トカゲの王I ―SDC、覚醒―

プロローグ1『トカゲと鴨のゲシュタルト』 ⑨

 足を必死に伸ばす。窓枠をつまさきかすめて、離れる。頭が絶望に染まるが再度、足を伸ばして生き延びようと躍起になる。そうしてあがく中で上半身がねじれた瞬間、背後の景色を一瞬拝むことになる。

 そこで、夜景の中の異物を右目がとらえた。

 向かい側のビルから誰かがこちらを見ている。そいつと目が合った、ように思えた。

 だがそちらに気を配る余裕はない。必死に窓枠に足を伸ばし、指先に全神経を注ぐ。そうして引っかかった足先で身体を引っ張り、重心と格闘する。前に転べば生き、後ろに傾けば死ぬ。気絶しそうなぎわとストレスにさいなまれる中、鼻水とぎしりを外聞なくまき散らし、前へ、前へと念じて足に力を込めた。

 その願いと行動が成就して、身体が窓の中へ吸い込まれる。床にひざから落下して激痛が走り、腰も痛めた。吐き気が治まらず、胃と背中がぼこぼことふくれるように荒れる。

 だが、落下から逃れることはできた。おのれの幸運に感謝して、強く息を吐く。

 おれはこんなところで死ぬべき人間ではない。そういう運命なのだろう。

 縄ばしごが窓の外で、ふらふらと落下していくのを、目を細めて見送った。


「命がないやつは、簡単に落ちていいなぁ……」


 九死に一生を得て転がり込んだ部屋の中で、しかし落ち着くひまもなかった。

 すぐさま、しゆうぐ。

 そのにおいは今日の昼間、間近で嗅いで鼻を曲げたものだった。

 血の臭いだ。

 床に転がったまま首を左右に振る。そして、部屋の隅に生まれている血だまりの中、男が座り込んでいるのを発見した。「ひ」悲鳴がこぼれそうになるが、血の気が引いたことで叫ぶ元気までどこかへいってしまった。

 男はくらやみでも分かるほどに血みどろだった。

 ふらふらと頭は揺れて、貧血を起こしたように視界が定まらない。男のうめき声を聞かなければ、そのまま卒倒していただろう。呻き声という刺激があったからこそかろうじて意識を支えて、身体を起こすことができたのだ。

 男は何時間もその場から動いていないのか、血液は床の上で固まっている。男自身の肌に付着している血も粉となって、ぽろぽろと崩れていく。男の服装はボロ布より無残で、鳥につつかれたがいのようにも見える。だが、男の胸と腹はいまかすかに上下を繰り返していた。

 四階へ向かうとき、三階の各部屋になんて気を配っていなかったから、こんなやつがいたなんてまるで気づいていなかった。まさかさっきの修行の様子を聞かれていないだろうな。

 男は奇妙なことに、真夏にもかかわらずマフラーを巻いている。首元にすきなく巻きつけて、人目につかないようにしているみたいだ。そのなぞのマフラーが、さらおれの腰を引かせる。

 当然、そんな男のそばに走り寄るはずがない。いちもくさんに部屋の外へ逃げ出そうと走る。

 なまぐささが俺にまで移るような選択はごめんだ。

 しかし部屋の入り口で前足に力を込めて踏みとどまる。

 善意に引き返せとささやかれた、はずがない。このビルをおそっている『事態』に血まみれの男が関与しているのではないか、と思い直したのだ。

 事件の事情を知らずにかつに動くことは、手軽な脱出の方法がなくなった以上は避ける。

 そして。

 この状況下で、独りきりでビルをはいかいできるほどの度胸はないことを自覚していた。

 気がもっとも許せる友人であるなるがいなくてよかったと思う一方で、成実がいればよかったとも思うじゆんした心境に、胸のむかつきを覚えた。

 男の側にかがんで数秒、しゆんじゆんする。声をかけづらい。どうかければいいか迷う。せ返る血のにおいで指先がみっともなくふるえる。腰の骨をたたき、自らをして一歩、前へ出る。


「あの、」


 声をかけたしゆんかん、男は俺に対して目をき、垂れ下げていた右腕を動かそうとする。だが身体からだは思うように動かないのか、動作も鈍い。こちらが反射的に飛び退いてもまだ、腕は床についたままだった。鈍いどころか、動かせないのかも知れない。それは好都合だ。


「な、だ、ま」

「え? ……なんだ、お前?」


 男がしたあごを小さく上下させる。顎を引くことさえ難儀なようだ。

 これだけ弱っているなら俺に危害を加えることも無理だろう。更に言うなら、元気いっぱいにガラスを叩き割ることもできそうにない。こいつはガラスを割ったやつとは別人だ。

 じゃあ、まだ上の階かどこかにそいつはいるのだ。


「なんだってその、そんなのどうでもいいじゃないですか。それよりそれ、血ッスよ、血!」


 男の前にひざをついて屈む。血の臭いが更に強まる。思わず鼻をつまんだ。


「あの、ヤバイ、ッスよね。病院とか、えぇと必要ですよね!」


 鼻づまりの声で、その上動揺する俺の言葉は質問の形になっていなかった。頭の中は冷静に、平静であろうとしているのだが行動が伴わない。脳からの指令が身体の隅々に伝達される際、緊張で収縮する血管がじやをするイメージが脳を埋め尽くす。しようそうが多量の汗を生み、シャツの背中側と肌が完全に張りついてしまっていた。

 男はせながら、ふるふると身体からだふるわせる。首を振ろうとして、力が入らないようだ。


「だい、だ」


 大丈夫を満足に口にできない男の返事に、さらなる不安をあおられる。こっちの方が顔面そうはくおちいりそうだった。まだ流れている血液があるのか、伸びきった足と床の間でぴちゃぴちゃと音を立てている。これでは弱りすぎて、会話が成立するかも怪しい。それでは意味がないのだが。


「ふた、つ。くる、ぞ」


 男が二本、震える指を立てる。その血染めのVサインとたいした直後、卒倒しそうになる。男の右手はその二本しか指が残っていなかった。親指と小指、それに薬指は断面をのぞかせて、根もとから先が失われている。奇妙なのはその断面に切断されたような荒々しさがなく、まるで『初めから指がなかった』ように、美しい形を保っていることだった。

 先程の縄の切れ目に似ている。類似点を発見した直後、背中が反り返る。止める間もなく、その場でおうした。床に手をついて倒れる身体をかろうじて支えながら、げぇげぇと血だまりを汚す。鼻からもゲロが流れ出して呼吸困難に陥ったけれど、血のにおいがっぱく、あいまいになることだけはありがたかった。


「こっち、が、やば、い」


 男は嘔吐中のおれを無視して、うわごとのようにしやべっている。その指で背中をさすってくれと無茶は言わないが、少しはこっちの都合も考えて欲しい。胃まで流れ出そうなほど、中身を出し尽くしているのだ。話などマトモに聞いていられない。数十秒、胃液と晩飯が逆流し続けた。

 そのざんつばと共に吐き捨てて、口もとをぬぐう。血と胃液の混ざったにおいはこの世のものとは思いがたい。人間の内側の臭いだ、とけんする。鼻をつまみ直すと、鼻の中に残っていたゲロがぐじゅぐじゅと音を立て、すきからにじみ出てきた。人生最悪の夜だった。


「……こんな、はず、じゃあ」


 胸を押さえ、予想だにしていない自身の反応に絶望する。

 おれはいつだって、『特別な世界』への入り口に手をかけることを望んでいた。

 魔法や超能力がばつする、科学を超えた世界に立つことを。

 この血みどろの男は、その入り口をになう『非日常』をこれでもかと体現している、のに。

 いざ目の前にして、俺の反応はゲロだった。

 望んだ世界の扉から一刻も早く離れて、家に帰りたいと。そればかりを願っている。

 無理無理死んじゃう、と幼い自分が胸の内で泣き、わめき、暴れていた。

 何度も胸をたたき、まつふるえを無視して、ねばつく恐怖をねじ伏せる。

 そうしてようやく男とのつたない会話に戻る。男が先程つぶやいた『こっち』の意味が理解できず、首をかしげる。数秒考えて、その強調された指先から気づく。

 立てている指のことを指しているらしい。

 いやこっちもなにも、一つしか表現できていない。その忠告の意図がさっぱりつかめない。しかしその一方的にしやべりかける男のもうろうとしている目つきが、自分の反応を『探っている』と、気づく。ふるいにかけられているような、不快な感覚だ。

 せき止めている震えを見透かされないようにこっちは必死なのだから、めてくれ。

 よっぽど思わせぶりに演出して目の色を変化させ、ハッタリでおどしてやろうかと思った。

 その男の目が計算を投げ捨てたように見開かれた。


「……うし、ろ」


 男が床に手をつき、身体からだを無理に立ち上がらせようと試みる。何本も欠けた上下の歯を強引にみ合わせて食いしばろうとしている。その様子に、上っつらを取りつくろおうと半ば無意識に口が動く。


「あの、病院に運んだ方が、ああじゃなくて、救急車、」


 動転した台詞せりふを最後まで言いかけてふと、今の言葉を気にかけた。

 後ろ?

 こんなひんの状態で呼びかけるほどの価値がある、後ろ?

 そうしてとつに振り向いた直後。

 頭上から迫り来るナイフの先端を、その目にとらえた。