総合案内所の周りは入退場のゲートも近い。一七時過ぎにもかかわらず、周辺は新たに入園してきた来園者でいっぱいだ。こんなところに引退した天下の大女優様が現れたと知られれば、瞬く間に大パニックだろう。
星宮は「あ、あはは」と苦笑いしながら、グラサンを少しずらして母親へ目配せをする。
「お忍びなので、内密にお願いしますね? あ、この男の子は『つばめ園』の弟なので、恋愛スキャンダルとかじゃないですよ」
俺を指しながら、困り顔で微笑む星宮。その表情からは、『本当は嫌だけど仕方なく正体を明かした』ことがさりげなく、しかし強烈にメッセージとして放たれていた。こんな顔で頼まれてしまえば、誰一人として逆らうことなどできないだろう。女優ってすごい。
『はーい!! ではここで、スペシャルなゲストをお呼びしたいと思います!!』
ふと、そんな声が、園の中央から聞こえてきた。ヒーローショーなどで使われるオープンステージで何かしら催し物をしているらしかった。
司会の声に煽られるように、観客もわぁーっと叫んでいる。幼児が好き勝手に楽器を叩いたようなノイズの多重奏に、耳鳴りがした。
思わず、早く帰ろうぜという心底嫌そうなアイコンタクトを星宮へ送る。
彼女は少しだけ眉を垂らして「まぁまぁ」と宥めてきた。
しかし、可愛さで完成されたその顔は、次の瞬間に凍りついた。
『ではお呼びします!! 愛知の誇るヒロイン、『さんごじゅうごっ!』さんのお二人です!』
「あーっ!! 『さんごじゅうごっ!』だ! おかぁちゃん、はやくいこ!!」
興奮しながら言ったのは、迷子だった兄。申し訳なさそうに会釈する母親を引っ張って、一直線にステージの方へ走り去っていった。
兄弟へ手を振る星宮の笑顔が、やけに寂しそうに見えた。
***
俺は、動物園のはずれにある、ほとんど人のいないベンチに座っていた。
隣では、グラサンをキャップの鍔に載せた星宮が足を組んでスマホを弄っている。
「にしても、あの集団なんだったんだよ……」
本当に、ふざけるなよと言いたい。
あのあと退園しようにも、ひっきりなしにやってくる入場者のせいで激しいノイズに苛まれ、とてもじゃないがゲートを通り抜けることができなかったのだ。そのため避難場所として、カップルが内緒でキスするような茂みの裏の隠れ家っぽいベンチに身を隠す羽目になっている。
「『さんごじゅうごっ!』よ」
星宮が、スマホを眺めながら硬質な声で呟く。
「名古屋出身の女性お笑いコンビ。こないだ漫才グランプリで準優勝した。美人で、女優としても活躍中。……今日、トークイベントが計画されてたみたいね。気づかなかった」
「……なんで星宮まで嫌そうなんだよ」
「あんた、あたしのこと全然知らないのね」
「テレビより音ゲーばっかしてたからな。ドキュメンタリーを無音字幕で見るくらいしか」
星宮は、わざとらしく『はぁ』とため息を溢した。
「まぁ、別にいいんだけどさ」
すっかり陽は傾き、空は茜色に染まりつつある。動物園は少しだけ高台の位置にあるため、このベンチからは陽を吞み込んでいく名古屋の街並みがよく見えた。
星宮は、そんな輝かんばかりの風景を、色を失った瞳で眺めていた。
「どうしたんだよ」
儚げに揺らぐ横顔へ問いかける。
「……何が?」
「いや、明らかに元気ないだろ。他所行きの営業スマイルに疲れたのか?」
「まさか。あれで二四時間ぶっ通せるわよ」
それはきっと本当なんだろうけど、事実として今の彼女は覇気がない。まるで、彼女という人間を支えていた柱の一つが、ひび割れてその力を失ってしまったみたいに。
「……愛知のヒロイン」
星宮は吐息に混ぜ込んで、自虐するように言った。
「あれね。引退するまでは、あたしの代名詞だったのよ」
「そうなのか。知らなくて悪かった」
「そんなことが言いたいんじゃなくて」
星宮は、ひと呼吸置く。言葉を選んでいるみたいだった。
「なんか……軽いなぁ、って」
ようやく絞り出されたのは、冷たく、感傷的な声。
「こうやって芸能界も新陳代謝してさ、その度にみんな新しいエンタメへ乗り換えていってさ。今はあたしもさっきみたいに芸能人ムーブしてたけど、いつまで覚えていてもらえるんだろう」
「……」
「しょせんあたしはエンタメの一つ。消費されておしまい。迷子だったあの子も、あたしのこと、そのうち忘れちゃうのかな……なんか、そんなふうに感じちゃってさ」
いつになく後ろ向きな考え方だった。
自殺を止められた時も、今日一日を隣で見てきても、彼女という人間の根底にあるのは『前向き』というイメージだった。それは、人を巻き込んで、脇目も振らずに直進していくような。
「だったら、女優辞めなければよかったじゃんか」
だから、純粋な疑問が転び出た。言ってしまってから、悪手だったと気がついた。
「……そうだね」
星宮は消えそうな笑みで、控えめに呟いた。小さなキャップをこれでもかと目深に被り直し、その表情は窺い知れない。まさか、泣いていることはないと思うけど。
罪悪感から、夕焼けへ目を逸らす。
どう考えても地雷だ。星宮が芸能界を引退した理由はわからないけど、きっと止むに止まれぬ事情があったに違いないのだから。
沈黙が流れる。遠くから聞こえる談笑のノイズがやけに大きく聞こえた。
居心地の悪い空気に居た堪れなくなり、新しく話題を振った。
「その帽子、小さくないか?」
「……妹のよ。変装のために買うなんてバカらしいし」
「妹いるんだな……なぁ。そういえば、『つばめ園』って何だよ」
小さなキャップの鍔の下から、猫のように鋭い灰色の瞳が覗いた。
「さっき言ってただろ。『つばめ園の弟です』とかなんとか」
「あんた、ほんとにあたしのこと知らないのね」
はぁ、と星宮はため息をつく。覇気がないのは相変わらずだ。
「これ結構有名な話よ。あの星宮未幸は、幼い頃親に捨てられ、児童養護施設で育った、って」
「……あ、あー、言われてみれば、聞いたことあるような……ないような」
「で、あたしが育った施設の名前が『つばめ園』。中学で女優デビューして稼げるようになったら出ちゃったけどね。居心地は悪くなかったけど、経営厳しかったらしくて」
スマホで『星宮未幸 つばめ園』と検索。すると、確かにいくつものネット記事がヒットする。出演料の一部を寄付し続けているだとか、そんな内容まで晒されていた。
「……そうだ。今度はあたしの番。あんたの過去についても教えて」
星宮は、鍔の下から僅かに覗くアッシュの瞳で俺を射貫く。
「四六時中聞こえてくるノイズが辛くて、救済の手段として自殺を選んだのは分かった。でもなんか、それだけじゃないって言ってたわよね?」
「……軽く言ってくれるな」
思わず、声に悪意が乗っかった。
この灼かれるような苦しみを、たった一言でまとめないでほしい。これはもっと、複雑で、ドス黒くて、形容し難い生き地獄だ。文字通り、想像を絶するものだ。理解してほしいとは露ほども思わないけど、決して軽く見られて良いとも思わない。
「軽く言ってるわけ、ないでしょ」
だけど。その少女から発せられた音には、深い真実味が宿っていた。
それはまるで、一点の穢れもない、宝剣の切先のような。
「ちゃんと教えて。しっかり、聞かせてもらうから」
喉元に突きつけられた鋭利な想いに、俺は観念したように口を開く。
「……生きる意味が、分からなくなったんだよ」
◇◇◇