飛行機が側に落下してきたという線も考えたが、闇夜に火の手が上がる様子もない。それに被害もこの程度で済まないだろう。ビルの壁の具合から考えれば、それだけの衝撃を受ければヒビに沿って崩れても不思議じゃない。破損しているのは廊下を遠目に見たところ、ガラスだけで留まっている。
そうなるとやはり人為的に誰かが割ったことになる。さっきの影が、だ。
その誰かが、四階にいる。
喪失感に似たものが頭を包む。周囲の濃霧のような暗闇が濃くなり、足もとの感覚が曖昧になる。恐怖の影が俺を覆っているのだ。平和ぼけした頭は、未知の暗さに飛び跳ねて五感の手綱を手放してしまう。その場に尻餅をついて、喚きたくなる衝動を必死に堪える。
「……ガラスを割る、ということは……尾崎豊を信奉する不良軍団か?」
実に安直な発想である。いやあれは校舎の窓ガラスだったか? どちらにしても品行方正な優等生ではないだろう。量産された海島が徒党を組んでやってくる悪夢を思い浮かべてしまう。近づいてくるだけでこちらが半死半生に陥りそうだった。
廊下から逃げるように中腰で走り、窓に飛びつく。最後の方は転んで、偶然に窓に手がかかったようなものだった。窓から下を覗き込む。暗がりで把握しきれない地面との距離に、唾を飲み込んだ。ヤモリのように壁づたいに下りることは、少なくとも四階からでは不可能だった。脱出するには階段か非常口を利用するしかない。ガラスが不穏に割れた廊下を通って、だ。
「……と、普通なら思うだろうが」
笑おうとしたが、こぼれた声は「くぇくぇくぇ」としゃっくりを我慢するようなくぐもったものだった。これはこれで薄気味悪いのでよし。唇を歪めて、震えを指先から追い払うように握り拳を作る。小走りで部屋の隅へ向かい、上面に埃を被ったロッカーを慎重に、音を立てないように開く。取っ手を捻る際に金属音が発生して肝を冷やしたが、廊下側が無反応であることを確認し、手を動かす。ロッカーの中には会社の備品と縁のない、縄ばしごが畳んでしまわれていた。
「学生の身分で夜間徘徊するのなら、これぐらいの用意は当然だろう」
くくく、と笑いを漏らす。今度はそこそこ、自然体の声だった。
巡回の警察官がやってきて補導されるという事態を想定して、緊急用の脱出の手筈は整えていた。残念ながら突発的な怪異に対しての用意ではない。一体、このビルでなにが起きたのか。真相に興味はあったが、解明するより危険から遠ざかる方を優先する。
小心者と笑うがいい。だが最後に生き残るのは、危険から逃れた者だけなのだ。
「問題は縄ばしごの長さが足りるかだ……ちゃんと試しておけばよかった」
用意は半ば『ごっこ』であり、まさか本当に使う機会が訪れるとは思っていなかった。縄ばしご自体、祖父の家の納屋に転がっていた、由緒正しそうではあるが耐用年数に不安のある代物だし。使用したら即、縄がぷっつんとちぎれない保証はない。
窓枠にはしごの先端を引っかけて、階下へと垂らす。からからと壁にぶつかりながら伸びていくはしごの感触が手のひらに伝わってくる。最後、伸びきった際の衝撃は思いの外重厚で、その地上までの距離に冷や汗を滲ませる。ビルの四階というのは思ったよりずっと、高い。
風のない夜ではあるが、はしごは不安定に左右に揺れている。これに足をかけて、下りていくのか。思わず尻込みしてしまう。長さ自体は二階の窓の下まで届いているようだった。そこまで下りきることができれば、後は階段を使っても隠れながら逃げられるだろう。最悪、一番下から飛び降りても頭から落っこちなければ致命傷にはならない距離だ。
地上に『怪異』の仲間が控えていないか、隠れるように覗き込んで確かめる。夜の闇に目をこらしても、蠢く人影は見当たらない。いないと断定はできない、しかし。
誰かがいて、それに遭遇して、危険を負う可能性を想像する。
人気があるはずのないビル内で、物音どころかガラスを叩き割る輩がいるのだ。そんなのが四階の廊下に潜んで、俺を狙っている可能性だってある。
怖いじゃないか、はっきり言って。めっちゃくちゃ、恐ろしいじゃないか。
人数も把握できない。堂々と階段を使って入り口へ向かうことは愚である。部屋の隅で縮こまってやりすごす、或いはロッカーの中に隠れるということも考えた。だがその場合、もし発見されたら本当に逃げ場が失われる。そうなったら俺から為す術が失われる。
「………………………………………」
認めてしまえば。
暴力的なこととは今までほとんど縁がなかった所為で、俺の性根はヘタレもいいところだった。正確には無縁ではなく、徹底かつ率先して逃げ回ってきた。
危険に見舞われることを極端に避ける考え方が、俺の基本にあった。
だから逃げ道があるなら、そこへ全力で駆ける。迷うことはない。
「……それに」
縄ばしごを駆使して、華麗に脱出。そんな、脱出ごっこの気分が味わえる。
下らない理由だが、それも数パーセントほど存在した。
背後を振り返り、得体の知れないなにかに対する恐怖よりはマシだと自分を鼓舞する。廊下で影が動いた、ような気もしたことにせき立てられて、へっぴり腰ながらも窓をまたぎ、はしごに足をかけた。
室内の換気もままならない空気と異なる、夜の街に流れる温度に身体を晒す。足をかけ、両腕が摑む縄ばしごは俺自身の体重で派手に揺れる。首の裏側に氷を押しつけられたように全身を縮こまらせて喉を詰まらせるが、即座に縄ばしごが外れて落下、ということはないようだ。また一歩下りて、左右のブレに戦々恐々としながらも、戻るという選択肢はなかった。
四階にいるはずの誰かが縄ばしごに気づいたら、自分を振り落とすのだろうか。頭の中が真っ白に陥りそうな想像に怯えながら、震えそうになる唇を歯で押さえつけて下っていく。
目の前に映り続ける無機質な壁に変化が起こり、景色が変わったことで『なんとかなるんじゃないか』という淡い希望の頭がむくむく、起きあがる。
そして三階の窓が足もとに見えてきた直後、唐突に。
「えっ?」
はしごの縄の片側が、音もなく切れた。
いや正確には、『離れた』。
切り離された縄より下がまるで、俺を含めて横に一センチかそこら、ずれたように。縄は繫がりを失い、縄ばしごの安定はゼロとなる。当然、しがみついている俺も無事では済まない。
離れた縄に合わせて、がくんと上下に揺れる。そのまま衝撃に振り落とされそうになるが奥歯を食いしばり、咄嗟に切れていない方の縄を両手で摑む。だが上ではしごを引っかけている部分が衝撃でずれて、縄が緩み、落下は秒読みだった。
心臓が焦燥を極めて、目の中が混乱と共に回る。数秒後には地面に叩きつけられて物言わぬ死体に成り果てているかも知れない。歯の根は合わず、頭も満足に働かない。だがそれでも縄を見上げた際に、切り口の違和感に気づく。縄は繊維の切断された跡もなく、まるでほどけたように綺麗だった。だが、その違和感に対する答えを出している時間はなかった。
そんな中、はしごの縄がバランスを崩して揺れたのは、不幸中の幸いをもたらす。
首もロクに回せなかったが、身体が揺れたお陰でそれが視界に飛び込んできたのだ。
すぐ足もと、三階の窓が開いている。天の助けとばかりに、矢も楯もたまらずそこに飛び込もうと足を伸ばし、一瞬、躊躇する。
廃棄されたビルの窓が開け放たれているということは、そこに、誰かがいる?
だとしても、このまま地面へ落下するよりは結果が分からない分、縋る価値があった。