トカゲの王I ―SDC、覚醒―

プロローグ1『トカゲと鴨のゲシュタルト』 ⑧

 飛行機がそばに落下してきたという線も考えたが、やみに火の手が上がる様子もない。それに被害もこの程度で済まないだろう。ビルのかべの具合から考えれば、それだけのしようげきを受ければヒビに沿って崩れても不思議じゃない。破損しているのは廊下を遠目に見たところ、ガラスだけでとどまっている。

 そうなるとやはり人為的に誰かが割ったことになる。さっきの影が、だ。

 その誰かが、四階にいる。

 そうしつかんに似たものが頭を包む。周囲ののうのような暗闇が濃くなり、足もとの感覚があいまいになる。恐怖の影が俺をおおっているのだ。平和ぼけした頭は、未知の暗さに飛びねて五感のづなを手放してしまう。その場にしりもちをついて、わめきたくなる衝動を必死にこらえる。


「……ガラスを割る、ということは……ざきゆたかを信奉する不良軍団か?」


 実に安直な発想である。いやあれは校舎の窓ガラスだったか? どちらにしても品行方正な優等生ではないだろう。量産されたうみしまが徒党を組んでやってくる悪夢を思い浮かべてしまう。近づいてくるだけでこちらが半死半生におちいりそうだった。

 廊下から逃げるように中腰で走り、窓に飛びつく。最後の方は転んで、偶然に窓に手がかかったようなものだった。窓から下をのぞき込む。暗がりであくしきれない地面との距離に、つばを飲み込んだ。ヤモリのようにかべづたいに下りることは、少なくとも四階からでは不可能だった。脱出するには階段か非常口を利用するしかない。ガラスがおんに割れた廊下を通って、だ。


「……と、普通なら思うだろうが」


 笑おうとしたが、こぼれた声は「くぇくぇくぇ」としゃっくりを我慢するようなくぐもったものだった。これはこれで薄気味悪いのでよし。くちびるゆがめて、ふるえを指先から追い払うように握りこぶしを作る。小走りで部屋の隅へ向かい、上面にほこりかぶったロッカーを慎重に、音を立てないように開く。取っ手をひねる際に金属音が発生してきもを冷やしたが、廊下側が無反応であることを確認し、手を動かす。ロッカーの中には会社の備品と縁のない、縄ばしごがたたんでしまわれていた。


「学生の身分で夜間はいかいするのなら、これぐらいの用意は当然だろう」


 くくく、と笑いをらす。今度はそこそこ、自然体の声だった。

 巡回の警察官がやってきて補導されるという事態を想定して、緊急用の脱出のはずは整えていた。残念ながら突発的な怪異に対しての用意ではない。一体、このビルでなにが起きたのか。真相に興味はあったが、解明するより危険から遠ざかる方を優先する。

 小心者と笑うがいい。だが最後に生き残るのは、危険から逃れた者だけなのだ。


「問題は縄ばしごの長さが足りるかだ……ちゃんと試しておけばよかった」


 用意は半ば『ごっこ』であり、まさか本当に使う機会が訪れるとは思っていなかった。縄ばしご自体、祖父の家のに転がっていた、ゆいしよ正しそうではあるが耐用年数に不安のあるしろものだし。使用したら即、縄がぷっつんとちぎれない保証はない。

 窓枠にはしごの先端を引っかけて、階下へと垂らす。からからと壁にぶつかりながら伸びていくはしごの感触が手のひらに伝わってくる。最後、伸びきった際のしようげきは思いのほか重厚で、その地上までの距離に冷や汗をにじませる。ビルの四階というのは思ったよりずっと、高い。

 風のない夜ではあるが、はしごは不安定に左右に揺れている。これに足をかけて、下りていくのか。思わずしりみしてしまう。長さ自体は二階の窓の下まで届いているようだった。そこまで下りきることができれば、後は階段を使っても隠れながら逃げられるだろう。最悪、一番下から飛び降りても頭から落っこちなければ致命傷にはならない距離だ。

 地上に『怪異』の仲間が控えていないか、隠れるようにのぞき込んで確かめる。夜のやみに目をこらしても、うごめく人影は見当たらない。いないと断定はできない、しかし。

 だれかがいて、それにそうぐうして、危険を負う可能性を想像する。

 ひとがあるはずのないビル内で、物音どころかガラスをたたき割るやからがいるのだ。そんなのが四階の廊下に潜んで、おれねらっている可能性だってある。

 怖いじゃないか、はっきり言って。めっちゃくちゃ、恐ろしいじゃないか。

 人数もあくできない。堂々と階段を使って入り口へ向かうことはである。部屋の隅で縮こまってやりすごす、あるいはロッカーの中に隠れるということも考えた。だがその場合、もし発見されたら本当に逃げ場が失われる。そうなったらおれからすべが失われる。


「………………………………………」


 認めてしまえば。

 暴力的なこととは今までほとんど縁がなかったで、俺の性根はヘタレもいいところだった。正確には無縁ではなく、てつていかつ率先して逃げ回ってきた。

 危険に見舞われることを極端に避ける考え方が、俺の基本にあった。

 だから逃げ道があるなら、そこへ全力で駆ける。迷うことはない。


「……それに」


 縄ばしごを駆使して、華麗に脱出。そんな、脱出ごっこの気分が味わえる。

 下らない理由だが、それも数パーセントほど存在した。

 背後を振り返り、たいの知れないなにかに対する恐怖よりはマシだと自分をする。廊下で影が動いた、ような気もしたことにせき立てられて、へっぴり腰ながらも窓をまたぎ、はしごに足をかけた。

 室内の換気もままならない空気と異なる、夜の街に流れる温度に身体からださらす。足をかけ、両腕がつかむ縄ばしごは俺自身の体重で派手に揺れる。首の裏側に氷を押しつけられたように全身を縮こまらせてのどを詰まらせるが、即座に縄ばしごが外れて落下、ということはないようだ。また一歩下りて、左右のブレに戦々恐々としながらも、戻るというせんたくはなかった。

 四階にいるはずのだれかが縄ばしごに気づいたら、自分を振り落とすのだろうか。頭の中が真っ白におちいりそうな想像におびえながら、ふるえそうになるくちびるを歯で押さえつけて下っていく。

 目の前に映り続ける無機質なかべに変化が起こり、景色が変わったことで『なんとかなるんじゃないか』という淡い希望の頭がむくむく、起きあがる。

 そして三階の窓が足もとに見えてきた直後、とうとつに。


「えっ?」


 はしごの縄の片側が、音もなく切れた。

 いや正確には、『離れた』。

 切り離された縄より下がまるで、俺を含めて横に一センチかそこら、ずれたように。縄はつながりを失い、縄ばしごの安定はゼロとなる。当然、しがみついている俺も無事では済まない。

 離れた縄に合わせて、がくんと上下に揺れる。そのまましようげきに振り落とされそうになるが奥歯を食いしばり、とつに切れていない方の縄を両手で摑む。だが上ではしごを引っかけている部分が衝撃でずれて、縄がゆるみ、落下は秒読みだった。

 心臓がしようそうを極めて、目の中が混乱と共に回る。数秒後には地面にたたきつけられて物言わぬ死体に成り果てているかも知れない。歯の根は合わず、頭も満足に働かない。だがそれでも縄を見上げた際に、切り口の違和感に気づく。縄はせんの切断された跡もなく、まるでほどけたようにれいだった。だが、その違和感に対する答えを出している時間はなかった。

 そんな中、はしごの縄がバランスを崩して揺れたのは、不幸中の幸いをもたらす。

 首もロクに回せなかったが、身体からだが揺れたお陰でそれが視界に飛び込んできたのだ。

 すぐ足もと、三階の窓が開いている。天の助けとばかりに、矢もたてもたまらずそこに飛び込もうと足を伸ばし、いつしゆんちゆうちよする。

 はいされたビルの窓が開け放たれているということは、そこに、だれかがいる?

 だとしても、このまま地面へ落下するよりは結果が分からない分、すがる価値があった。