プロローグ

 モテたい、という願望は男の子なら誰しも持ったことがあるのではないだろうか。その例に漏れず俺も少なからず思ったことはあるし、なんなら女の子の方からアプローチをかけられたい、とずうずうしくも考えたことはある。

 けれど。けれどだ。

「君すっごくわいいお顔してるわね、お姉さんとちょっとお茶していかない?」

 こんな厚化粧で額には脂汗がにじんでいるようなお姉さん(自称)に逆ナンされたいとは流石さすがに思ったことはない。

「あ~、えっと……」

 どう答えるべきか悩む。きっとこういうのに慣れている人であれば、例えば無視してそのまま目的地である学校に歩みを進めるとか。この暑さも吹き飛ばすような冷たい視線を送るとか。そういう対策をとれたのかもしれないけれど。あいにく俺の寂しい手札にはそういった攻撃力の高いカードは用意されておらず。

「ちょっと、急いでて……ごめんなさい」

 たりさわりない言葉を選んでなんとかこの場を脱出するために隣をすっ、と通り抜けようとすることしかできなくて。

「それなら連絡先だけ教えてよ! 今度改めてお茶しましょ?」

 その程度の弱すぎる手札なら向こうにも対抗策くらいはあるのは当然で。隣をすり抜けようとしたのもかなわず、あっさりと行く手をはばまれてしまう。向こうはもうスマートフォンを取り出しており、SNSの連絡先を交換する気満々。

 まあ正直その連絡先交換くらいでこの場を乗り切れるならいいか、ともう諦めかけてスマートフォンを出そうとしたその時──。

「まーさーとー!」

 ぐえ、と言う暇すらなく。背中に衝撃を感じるのと同時に、最近ではよく聞くわいらしい声。

「ほら行くよ! もう授業始まっちゃう!」

「え? あ、ちょっと!」

 亜麻色のショートボブに黒いキャップをかぶった少女──五十嵐いがらしうみがとてつもない勢いで俺の後ろから突撃してきたかと思うと、そのまま俺の腕を引っ張っていく。いくら強引な逆ナンだったにせよ、流石さすがにこんなわかぎわになって申し訳なかったかなと思ってちらりと後ろを見やると。

「ちっ……」

 え、舌打ちしてるんだけど。怖いマヨ。



 しばらくそのまま走って。大学の門をくぐって少ししたところでようやく、うみと俺は立ち止まった。

「はあ……はあ……もー言ったでしょ! あーゆーのは本当に無視しちゃって良いって」

「ははは……なんだかんだ、無視するのって難しいんだよなあ」

 膝に手をつきながら、呼吸を整える。隣を見れば、同じく呼吸を整えているうみの、ショートパンツから伸びる健康的な脚が目に入って思わず目をらしてしまう。

まさは優しすぎだって! 危なっかしいんだから、もう……」

 大学の同級生であるうみからの言葉を聞いて……少なくともこの世界においては、俺の考えが間違っているのだろうな、となんとなく思った。

 と、いうのも。実は俺は先月この世界に転移してきているのだ。

 違いがなさ過ぎて、最初は転移したこと自体気付かなかったけれど、前の世界とは明確に違う点があった。この世界は、男女比が偏っている。その比率は、男が1とすると女が5。1:5だ。どうしてこうなってしまったのかまではわからないけれど、そのせいもあって、先ほどのような現象にはよく遭遇する。つまりは、女性が男性に対してナンパをする行為はもはや、『逆ナン』ではなく、『普通のナンパ』なのだ。

 昨今では一夫多妻制導入を希望する声も大きくなっており、男女間の恋愛における価値観は大きく変わってきているらしい。

 最初は戸惑ったし、恐怖もあった。けれど、その心配はある程度ゆうだったと言って良い。確かに男女比は偏っているけれど、行動が制限される、とか、いきなり襲われる、とかそういったことはなく。むしろ──

「? どうしたのまさ

 隣を見れば、小首をかしげる美少女が1人。きめ細やかでれいな肌。快活な彼女の気質が表れているかのような活気にあふれた真紅の瞳。こんな美少女が俺の事を気にかけてくれるということだけでも、十分にプラス足りうる要素だ。

 ありがとう男女比の壊れた世界……。俺はいまだに不思議そうな顔をしているうみの頭にぽん、と軽く一度手を置いた。

「ん、なんでもない。助けてくれてありがとうね、うみ

「……きようだよ……」

「え?」

「んーん! なんでもない! 行こ!」

 うつむいたうみが何か言った気がしたけれど、聞き取れなかった。くるりと振り返ったうみと一緒に、教室へと向かう。

 ──俺はまだこの時、分かってなかったんだ。

 このいびつな世界で、『普通に生きる』ということがどれだけ難しいことなのかを。



 最近の大学生活は、悪くない。入学直後は憂鬱で、足が重かったこの大学までの道のりも、今は足取り軽く向かうことができる。たった1人の存在だけで、こんなにも変わってしまうなんて、自分も案外単純な女だったらしい。

 でも、これは仕方ないこと。丁度1週間ほど前、突然私の前に現れた王子様が、魅力的すぎたから。彼が現れてから、私の大学生活は一気に輝いたのだ。

 すらっと伸びた身長。緩くパーマがかかった黒髪。爽やかという言葉が世界一似合うと言われても、否定する人はいないだろう。というか、私が否定なんかさせない。

 そうそう、ちょうどあの坂の途中にいる彼くらいの身長と背格好で……って。

「あれ、まさじゃない?」

 かたさとまさ。それが、私の王子様の名前。

 そしてそのまさが、ちょうど道の途中に立っていて。足が止まっているんだろうと見てみれば。その前には、女の人が1人。い、嫌な予感が……。

「それなら連絡先だけ教えてよ! 今度改めてお茶しましょ?」

 な、ナンパされてるー!?

 事態を理解した私は、脇目もふらずに走り出した。

 その人は、その人だけは絶対に渡すわけにはいかないんだ。

 走り出した場所から距離もそこまで離れてはいなかったから、まさの後ろまではすぐにたどり着いた。

「まーさーとー!」

「え、うわっ!」

 気付いたら、身体からだが動いていたとはまさにこの事なんだろう。すぐにまさの腕をつかむと、そのまま大学への道を走り出した。



「はあ……はあ……もー言ったでしょ! あーゆーのは本当に無視しちゃって良いって」

「ははは……なんだかんだ、無視するのって難しいんだよなあ」

 ようやく大学の門をくぐって。

 ナンパしてきた女の人が付いてきていないことを確認して、私とまさは息を吐いた。まさの魅力は、この優しさ。普通、あんな中年の女の人がナンパしてきたら、けん感を示すものなのに、まさにはそれがない。だからこそ、危なっかしくてたまにハラハラするんだけど。

まさは優しすぎだって! 危なっかしいんだから、もう……」

 こうして何度か注意喚起しているものの、その性格は簡単には変わりそうにない。確かに、そこがまさの良さでもあるから、難しいところなんだよね。

 走って乱れた呼吸を整えて、天を仰いだ。うん、れいな空。まだ春先だから良かったものの、夏に入ってこの天気で走ったらこの程度の汗では済まなかっただろうなあ。

 と、まさの様子を見てみると、私の方を見て何やら考え事の様子。

「? どうしたのまさ

 なるべくまさの前ではわいい自分でいたいから、汗が目立たないように、半歩だけ下がって小首をかしげてみる。

 ぽん、と頭に感触。

「ん、なんでもない。助けてくれてありがとうね、うみ

 置かれた手のひらがあたたかい。屈託のない笑みが、私の心臓を射抜く。

 ……こういう事を、平気でしてくるんだ。まさは。

 急激に上がった体温は、きっとここまで走り続けたせいだけではなくて。

 顔を見られたくなくって、キャップをぶかかぶり直した。

「……きようだよ」

「え?」

「んーん! なんでもない! 行こ!」

 なんとか取り繕って、そのまま校舎への道を歩き出す。

 本当に、ずるい人。してほしいなって思ったことはなんでもしてくれて。そしてこういう時は不意打ちみたいにうれしいことをしてくれる。

 私の、理想の王子様。

 心がぽかぽかと温かい。胸の内にじんわりと広がるこの気持ちは、もう出会ったその日から自覚していて。

 軽く伸びをして、気持ちいいくらいの青空を仰いだ。

 今はまだ、難しいけれど。

 いつか絶対、この人の恋人になるんだ。

刊行シリーズ

男女比1:5の世界でも普通に生きられると思った?(3) ~激重感情な彼女たちが無自覚男子に翻弄されたら~の書影
男女比1:5の世界でも普通に生きられると思った?(2) ~激重感情な彼女たちが無自覚男子に翻弄されたら~の書影
男女比1:5の世界でも普通に生きられると思った? ~激重感情な彼女たちが無自覚男子に翻弄されたら~の書影