プロローグ
モテたい、という願望は男の子なら誰しも持ったことがあるのではないだろうか。その例に漏れず俺も少なからず思ったことはあるし、なんなら女の子の方からアプローチをかけられたい、と
けれど。けれどだ。
「君すっごく
こんな厚化粧で額には脂汗が
「あ~、えっと……」
どう答えるべきか悩む。きっとこういうのに慣れている人であれば、例えば無視してそのまま目的地である学校に歩みを進めるとか。この暑さも吹き飛ばすような冷たい視線を送るとか。そういう対策をとれたのかもしれないけれど。
「ちょっと、急いでて……ごめんなさい」
「それなら連絡先だけ教えてよ! 今度改めてお茶しましょ?」
その程度の弱すぎる手札なら向こうにも対抗策くらいはあるのは当然で。隣をすり抜けようとしたのもかなわず、あっさりと行く手を
まあ正直その連絡先交換くらいでこの場を乗り切れるならいいか、ともう諦めかけてスマートフォンを出そうとしたその時──。
「まーさーとー!」
ぐえ、と言う暇すらなく。背中に衝撃を感じるのと同時に、最近ではよく聞く
「ほら行くよ! もう授業始まっちゃう!」
「え? あ、ちょっと!」
亜麻色のショートボブに黒いキャップを
「ちっ……」
え、舌打ちしてるんだけど。怖いマヨ。
しばらくそのまま走って。大学の門をくぐって少ししたところでようやく、
「はあ……はあ……もー言ったでしょ! あーゆーのは本当に無視しちゃって良いって」
「ははは……なんだかんだ、無視するのって難しいんだよなあ」
膝に手をつきながら、呼吸を整える。隣を見れば、同じく呼吸を整えている
「
大学の同級生である
と、いうのも。実は俺は先月この世界に転移してきているのだ。
違いがなさ過ぎて、最初は転移したこと自体気付かなかったけれど、前の世界とは明確に違う点があった。この世界は、男女比が偏っている。その比率は、男が1とすると女が5。1:5だ。どうしてこうなってしまったのかまではわからないけれど、そのせいもあって、先ほどのような現象にはよく遭遇する。つまりは、女性が男性に対してナンパをする行為はもはや、『逆ナン』ではなく、『普通のナンパ』なのだ。
昨今では一夫多妻制導入を希望する声も大きくなっており、男女間の恋愛における価値観は大きく変わってきているらしい。
最初は戸惑ったし、恐怖もあった。けれど、その心配はある程度
「? どうしたの
隣を見れば、小首をかしげる美少女が1人。きめ細やかで
ありがとう男女比の壊れた世界……。俺は
「ん、なんでもない。助けてくれてありがとうね、
「……
「え?」
「んーん! なんでもない! 行こ!」
──俺はまだこの時、分かってなかったんだ。
この
■
最近の大学生活は、悪くない。入学直後は憂鬱で、足が重かったこの大学までの道のりも、今は足取り軽く向かうことができる。たった1人の存在だけで、こんなにも変わってしまうなんて、自分も案外単純な女だったらしい。
でも、これは仕方ないこと。丁度1週間ほど前、突然私の前に現れた王子様が、魅力的すぎたから。彼が現れてから、私の大学生活は一気に輝いたのだ。
すらっと伸びた身長。緩くパーマがかかった黒髪。爽やかという言葉が世界一似合うと言われても、否定する人はいないだろう。というか、私が否定なんかさせない。
そうそう、ちょうどあの坂の途中にいる彼くらいの身長と背格好で……って。
「あれ、
そしてその
「それなら連絡先だけ教えてよ! 今度改めてお茶しましょ?」
な、ナンパされてるー!?
事態を理解した私は、脇目もふらずに走り出した。
その人は、その人だけは絶対に渡すわけにはいかないんだ。
走り出した場所から距離もそこまで離れてはいなかったから、
「まーさーとー!」
「え、うわっ!」
気付いたら、
「はあ……はあ……もー言ったでしょ! あーゆーのは本当に無視しちゃって良いって」
「ははは……なんだかんだ、無視するのって難しいんだよなあ」
ようやく大学の門をくぐって。
ナンパしてきた女の人が付いてきていないことを確認して、私と
「
こうして何度か注意喚起しているものの、その性格は簡単には変わりそうにない。確かに、そこが
走って乱れた呼吸を整えて、天を仰いだ。うん、
と、
「? どうしたの
なるべく
ぽん、と頭に感触。
「ん、なんでもない。助けてくれてありがとうね、
置かれた手のひらがあたたかい。屈託のない笑みが、私の心臓を射抜く。
……こういう事を、平気でしてくるんだ。
急激に上がった体温は、きっとここまで走り続けたせいだけではなくて。
顔を見られたくなくって、キャップを
「……
「え?」
「んーん! なんでもない! 行こ!」
なんとか取り繕って、そのまま校舎への道を歩き出す。
本当に、ずるい人。してほしいなって思ったことはなんでもしてくれて。そしてこういう時は不意打ちみたいに
私の、理想の王子様。
心がぽかぽかと温かい。胸の内にじんわりと広がるこの気持ちは、もう出会ったその日から自覚していて。
軽く伸びをして、気持ちいいくらいの青空を仰いだ。
今はまだ、難しいけれど。
いつか絶対、この人の恋人になるんだ。