第四章 LAUNCHING ⑤

 彼女の吐息は、負荷がかかったCPUみたいに熱くて。

 僕の胸は、使い古したリチウムイオンバッテリーみたいに膨らんでしまう。

 しかしそんな感情を、稲葉は知る由もなく。

 近づいたときと同じくらい急に身体を離して、僕に背を向けた。


「さてと、お風呂に入るわね」

「ああ、うん……え、風呂? いや、え?」

「わかるわ、人間の身体はメンテナンスコストが高すぎるわよね」

「いや風呂という習慣そのものに疑問を呈しているわけじゃないよ!」


 そう反論してはみたものの。

 稲葉も人間である。

 人間であるからには、風呂にも入る。

 そこに問題はない。

 問題があるとしたら、どちらかというと、僕の側だ。そこまで考えが及んでいなかった。

 お前はいつもそうだな、と自分に悪態をつきながら、稲葉を追いかけて家の中に戻る。

 わかっていたことだが、改めて家の中の景色に、僕は面食らう。

 日中、引っ越し業者が稲葉の荷物を搬入した結果、家の中は段ボール箱だらけになっていた。先ほど確認したように、ロボット関連設備はガレージに搬入しセットアップ済であるから、すなわちこの荷物は、全部それ以外のものということになる。


「日用品は少し、とか言ってなかったか……?」


 僕は段ボールでいっぱいになったリビングを少しでもなんとかするべく横によけていく。

 そうしていると、急に身体に衝撃を感じた。


「な、なんだ……?」


 それは衝撃ではなく、音だった。暴力的な振動。それが浴室から聞こえてきていると理解するのに時間はかからなかった。なんの音かはわからない。とにかくジェットエンジンのような轟音だ。

 間違いなく稲葉の仕業である。

 僕は一瞬躊躇するが、あの割れたガラスが脳裏をよぎる。

 浴室まで破壊されたらたまらない。


「稲葉!」


 ドアを開けると、僕の視界は急に遮られる。

 目隠しをされたのではない。

 水が噴射されたのである。


「うわっ!」


 水を吸った服が身体に張り付く感触。身体が2割増しで重くなったように感じる。

 顔を拭って目を開ける。

 そこには稲葉が立っていた。

 当然といえば当然であるが、裸である。

 一瞬、まじまじと見てしまった。

 彼女が作り出すロボットたちとは対照的な、なめらかな曲線。

 そういえば、稲葉も人間なのだった。

 それだけでなく。

 僕と同じ年齢の、女の子なのだ。


「ごめん!」


 僕はようやく我に返ると、バタンとドアを閉める。

 しかしそのドアを開けて、稲葉が顔を出した。


「なにかしら?」


 僕は目を逸らしながら答える。


「い、いや、すごい音がしたから!」

「ポンプは音がするものでしょう?」


 心の底から不思議そうな口調で稲葉は首を傾げている。


「なんで風呂に入るのにポンプが必要なんだよ!」

「圧力が高いほうが洗浄効果が高いに決まっているわ、高圧洗浄機の原理を知らないわけはないと思うけど……」

「高圧洗浄機は人体に使ったら危険なんだぞ! 見に来て正解だったよ!」

「見に来て正解……? なるほど、私を見ているって、そういう……」

「違う、断じてそういう意味ではない!」

「異性の裸を見ると嬉しいという話は聞いたことがあるわ。それならそうと言ってくれればいいのに」

「なぜ無視するんだ僕の言っていることを!」

「なんにせよ、濡れてしまったし、初もついでに洗浄しましょう」


 こぼした水を拭くのに使ったタオルを洗濯機に入れるくらいの気軽さで、稲葉は言う。彼女が指を鳴らすと、どこからともなく例の小さなロボットたちが集まってきて、僕に群がる。その目的は明確だった。僕の服を脱がせて浴室に引きずり込むことである。


「や、やめろぉ!」


 ロボットたちをちぎっては投げるが、もともと浮いているものだ、ほとんど意味はなかった。群がってくる速度のほうが速い。どこからともなく音もなく、駆けつけてきては僕の動きを阻害し、服を引っ張る。多くないか、と疑問を抱いてから思い至る。そうだ、さっき増やしたのだった。それがこんなかたちで牙を剥くとは。


「お待たせしました! すみません、鍵が開いてたので――ぎゃっ!」


 そしてそんな実りのない格闘は、巨大なスーツケースを持って戻ってきたソナタに、目撃されるのだった。まあ、荷物を取りに行って戻ってきたら家主が急にロボットに襲われているのだから、それは悲鳴もあげるだろう。


「て、展開が早すぎません⁉ ゾンビ映画でももうちょっとゆっくりゾンビ出てきますよ⁉」

「ゾンビのほうがまだマシだったよ」


 僕はがっくりとうなだれるが、稲葉は自分が正しいことを信じて疑わない様子だ。


「あなたも試したいのかしら?」

「試します! なにかはわからないですけど!」

「洗浄よ。参加するなら服を全部脱いで」

「え、は、はい!」

「はいじゃない! ここで脱ぐな!」


 結局、紆余曲折の末、僕はなんとか逃げ出すことに成功し、しかし代償として、稲葉とソナタが風呂を済ませるまで濡れた状態でいることになったのだった。

 浴室からは稲葉のくぐもった話し声に続いて、巨大なポンプの音、それからその音を上回る音量のソナタの悲鳴が聞こえてきた。いったい何MPaなのかは知らないが、やはり高圧洗浄は人体に使う手法ではないのではないだろうか。しかしまあ、人体の脆弱さに自覚的なら死にはしない程度にはしておいてくれるだろう。そう願いたい。

 ベランダから外に出ると夜風が涼しく感じて、僕は気化熱という熱化学現象を実感する。この世界のすべての変化は、エネルギーによって起こる。水分子を引き合わせ液体にしているファンデルワールス力は微弱で、僕の体温程度の熱を与えれば気体になってしまう。そう、きっかけさえあれば、人と人が疎遠になるように。

 庄一は今頃、どうしているのだろう、と思いを馳せる。

 少なくとも、勝手にチームメンバーが家に引っ越してきたりはしていないだろうな。

 ……いや、と思い直す。

 庄一は、最初から家にふたり人間がいる状態で生活していたのだ。これまでずっと。

 そのことを、僕は果たしてどれほど理解していただろうか。

 ふと稲葉の裸を思い出してしまい、僕はそのイメージを振り払う。これは脳内のストレージに残しておいてはいけないデータだ。

 しかし、ひとつだけ、気になる点もあった。彼女の脇、肋骨のあたり。そこに、小さな傷跡が3つ、並んでいた気がしたのだ。

 一瞬のことだったから、見間違いかもしれないが――稲葉の言葉が、連鎖して記憶に蘇る。

 人間は脆弱だから。

 まさか、本当は機械を埋め込んだサイボーグだったりするのだろうか。テロリストで宇宙人でサイボーグだったら、きっともうこの世界には怖いものはないだろう。

 そんなくだらない思考を、僕は徐々に夜風に溶かしていく。

 風呂から聞こえてくるソナタの悲鳴を聞きながら、僕は来たるべき新たな化学反応の式を、星座のように思い描いた。

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