トカゲの王I ―SDC、覚醒―

プロローグ1『トカゲと鴨のゲシュタルト』 ①

 教室の前の扉を開けると、裸の女子がいた。

 しかも振り返ったそいつと目が合った。

 目の前で火花でもはじけたように、頭が真っ白になるのはいつしゆんだった。

「あぅああ」だの「わわわわ」だの、要領を得ない悲鳴のようなものに口もとがあふれ、すぐに扉を閉じて廊下へ逃げた。しゆうしんが極まると恐怖にまで昇華されてしまうみたいだ。心臓は直接握りつぶされているようにばくばくと大げさに収縮して、そのどうたびに、『目玉』が入れ替わるみたいだった。夏に相応ふさわしい、いやな汗がぶわっと噴き出して顔を伝う。

 おれの悲鳴を聞きつけて、隣の教室の先生が廊下に飛び出してきていた。授業中にもかかわらず廊下でひざをついているおれに不審なものを感じたらしく近寄ってくる。こっちはそれどころじゃない。目にこびりついている教室内の景色にほんろうされて、なにがなにやらだった。

 見慣れた四年生の教室。いい加減な消し方で、算数の授業の跡が残った黒板。雲が羽を広げたように横に広い、そんな青空が映る窓。しり。背中。肌色。目がどくどくと流れるように痛い。

 先生がおれになにか言ってくるけど、ほとんど聞き取れない。でも起きるのを手伝ってくれて助かった。そうこうして隣の担任、まつという禿げたオッサン先生がおれをにらんでとがめようとしていると、水着に着替えた女子が教室から出てきた。

 タオルで身体からだも隠さず、堂々としている。その登場には隣のクラスの担任も面食らったらしい。女子の方はおれと教師を見比べて小首をかしげている。なに、といった顔だった。

 頭の白帽子には赤字で『4─3 すがもりょう』と書かれている。そこでようやく、その女子の名前がスガモであると思い出した。スガモはおだやかな顔つきで、おれを見つめる。


「遅れるよ、行こう」


 おれの手を引いてその場を離れようとする。もうとっくに始まっているんだけど、と反論をはさむ余地もなく、されるがままにその場を引きずられていった。隣の担任はスガモの水着姿にれているようだった。ろりこんといううわさはホントなのかも知れない。

 二階の階段の近くまで引きずられてから、そこでやっとスガモの手を振りほどく。スガモは大した抵抗も見せず手を離して、水着のひもの位置を調整する。その際に肩があらわになって、かぁっと目の下に火がともる。夏の日差しよりも熱く肌を焼くものの正体を、まだ知らなかった。

 スガモがおれの目をじぃっと、鑑賞でもするようにぎようしてくる。そのどうこうが縦に長いひとみに見つめられると、背中に寒気が走る。うろこのある生き物が背中をうようなかんだった。

 目をのぞき込むという仕草にも心当たりがあって、すぐに顔をらす。


「おま、なにやって、んだよ」


 やっと出たのは絞り出すような声で、スガモの顔もマトモに見ることができない。スガモの方はうわぐつかないで、素足をぺたぺたと鳴らしながら階段に足をかけた。


「プールに行くから着替えてたの」

「あ、あ。そう、そっか。そうだな、次、体育だし」


 次というか、もうなんだけど。窓の向こうの遠くでだれかがはしゃぎ、みず飛沫しぶきが上がっている。


「トカゲくんは? プール行ってなかったの?」


 下の名前で呼ばれて、少し困惑する。仲のいい相手でもないし、女子だし。照れる。


「ゴミ捨てに行って……あーまぁ、色々あって遅れちゃったわけで」


 サボっていたと正直に話すこともできなくてごまかす。スガモとは親しくもない上に、あの裸だ。なんでこいつだけ残って、一人で着替えてたんだろう。

 入り口側に背中を向けて、片足をあげているところだったから、しりの割れ目まで見えた。思い出すだけで胸が痛くなる。額から角でも生えるように変な刺激がつどって、落ち着かない。


「ふーん。トカゲくんは泳げないもんね、プール入りたくないからサボってたんだ」


 全部見透かしたようにスガモが言う。なんで知ってるんだよ。


「スガモは? なんで……えっと、いまごろ、着替え……みたいな」

「探すのに時間かかったから」

「ん? 探すって?」

「水着」


 短く答えて、スガモが階段を下りていく。スガモの言葉をすぐに理解できず、ぼぅっと目の焦点を合わさないまま考えて、数秒後にやっと気づく。

 よく見ると、スガモの水着は所々に汚れがみついていた。しかもそれは土汚れだった。


「なにお前、いじめられてるの?」

「お金持ちだから」


 スガモの返事は淡々としていて、しかもなんだか的が外れているような気がした。でもスガモの家が金持ちだといううわさばなしは知っていたし、いじめるなら女子だろうなとはなんとなく分かった。

 なにしろ、スガモはキレイだから。かわいいっつーか、キレイ。だから女子に嫌われる。


「えぇっと、お前、大丈夫なのか?」

「うん」


 スガモは階段を下りていく。でもおれはまだ一段目にも足をかけていない。遠ざかる背中と尻を交互にながめて赤面して、なんでか飛びねたくなるようなしようどうたぎらせていた。


「考えるのがめんどいから、なんとも思わないの」

「なんだ、そりゃぁ」


 スガモの言い分はさっぱりだ。でもいじめられているなんて話を聞いて黙ったままでいるのは正しいのだろうか。

 別に一般的な正義感とかそういうはかりにかけているわけじゃなくて。

 おれの目が、それを見過ごすなとうるさいのだ。


「なー、スガモ」

「なに?」

「さっき、あっと、色々あったし」

「色々はなかったよ」

「いやそこはいいんだよ。だから、だな」


 スガモが階段を下りきる。おれはその後ろ姿を見下ろして、顔の熱さが取れないままに問う。

 自分にそんな力があるかは分からない、だけど。


「助けて、やろうか?」

「いらない」


 即答だった。

 踊り場で振り返って、スガモが首をゆるく振る。その動きに合わせて長い髪が揺れた。

 とびいろの髪。

 おれの『今の』ひとみと同じ色に染まったそれの奥で。

 スガモは珍しくにこやかに微笑ほほえんで、おれに言った。


「でもそのうち、返してもらうから」


  

 目を開くたび、世界は色を塗り替える。

 あでやかに流れ、移ろい、形さえ溶かす。

 目玉はまぶたを下ろし、そして上がるいつしゆんで別物に転じているようだった。世界が変わっているのか、それとも、おれの目玉が変化しているのか。こと俺に限り、その疑問は鹿鹿しさに満ちた幼い問いかけではなく、真実に行き着くための内なる設問へと至る。


「あのー、横で痛々しく格好つけたことぶつぶつ語るのやめてくれません?」


 俺こと五十川いかがわには特別な能力がある。

 しかしそれは少なくとも当初、望むべき『力』ではなかった。


「とまぁ切にもんしているわけだ」


 握りこぶしを交えて訴えると、友人の鹿しかがわなるは「ほーか」と気のない返事をした。友の切なる苦悩よりも本の続きに興味がいっているらしく、手もとから目を離そうとしない。かがんで本の表紙をのぞき込むと、見慣れたイラストが目に飛び込んでくる。ひざを伸ばしてから大げさに肩をすくめ、鼻で笑った。


いまさら禁書とは。ずいぶんと遅いな」

「いやマジ面白いよ」

「お前に言われるまでもなく、そんなことは知っている」


 あくまでも上からの目線を意識して言い返すが、成実はさして反応を見せず、活字を目で追っている。いつにも増して反応が面白くないので、黙ってブランコに座り直した。

 明けの七月は早くもせみが鳴き出して、町をじゆうりんしている。

 日曜日の公園には俺たち以外の人影が見当たらなかった。正確には公園と呼べるほどの施設でもなく、立体交差の道路の下に、ほんのわずかな遊具が設置されているだけだが。全面が道路の影におおわれて薄暗く、そばには『変質者出没注意』と注意書きされた看板が置かれている。