかった。

 ──せきなんて、にもありはしなかった。


◇◇◇


 話し終わっても、ほしみやは何も答えなかった。ただだまって俺を見ている。二人きりのせいじやくは、動物園に住まうやや遠い喧騒ノイズらした。自分とは関係ない人生がそこらでめぐっていることを感じて、また一人だけ、世界から置いて行かれたような感覚におちいった。

「母さんが死んで……でも、せめて……二人で目指した夢だけは、追いかけようと思ったんだ」

 言って、すいしようのネックレスをシャツの下から取り出した。母さんの形見だ。

 そのひかえめながらじゆんすいかがやきは、しかし不相応に暴力的なばくおんで俺をなぐりつける。そして最終的には、その心をぞうへとへんぼうさせるのだ。

 ──どうして救ってくれなかったのだ、と。

「実は俺は、eSportsのプロを目指す音ゲーマーだったんだ。知ってるかもしれないけど、スマホとかタブレットでもできる『モバイルパネラー』って音ゲーアプリがあってな。ワンプレイごとに百円必要なきようたいじゃ金なくてやり込めなかったから、それが専門だった」

『モバイルパネラー』──つうしようモバパネは、eSportsの種目にも採用された有名な音ゲーだ。あつかっている曲のけいこうとしては、アニソンやドロシー楽曲など、サブカル的な曲が多い。

 そんなモバパネで頂点を目指すなら、タブレットたんまつひつだった。母さんにたのみ込んで買ってもらった。先行投資だなんだと言い訳して貯金をくずしてくれた。だから、がんれた。

「最初は、ノイズからのとう手段だった。リズミカルにたたく音ゲーは、ノイズがしなかったからな。でも、いつの間にか、それでプロになるのが俺の夢になってた。だから、退院したあと、俺はeSportsの世界へもどろうとした。……でも、もう、だったんだ」

「ブランクってこと?」

ちがう。……こうしようだよ」

 みぎうでながそでまくげる。その下から、きよだいなムカデのようなほうごうあとが顔を出した。

 ほしみやの息をむ音が聞こえた。

「事故のえいきようで、指先にはしびれが残ってる。こんな状態で、音ゲーなんてまともにできるわけなかった。一フレーム一二〇ぶんの一秒の世界じゃ、めい的なハンデだったんだよ」

 ふと自身のみぎうでへ目をやる。まっすぐ走る痛々しい手術こんは、のろいのように消えてくれない。

「でも、一番は、モチベーションだった。俺は、プロになりたかった。だから友達なんてもんも作らずけんさんして……でもそれは、全部母さんのためだったんだって、気づいたんだ」

 夫──俺の父親を早くにくし、みような体質にさいなまれる一人むすを女手一つで育ててくれた母さん。そんなまんの母がおうえんしてくれたからこそ、早くプロゲーマーになって楽をさせてやりたかった。だから、毎日バカみたいに練習していた。

 毎日が、かがやく音で満ちていた。

 てつで練習している時はおちやけを用意してくれた。試合をくたびにおおに喜んでくれ、好物のマーボーどうを作ってくれた。eSportsの名前がしんとうしてきたとは言え、中高生のむすがゲームに熱中していてここまでじゆんすいおうえんできる親が、日本に一体どれだけいるだろう。

 でも、全部過去形だ。

 今の俺に、かつてのかがやきはじんも残されていない。

「全部失った。全部パァだ。もう母さんはいない。自己ベストをこうしんしたとして、真っ先に伝えたい人はもういないんだ」

 残ったものは、自身を苦しめる原因不明のノイズだけ。だったらもう、生にしゆうちやくなんてない。このごくけるための理由が、もうないのだから。

「だから。もう、終わらせよう。──そう思ったんだ」

 ゆうが、地平の向こうへ消えていく。これから、ビルが乱立した街並みはくらやみに落ちていき、一方で人工的な光がともっていくのだろう。俺を、独り置いていくようにして。

 ほしみやは、キャップのつばまんで目元をかくす。一方で、その口元は真一文字に結ばれていた。

「……えっ?」

 ふと、ほしみやおどろいたように目線をあげる。そのまま、まどかなひとみをパチパチとしばたたかせた。

「なんだよ」

「いや、べつに……」

 言いながら、ほしみやは疑念の視線をめない。とつぜんの来訪者にけいかいする飼い犬みたいだった。

「まぁ、いか。ねぇつきしろさ。あんた、今から帰ってもやることないわよね?」

「え? まぁ、そりゃ」

「だったらさ、」

 ほしみやはサングラスをかけると、ベンチを立つ。

「ウチ、寄ってきなさいよ。夕飯くらい食べていきなさい」

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星が果てても君は鳴れの書影