あなた様の魔術【トリック】はすでに解けております -裁定魔術師レポフスキー卿とその侍女の事件簿-

開幕 そして二人だけが残った

 屋敷が炎に包まれていた。

 幼い頃から仕えていた家が今、終焉を迎えている。火を消さねば、という使命感が脳裏をよぎったがすぐにムダだと気づいた。火勢は強く、女一人で消せるものではない。助けを呼ぼうにも、この屋敷に生きている者はもはや……。


「ようやく静かになったな」


 ほっとした様子のつぶやきが聞こえた。初老の男のような声だ。もう十年も側にいたのに、こんな声だとは知らなかった。

 彼は二階の手すりの上にいた。見た目は昨日までと何も変わらない。その姿で、レポフスキー家の新たな当主と名乗った。僭称ではない。彼の間近で輝いている、黄金色の天秤が何よりの証拠だろう。あれを使いこなせるのは、レポフスキー家の当主だけだ。

 あの天秤の力で、反対する者たちは、次々と処刑された。

 悪夢のような光景だったが、紛れもない現実であった。己の周囲には無残な死体が転がっている。先程まで暴君のように、女帝のように、邪神のように、高慢かつ尊大に振る舞っていた者たちはほんのわずかの間に、皆殺しにされた。ろくな抵抗も出来ずに首を刎ねられ、心臓を貫かれ、紙屑のように全身をねじ切られた。ほかの者たちも落ちて来たシャンデリアや瓦礫に圧し潰された。

 己もそうされてもおかしくはなかった。むしろ望んで死を受け入れたであろう。己の罪は万死に値する。

 体中が痛む。傷だらけではあったが、床に付いた手や膝を濡らすのは彼女の血ではなかった。肉塊と化した死体の山から流れ出た血だまりだった。

 炎が一際大きく舞い上がり、伸びた影が揺らめきながら彼女を覆った。

 舐め尽くすように柱から壁に燃え広がっている。栄華を誇った一族の死体も炎にまかれ、煙を噴き上げながら黒い炭に変わりつつある。己もとうに煙と炎に包まれているはずなのに、窒息どころか熱気一つ感じない。それも目の前にいる彼の力なのだろうか。


「貴様には二つの道がある」


 彼は裁判官のように告げる。


「一つはこのまま屋敷を出て、遠くで静かに暮らす。もう一つは、小生を新たな主人と認め、手足となって仕えることだ」


 そこで彼は自嘲するように笑い、二階から飛び降りた。火の粉が舞い散る中、黒い影は音もなく、倒れた柱の上に降り立つ。彼女を見下ろす格好のまま続ける。


「この体だ。人の世では何かと不便だろう。小娘程度であろうと役には立つ。小生だけより捜し物が見つかる可能性も高くなる。ただ」


 そこで彼は言葉を句切り、物言わぬ骸の山を見つめる。


「望みが叶う保証はない。我らの相手は邪知暴虐な魔術師どもだ。あらゆる詭計や奸策を弄して罪を逃れようとするだろう。あるいは、死出の旅になるやもしれぬ」


 先程までの惨劇が脳裏をよぎり、自然と喉が鳴る。


「どうする?」


 催促するように問いかけて来る。

 甘美な誘いだった。

 彼は強大な力を手にした。レポフスキー一族とその弟子たちを……名だたる魔術師をほぼ一方的に蹂躙した。芋虫でも啄むかのように。

 それに引き換え、己は無力だ。たとえ、あの男と対峙したとしても為す術もなく、屈辱と絶望に塗れて殺されるだけだろう。けれど、彼が一緒であれば、話は変わる。

 それにレポフスキー家の当主に……『裁定魔術師(アービトレーター)』になったのならば、必ずやあの男を捜し出すだろう。それが彼の使命だ。小娘一人が当てもなく探し回るよりもはるかに可能性が高い。ならば、審判の道具にされようと文句はなかった。

 返事をする前に痛む体を引きずるようにして這い、彼の黒い影の中に入る。


「……たった一つだけ、お願いがございます」


 願いを告げると、黒い影が揺れる。


「本当にそれでいいのか?」

「叶わぬのであれば、この場にて屋敷の方々と冥界へご一緒したく」

「……やむを得まい」


 長い逡巡の後、彼は不服そうにうなずいた。


「ありがとうございます」


 血で汚れた服でひざまずき、うやうやしく頭を垂れる。

 そして、契約の言葉を告げた。


「この命、ただ今より旦那様ととともに」