「まともに聞こえるのはバイソンだけ。後ろからあんなノイズ浴びてりゃ、しんどくもなるよ」
「これでも、平日だから人少ないのよ? ……多分」
「もう帰ろうぜ。動物の声は問題ないって分かったんだからそれでいいだろ」
「何言ってんの。ダメに決まってるでしょ」
さっさと帰ろうとした俺の袖を摑んで、星宮が引き留めてきた。
「今日はノイズに慣れる会。ここでちょっとずつ、楽しみながらノイズに慣らしていこう、ってこと。あんた逃げ続けてきたから耐えられない面もあると思うのよ。リハビリリハビリ」
「……本気で言ってる?」
「本気よ。あたし噓つかないもん」
「電子チケットの名前『ヤマダ ハナコ』にしてたの見えたぞ」
俺の指摘に、わざとらしく口笛を鳴らす星宮。
……本当に、良い性格だ。
結論を言えば、答えは変わらなかった。
動物の鳴き声はクリア。だけど、人の話し声や仕草はもちろん、至る所にあるポップや看板も耳障りなノイズになるし、そして一向に慣れる気配がなかった。寧ろ嫌悪感が増したまである。嫌いな食べ物を無理やり食べさせられて、更に嫌いになるみたいに。
俺は、園内のフードコートの丸テーブルに突っ伏して伸びていた。精神的に磨耗しすぎた。
時刻は一五時。人が集まるお昼時を避けたため、ガラガラなのは救いだった。
「あんたの分のラーメンも持ってきたわよ」
オーダーした料理を受け取ってきた星宮が対面へ腰掛ける。
俺は手のひらだけ持ち上げて『サンキュ』の意思を伝えた。
「にしても、ほんとに辛いのね」
「だから言ってんだろ……」
耳のすぐそばで数時間、黒板を引っ搔かれ続けてみろと言ってやりたい。
俺は顔を上げて、星宮からラーメンをトレーごと受け取った。星宮の奢りだった。彼女は、チーズバーガーとチュロスを注文したようだ。
ちぢれた中華麵に、具がネギとチャーシューだけのシンプルな醬油ラーメンだった。俺はなんの感想を抱くこともなく、補給のような気持ちで一口ラーメンを啜る。
同時に、驚愕した。……めっちゃうまい。
麵を口にした途端、複雑な旨みが舌で躍った。料理に明るいわけじゃないためこれが何なのか分からなかったけど、とにかく、ジーンと染み込むような魚介系の旨みに、鼻から抜ける鮮烈な煮干しの香りが次の一口を急かしてくる。動物園のラーメンが何でこんなに美味いんだ?
ちら、と星宮を見る。彼女は、もさもさとチーズバーガーを頰張っている。心なしか、眉間に皺が寄っているようにも見える。あまり美味しくないのだろうか。
自慢してやろうとも思ったものの……星宮に感想を言ったところで何の意味もないか。
喉まで出かかった言葉を吞み込み、そのままラーメンを啜っていく。
隣にいる少女に、一瞬ノイズがかかったような気がした。
***
一七時を回ったあたりで、今日のところは帰ることになった。これ以上動物園を巡っても収穫はないと星宮が判断したのだ。これでようやくノイズ地獄から解放される、と胸を撫で下ろした──のだが、そんな甘えは世界が許さなかったらしい。
今朝入ってきたゲートへ向かう道すがら、星宮が遠くを見るように目を細める。何かを見つけたようだ。テナガザルの大きな檻の前で、小さな影がふたつ、蠢いている。
子どもが二人だ。お揃いの青い服で、手を繫いでいる。兄弟だろうか。兄が五歳くらい。弟の方は……かなり小さい。歩き始めたばかりくらいなんじゃないだろうか。
兄の方は、目に見えて不安そうにあちらこちらへ視線を泳がせていた。
「迷子か?」
「みたいね。行きましょ」
は!? と叫ぶ俺を置いて、星宮は迷子兄弟の元へ向かってしまう。
子どもは、嫌いだ。基本的にうるさいからだ。泣き叫ばれようものならもはや兵器だ。できるだけ関わりたくなかったけど、渋々彼女の後をついていく。
星宮は腰を下ろして、啜り泣く兄弟と同じ目線になって話しかけた。
「お兄ちゃんたち、どうしたの? 迷子になっちゃったの?」
不思議と、安心する声だった。『お姉さん』という役割の声だった。その慈悲深い柔らかな声質は、今日一日、一緒に動物園を見て回った星宮と同一人物とは思えないほど。
兄はそれでも、星宮を警戒してか何も話さない。……多分、問題は見た目だな。グラサンが怖いのかもしれない。星宮にそっと耳打ちをして、グラサンを外させた。
「えっ、ほしみゆちゃん……!?」
兄の方は、星宮のことを愛称まで知っていたらしい。黒目がちな瞳をまん丸に見開いていたが、俺も同じくらい驚いていた。星宮の顔と名前は、こんな子どもにまで伝わっているのか。
星宮は、人差し指を口に当て、悪戯っぽく微笑むと、
「しーっ。今ね、秘密の任務中なの。みんなに言っちゃダメだよ。守れるかな?」
「う、うん」
「よーし、良い子だ。お母さんはどこにいるか分かる?」
「おかぁちゃんはね……ぐすっ、おかぁちゃんがぁ、いなく、なっちゃったぁ……!!」
最初はハキハキと喋っていたが、思い出したように、言葉尻が弱々しくなっていく。
「ぼ、ぼくが、おにいちゃんだから、しっかりしてなきゃ、いげなかっだのに……」
大粒の涙が、堪えきれないとばかりにボロボロと溢れ落ちていく。
これは絶叫まで秒読みだと判断し、反射的に身構えた。──そして。
「~♪」
澄んでいて且つ芯のある力強い、国民的アンパンヒーローのメロディーが奏でられた。
それは、澄み渡る快晴のような、はひゅーに勝るとも劣らないクリアな歌声だった。
兄の泣き顔が、一瞬で驚いた顔に切り替わる。
声質もそうだけど、リズムも完璧だった。それは、思わず安心感を覚えるほどに。
「お兄ちゃんはすごいよ。心細くなっても弟君の手は離さなかった。君は立派なヒーローだ!!」
「……ほんと? アンパンマンみたい?」
「もちろん!! 泣き止んでえらいぞっ。じゃあ、お姉ちゃんと一緒にお母さんを探そうね!!」
「う、うんっ!!」
兄の顔が、パァッと明るく弾けた。
星宮は俺の方へ振り返ると、にししと笑って親指を立てる。
隣にいる子どもとどちらが年上か分からなくなるほどのその無垢な笑顔は、柔らかな単音となって響き渡った。それは、この場のノイズを一掃するほどの、澄んだ音色だった。
星宮はグラサンをかけ直すと、「うーん」と唸り始める。
手を繫がれた兄は「どうしたの?」と彼女を見上げた。
「うん、よし。迷子センターにお母さんいそうだね。お兄ちゃん、お母さんはあっちだ!!」
一転して星宮は嬉しそうに、入退場のゲートがある方向を指差した。無邪気にもテンションが上がった兄を追うように、示した方向へ駆け足で向かい始める。
それを追いかけながら、星宮へ耳打ち。
「待てよ星宮。何でそんなこと分かるんだよ」
「そりゃもちろん、視たからよ」
「何を?」
「この子が迷子センターに着いた瞬間の未来」
その輝く笑顔には、一点の迷いもなかった。
迷子兄弟の母親は本当に、迷子センターを兼ねた総合案内所で待っていた。自販機で飲み物を買ったその一瞬で、姿を見失ってしまったらしい。
本当にありがとうございました、と母親が俺たち二人にペコペコと頭を下げる。
「いえ、無事にお返しできてよかったです」
星宮は兄弟へ軽く手を振る。対して、小さな兄は元気いっぱいの声で、
「ありがと!! ほしみゆちゃん!!」
ぎくっ、という音が聞こえた気がした。母親や総合案内所の係員は『えっ?』という顔だ。
……こいつ、最後に爆弾投下しやがった。