第五章 SERVING ④
「それで、映画を見たんですよ」
「映画?」
僕はその急な言葉を、オウム返ししてしまう。
「なんの映画だったか、どうして見たのか、よく覚えてないんですけど。内臓がぐちゃぁ! って出てるシーンだけ覚えてるんです。怖かったんですけど、それがすごく嬉しくて!」
「嬉しい? 内臓が?」
「はい。わたしにも、内臓があるんだなぁ、って思ったんです。人間だから。ロボットじゃなくて、ちゃんと生きてるんだなって」
「それは……」
「それから、特殊メイクとかそういうのが大好きになって。いちばん好きなのはアニマトロニクスなんです! 中身ロボットなのに、生きてるみたいに動くから! ……でも、そんなのわかってくれるわけないじゃないですか。だから――」
彼女は抱えた膝に目を当てて、一度だけ、すん、と鼻を鳴らした。
それから、パッと顔をあげて、映画の画面ではなく、僕を見る。
「でも! このコンペで1位になったら、多分、大学で好きなことできるんです。親にお金、出してもらわなくてもよくなるので」
ソナタは僕のほうに身を乗り出す。画面の光がその長い睫毛に当たってできる影までもが見える距離。僕はとっさに身を引こうとした自分を、すんでのところで止めた。ここは、引いてはいけない。受け止めなくてはいけない。そんな気がした。
「意味わからないですよね。こんな気持ち悪いものが大好きで、もっとやりたいなんて。普通に考えたら、ピアノができて、お料理ができて、お洒落して、結婚する人を見つけて、そのほうが、きっと――」
言葉はだんだんと彼女の喉に引っかかって、声を詰まらせていく。
「そうは思わないよ」
考えるより先に、僕はそう言っていた。
しかし、自分の発した声を聞いて、僕は自分に同意する。
「ぜんぜんそう思わない」
だからもう一度、できるだけ力強く、そう言った。
「初さん……」
「これがやりたい、ってことがあるのは、すごいことだよ。少なくとも、僕にはない。ソナタはこの映画を、僕にどうしても見せたかったんでしょ? ソナタにどうしても見せたいと思うものがあるかって聞かれたら、僕は思いつかない」
彼女が追っているのは、数字では測れないものだと、直感的に思った。僕とは違う。僕は目に見える数字だけを、誰かに評価されるスコアだけを追っている。そういうさもしさとはぜんぜん違う豊かさを、彼女は持っている。
「それにさ。こうなりたいって姿があるんだろ。押し付けられた姿じゃなくて、自分がこうなりたいって姿が。そこに近づこうとするのが、悪いことなはずがない」
ソナタはきょとんとした顔をする。
それからぺしゃんこになったぬいぐるみみたいな顔をして、へへ、と照れた顔をした。
「そうですかねぇ」
「そうだよ」
「わたしがなりたいのって、エイリアンですけど」
「作りたいんじゃなくてなりたかったんだ⁉」
「はい! いいじゃないですか、強くてかっこよくて、なににも縛られなくて、あと血液が強酸性で……」
「……な、なれるよ! がんばれば、多分」
「えー、本当ですか? そしたら食べちゃいますよ! ぐわーって!」
ソナタは歯を剝いて、僕の首筋を食いちぎる真似をした。
ふわりと髪が揺れて、シャンプーの香りがした。
僕が使っているのと同じ匂いなのに。
なぜかずっと甘く感じられて。
気がつけば、映画はエンドロールになっている。
黒い画面は、照明が消えた部屋を、さらに暗くして。
僕たちは、その中で。
触れ合うくらいの距離にいる。
他人には許されないくらい近くにいて。
ひょっとしたら、服を脱ぐよりも、恥ずかしいかもしれない話をして。
手を伸ばしたら、届くだろうか。
そう思ったときには、僕の手は、すでにソナタの肩に置かれていた。
思いがけないほど細い鎖骨の感触。
そのすぐ下に繋がる、柔らかさの気配。
「初さん、わたし――」
彼女は、僕の手を拒まなかった。
けれど。
僕はその先に進まなかった。
進むべきではない。
「ソナタ!」
「な、なんですか?」
「絶対1位を取ろう」
「はい……そうですね! 1位、取りましょうね!」
代わりにそう大きな声を出して、彼女を元気づける。個人的な感情ではなく、最初からチームの仲間として鼓舞したと、そういうことにする。
そんな僕の強引なすり替えは、しかし急に中断される。
窓の外にオレンジの光と、大きな音が鳴ったからだ。
「あ、稲葉だ」
「えっ、い、稲葉ちゃん⁉ どうしよう!」
「え、どうしようって、なにが?」
「初さん、早く電気つけて!」
「なんで?」
ソナタが慌てていると、玄関が開く音がした。同時に、ごほっごほっ、と咳き込む音がして、それから暗いリビングに、稲葉の影が姿を現す。
同時にリビングの照明がパチリと点灯する。小ロボットが操作したのだろう。
「戻ったわ」
「お、おかえりなさい、稲葉ちゃん!」
「おかえり……」
その状態になって、はじめて僕はソナタが慌てていた理由に気づく。
確かに、この状況。ふたりしかいない家の中で、なぜか電気を消して、触れ合うような距離で寄り添っている。映画のエンドロールはとうに終わっていた。非常に誤解されやすい光景ではあった。
まあ、とはいえ、だ。
別に僕とソナタがどうなっていても、いや、僕とソナタはどうにもなっていないのだが、いずれにしたって稲葉がそんなことを気にすることもないだろう。天才にとって、そんな人間の事情は些事にすぎないはずだ。
しかし、姿を現した稲葉は、妙にピリピリした雰囲気を身にまとっていた。彼女は僕たちをじっと見比べ、それからテーブルの上に載った空の皿に目を向ける。
「ごめんなさい、ごはんふたりぶんしか作らなくて! 稲葉ちゃん、帰ってくると思わなかったから!」
それを敏感に察して、ソナタは慌ててそう説明する。
言われてみると、稲葉が食事をしているところを見たことがなかった。いつもどこでなにを食べているのだろう。
「いいえ、必要ないわ。まあ見ていなさい」
なぜか意気揚々と、それまでのピリピリした雰囲気を火花に変えるように、稲葉は指を鳴らした。
すると、玄関から稲葉の小ロボットが次々と家の中に入ってくる。それぞれのロボットはなにかのパーツを運んでいた。ロボットたちはまるでハチのようにふわふわと行列を作ってキッチンに集まると、どんどんパーツを組み立てていく。
僕とソナタは顔を見合わせた。いったいなにをしているのだろう。
「稲葉、これは――」
「ちょっと待って」
稲葉は手をこちらに向けて、尋ねた僕を制する。なにをしているのかわからないまま、僕とソナタは呆然と稲葉がやっていることを見つめるしかなかった。次々と運ばれてくるパーツは小ロボットによって見事に組み立てられていく。
「できたわ」