あれから、二週間が経った。
俺は、ボロアパートの寝室で寝転がりながら、スマホを眺めて物思う。
LINEは交換したものの、この二週間まったくやり取りがなかったため、あれは夢だったんじゃないかという気すらしていた。だけど、友だちリスト(5)の中で異彩を放っている『未幸』という見慣れない名前がそれを否定する。
小腹が空いたが家には何も食べるものがない。というか、面倒なので最近は一日一食だ。もっぱら、近所の松屋に通っている。券売機だけで注文でき、イヤホンを外さなくても良いためだ。他の飲食店だと、なかなかこうはいかない。
だから俺にとって、家ほど落ち着ける空間もなかった。
母さんと住んでいた時からそうだけど、家だとほとんどノイズが聞こえないのだ。家具家電をはじめ、さまざまな物体が所狭しと詰め込まれていたのにもかかわらず、だ。
なんとなくの法則性は摑めている。他人の生活の香りがすると、それはノイズになる傾向があるのだ。図書館の本とか、古着とか。
だから、家はすこぶる快適で……考えてみれば、理想の死に場所な気がしてきたぞ。
直後、スマホの画面上部にLINEのバナーが現れた。危うい思考に吞まれかけた俺を現世へ引き止めるように、タイミングよく『未幸』からのメッセージを受け取ったみたいだ。
『明日、暇よね?』
断言にも似た質問だった。
高校を退学してニートになった上、自殺までしようとした男に予定なんかあるわけがない。
反抗してやりたいちっぽけなプライドが顔を覗かせたが、虚しいだけなので普通に返答した。
『そりゃそうだろ』
『朝一〇時、名駅の金時計前集合ね』
『何のために?』
それっきり、返事は来なくなった。
***
名古屋駅。JRや新幹線はもちろん、市営地下鉄や三つの私鉄の主要駅ともなっている中部地方最大のターミナル駅だ。そして、地下はアリの巣のように複雑な通路が走り回り、頭上は天にも昇る高さの高層ビルが覇を競うように立ち並んでいる。
また、リニア中央新幹線の開業へ向けて再開発も進んでおり、解体中のビルも散見された。
俺は、そんな摩天楼のど真ん中を、理由も分からないまま歩かされていた。
耳には、ワイヤレスイヤホン。はひゅーの歌う曲だけを流すように作られたプレイリストを流しながら、人混みや馬鹿でかい建造物のノイズを上書きして歩き続ける。
名古屋駅の集合場所として有名な『金時計』の存在自体は知っているものの、あまり馴染みのない都会の大迷宮に絶賛迷っていた。
時刻は、すでに約束の一〇時を過ぎている。数分は沈黙を貫いていた星宮のLINEも、ついに苛立ちのスタンプが連打されるようになってしまった。『今向かってるはず』と返答するも、スタンプの洪水に流されていってしまう。こいつ連絡する気あんのか。
と、ついに痺れを切らしたのか、星宮から電話がかかってきた。
俺は一度通話に出て、すぐさま終了の赤いボタンをタップする。
『なんで切るのよ』
直後、星宮からメッセージが飛んできた。
『うるさくて電話出れないんだよ』
『イヤホンしてるなら大丈夫でしょ』
『そっちの環境音も拾うじゃん、無理』
『あーもう、めんどくさいな。あんたの周りの景色、写真撮って送って。あたしがそっち行く』
言われるがまま、前後左右の写真を星宮へ送付した。そこから動くなとの命令が飛んできてから、およそ一〇分。彼女が現れた。
小さなキャップに大きなグラサン、ベージュのウレタンマスクという如何にもな変装スタイルだった。衣服も肩の出た強気な黒いブラウスにショート丈の紺のスカートと、頭部に負けず劣らずの自己主張の激しさで、行き交う人混みから格別に浮いている。
……星宮って、清楚な女優なんじゃなかったっけ。私服のイメージが違いすぎる。
彼女は俺に人差し指を向けながら何かを捲し立てているみたいだが、耳栓みたいなカナル型イヤホンとはひゅーの歌声をフル装備しているせいで欠片も届かない。LINEで『今は何も聞こえない』とだけ打ち込んで、彼女へ画面を見せた。
星宮は何か言いたそうに口元を引き攣らせるも、すぐに諦めたようだ。面倒くさそうにスマホへ何かを入力すると、俺のLINEにメッセージが届いた。
『タクシー乗るわよ』
***
タクシーに揺られること三〇分強。目的地に到着したようだ。
『イヤホンはあたしが預かるわ。外してから降りて』
俺は嫌々ながらもイヤホンをケースにしまい、星宮に渡してからタクシーを降りた。
降車した瞬間目に飛び込んできたのは、デフォルメされた豚のような生き物が歓迎の言葉を綴っているゲートだった。牛舎のような獣の香りも漂う。ここがどこかは、一目瞭然だった。
「……動物園?」
「そ。ノイズなくしましょう作戦の第一弾」
星宮はグラサンをつけたまま、マスクだけを外して快活に笑った。
「色々考えてみたんだけど、ここならノイズ少ないんじゃないかって思って」
言いながら星宮は歩いていく。走り去るタクシーの音や、子どものテンションをくすぐるような潑剌としたゲートから鳴る雑音に顔をしかめながらも、俺は彼女の後ろ姿を追っていく。
「あんたきっと、人工物にノイズ感じるんじゃないかな」
凜とした後ろ姿から、そんな声が飛んでくる。
「街中にいると自殺したくなるくらいうるさいって言ってたのに、こないだの廃線駅前の橋だとそうでもなかったみたいだし。ってなると、自然物は平気なのかなって。違うかな?」
「……大体合ってるよ」
「やっぱし。となると、自然物の中でも、生き物はどうなのかなって思ったのよ」
星宮はゲートの係員へスマホを提示する。ネットで電子チケットを買っていたようだ。
ゲートを通ると、すぐそこにアメリカバイソンがいて、いびきにも似た低い声で鳴いていた。
突然の野太い鳴き声に星宮は「おおぅ」と驚いていたが、口元は愉快そうに笑っていた。
「あはは、牛っぽい声」
「牛だからな」
「で、どう? 月城。バイソンパイセンの声は」
この放屁みたいな鳴き声をクリアと表現するのは憚られるけれど、ノイズの膜に覆われることなくこの耳に届いたことは、紛れもない事実だ。
「バイソンの声自体は、問題なさそうだよ。普通に聞こえる」
俺は、大きなため息を吐きながら答えた。
「……の割には、あんたしんどそうだけど?」
俺は、チョイチョイと背後を指差す。彼女は、そちらへ振り向いた。
三〇代くらいの女性とベビーカーに乗った赤子が、二人一組で三セット揃っていた。母親同士は高らかに談笑している。赤子が一人大泣きしているにもかかわらず、お構いなしだった。