足を必死に伸ばす。窓枠を爪先が掠めて、離れる。頭が絶望に染まるが再度、足を伸ばして生き延びようと躍起になる。そうしてあがく中で上半身がねじれた瞬間、背後の景色を一瞬拝むことになる。
そこで、夜景の中の異物を右目が捉えた。
向かい側のビルから誰かがこちらを見ている。そいつと目が合った、ように思えた。
だがそちらに気を配る余裕はない。必死に窓枠に足を伸ばし、指先に全神経を注ぐ。そうして引っかかった足先で身体を引っ張り、重心と格闘する。前に転べば生き、後ろに傾けば死ぬ。気絶しそうな瀬戸際とストレスに苛まれる中、鼻水と歯軋りを外聞なくまき散らし、前へ、前へと念じて足に力を込めた。
その願いと行動が成就して、身体が窓の中へ吸い込まれる。床に膝から落下して激痛が走り、腰も痛めた。吐き気が治まらず、胃と背中がぼこぼこと膨れるように荒れる。
だが、落下から逃れることはできた。己の幸運に感謝して、強く息を吐く。
俺はこんなところで死ぬべき人間ではない。そういう運命なのだろう。
縄ばしごが窓の外で、ふらふらと落下していくのを、目を細めて見送った。
「命がないやつは、簡単に落ちていいなぁ……」
九死に一生を得て転がり込んだ部屋の中で、しかし落ち着く暇もなかった。
すぐさま、異臭を嗅ぐ。
その臭いは今日の昼間、間近で嗅いで鼻を曲げたものだった。
血の臭いだ。
床に転がったまま首を左右に振る。そして、部屋の隅に生まれている血だまりの中、男が座り込んでいるのを発見した。「ひ」悲鳴が溢れそうになるが、血の気が引いたことで叫ぶ元気までどこかへいってしまった。
男は暗闇でも分かるほどに血みどろだった。
ふらふらと頭は揺れて、貧血を起こしたように視界が定まらない。男の呻き声を聞かなければ、そのまま卒倒していただろう。呻き声という刺激があったからこそ辛うじて意識を支えて、身体を起こすことができたのだ。
男は何時間もその場から動いていないのか、血液は床の上で固まっている。男自身の肌に付着している血も粉となって、ぽろぽろと崩れていく。男の服装はボロ布より無残で、鳥に突かれた死骸のようにも見える。だが、男の胸と腹は未だ微かに上下を繰り返していた。
四階へ向かうとき、三階の各部屋になんて気を配っていなかったから、こんなやつがいたなんてまるで気づいていなかった。まさかさっきの修行の様子を聞かれていないだろうな。
男は奇妙なことに、真夏にもかかわらずマフラーを巻いている。首元に隙間なく巻きつけて、人目につかないようにしているみたいだ。その謎のマフラーが、更に俺の腰を引かせる。
当然、そんな男の側に走り寄るはずがない。一目散に部屋の外へ逃げ出そうと走る。
血生臭さが俺にまで移るような選択はごめんだ。
しかし部屋の入り口で前足に力を込めて踏み留まる。
善意に引き返せとささやかれた、はずがない。このビルを襲っている『事態』に血まみれの男が関与しているのではないか、と思い直したのだ。
事件の事情を知らずに迂闊に動くことは、手軽な脱出の方法がなくなった以上は避ける。
そして。
この状況下で、独りきりでビルを徘徊できるほどの度胸はないことを自覚していた。
気がもっとも許せる友人である成実がいなくてよかったと思う一方で、成実がいればよかったとも思う矛盾した心境に、胸のむかつきを覚えた。
男の側に屈んで数秒、逡巡する。声をかけづらい。どうかければいいか迷う。噎せ返る血の臭いで指先がみっともなく震える。腰の骨を叩き、自らを鼓舞して一歩、前へ出る。
「あの、」
声をかけた瞬間、男は俺に対して目を剝き、垂れ下げていた右腕を動かそうとする。だが身体は思うように動かないのか、動作も鈍い。こちらが反射的に飛び退いてもまだ、腕は床についたままだった。鈍いどころか、動かせないのかも知れない。それは好都合だ。
「な、だ、ま」
「え? ……なんだ、お前?」
男が下顎を小さく上下させる。顎を引くことさえ難儀なようだ。
これだけ弱っているなら俺に危害を加えることも無理だろう。更に言うなら、元気いっぱいにガラスを叩き割ることもできそうにない。こいつはガラスを割ったやつとは別人だ。
じゃあ、まだ上の階かどこかにそいつはいるのだ。
「なんだってその、そんなのどうでもいいじゃないですか。それよりそれ、血ッスよ、血!」
男の前に膝をついて屈む。血の臭いが更に強まる。思わず鼻を摘んだ。
「あの、ヤバイ、ッスよね。病院とか、えぇと必要ですよね!」
鼻づまりの声で、その上動揺する俺の言葉は質問の形になっていなかった。頭の中は冷静に、平静であろうとしているのだが行動が伴わない。脳からの指令が身体の隅々に伝達される際、緊張で収縮する血管が邪魔をするイメージが脳を埋め尽くす。焦燥が多量の汗を生み、シャツの背中側と肌が完全に張りついてしまっていた。
男は噎せながら、ふるふると身体を震わせる。首を振ろうとして、力が入らないようだ。
「だい、だ」
大丈夫を満足に口にできない男の返事に、更なる不安を煽られる。こっちの方が顔面蒼白に陥りそうだった。まだ流れている血液があるのか、伸びきった足と床の間でぴちゃぴちゃと音を立てている。これでは弱りすぎて、会話が成立するかも怪しい。それでは意味がないのだが。
「ふた、つ。くる、ぞ」
男が二本、震える指を立てる。その血染めのVサインと対峙した直後、卒倒しそうになる。男の右手はその二本しか指が残っていなかった。親指と小指、それに薬指は断面を覗かせて、根もとから先が失われている。奇妙なのはその断面に切断されたような荒々しさがなく、まるで『初めから指がなかった』ように、美しい形を保っていることだった。
先程の縄の切れ目に似ている。類似点を発見した直後、背中が反り返る。止める間もなく、その場で嘔吐した。床に手をついて倒れる身体を辛うじて支えながら、げぇげぇと血だまりを汚す。鼻からもゲロが流れ出して呼吸困難に陥ったけれど、血の臭いが酸っぱく、曖昧になることだけはありがたかった。
「こっち、が、やば、い」
男は嘔吐中の俺を無視して、譫言のように喋っている。その指で背中をさすってくれと無茶は言わないが、少しはこっちの都合も考えて欲しい。胃まで流れ出そうなほど、中身を出し尽くしているのだ。話などマトモに聞いていられない。数十秒、胃液と晩飯が逆流し続けた。
その残滓を唾と共に吐き捨てて、口もとを拭う。血と胃液の混ざった臭いはこの世のものとは思いがたい。人間の内側の臭いだ、と嫌悪する。鼻を摘み直すと、鼻の中に残っていたゲロがぐじゅぐじゅと音を立て、隙間から滲み出てきた。人生最悪の夜だった。
「……こんな、はず、じゃあ」
胸を押さえ、予想だにしていない自身の反応に絶望する。
俺はいつだって、『特別な世界』への入り口に手をかけることを望んでいた。
魔法や超能力が跋扈する、科学を超えた世界に立つことを。
この血みどろの男は、その入り口を担う『非日常』をこれでもかと体現している、のに。
いざ目の前にして、俺の反応はゲロだった。
望んだ世界の扉から一刻も早く離れて、家に帰りたいと。そればかりを願っている。
無理無理死んじゃう、と幼い自分が胸の内で泣き、喚き、暴れていた。
何度も胸を叩き、睫毛の震えを無視して、粘つく恐怖をねじ伏せる。
そうしてようやく男との拙い会話に戻る。男が先程呟いた『こっち』の意味が理解できず、首を傾げる。数秒考えて、その強調された指先から気づく。
立てている指のことを指しているらしい。
いやこっちもなにも、一つしか表現できていない。その忠告の意図がさっぱり摑めない。しかしその一方的に喋りかける男の朦朧としている目つきが、自分の反応を『探っている』と、気づく。ふるいにかけられているような、不快な感覚だ。
せき止めている震えを見透かされないようにこっちは必死なのだから、止めてくれ。
よっぽど思わせぶりに演出して目の色を変化させ、ハッタリで脅してやろうかと思った。
その男の目が計算を投げ捨てたように見開かれた。
「……うし、ろ」
男が床に手をつき、身体を無理に立ち上がらせようと試みる。何本も欠けた上下の歯を強引に嚙み合わせて食いしばろうとしている。その様子に、上っ面を取り繕おうと半ば無意識に口が動く。
「あの、病院に運んだ方が、ああじゃなくて、救急車、」
動転した台詞を最後まで言いかけてふと、今の言葉を気にかけた。
後ろ?
こんな瀕死の状態で呼びかけるほどの価値がある、後ろ?
そうして咄嗟に振り向いた直後。
頭上から迫り来るナイフの先端を、その目に捉えた。