窓辺に注がれる微かな月明かりが部屋の輪郭を浮かび上がらせている。打ち捨てられたテーブルは脚が朽ちて傾き、壁には派手なヒビも幾つか見られる。かつてのマスコットらしきクマのぬいぐるみは首の糸がほつれて床に転がり、その内側に虫が巣を作り上げている。クマに縫いつけてあった真っ黒な目は片方剝がれ落ちてなくなっている。その目に合わせるように、そっと右目を指で覆う。
「………………………………………」
思わせぶりだが勿論、なにも起こらない。しかしなんとなく満たされた気持ちになった。
口を閉ざすと時計の秒針の音が聞こえる。この部屋には時計が備えつけられていて、それがまだ正常に動いている。今は夜の九時を回ったところで、つまり立派な夜間外出だ。
学校や市からも寂れた街の方には近寄るなというお達しはあったが、知ったことではない。ここの周辺は俺以外にも、昼間の不良、海島たちが女子との逢い引きに利用しているという噂もある。もっとも、数ヶ月前から廃ビルを利用しているがそんな輩に遭遇したことがないので、噂話の類だと思うがね。実際に鉢合わせたらどうするかについての対応は用意してあるが、それを緊張せずに実践できるかは怪しかった。
手鏡を開き、月明かりの入り込む窓際で自らの顔を確かめるが、相も変わらず眼球の色が異常を来しているだけだった。今は赤錆のような色をたたえて、濁った印象を与える。
その自らの瞳を、探るように、沈み込むように。一点を凝視し続ける。
「俺は最強だ、俺は最強だ、俺は最強だ……自己暗示、カーッ!」
締めに目を限界まで見開く。瞬間、俺の足もとは爆ぜた(床を思いっきり蹴って、足首を捻挫しかけた)。爆竹かちんどんやのように走り回り、「せぃ、やぁ!」と虚空に向けて拳を振り回す。それはまさに縦横無尽、のつもりだが、拳は鈍重で足腰は上半身の激しさについていけずもつれて、分解してしまいそうだった。脇腹いてぇ、超いてぇ。
数分どころか数十秒と保たず壁に手をつき、息は荒みきる。迫り上がる吐き気が喉を埋める。
「最強になっていないじゃないか!」
逆ギレして、床を強く踏みつける。埃が舞い散り、吸い込むと一層噎せた。
「ダメだ、こういうのじゃない」
首を激しく振って反省する。しかし、と唇が自然に動く。
「じゃあ、どういうものなんだ。修行って」
過去の偉人たちの文献(漫画とかラノベのバトルもの)を読み漁ってみたが、能力の覚醒における前提条件が、俺からすれば困難を極めている。空を見上げても女の子は降ってこないし、あんな危機に陥ったらそのまま死んじゃうだろうがこの野郎。
七年前からまったく進歩の見られない能力。年齢を重ねても目玉の大きさは変化しないように、俺の特異は広がりを見せない。観光地の滝に打たれに行ったこともあったが開眼することはなかった。いや既に目と芽、どちらも開ききっているのだ。
それが現実を見据える役目しか果たさないだけで。
本当に目を覚まし、盲目にも等しい見識の狭さを打破しなければいけないのは両親の方だ。
あいつらのことを考えただけで迸る怒りは、目の先へと集って視界を溶かすほどだ。
これだけのエネルギーが普段、自分のどこに隠れているのだろう。そしてその熱量をもってしても、俺は進化しない。自らを塗り替える力は、世界を塗り替える力に手を伸ばさない。
俺には世界を塗り替える資格があるはずなのに。
少なくとも、普通の人間よりは一歩だけ、世界の常識からはみ出ているのだ。
目の色を変えるという超常現象が、俺を枠外へ誘う。
だがしかし、たった一歩ではなにも変わらない。世界は、塗り替えられない。
壁を睨み、頰の肉を嚙む。
『シラサギ』と名乗る、翼を持つ少女の率いる宗教団体に両親が傾倒したのは五年前になる。今では両親どちらも、教団の幹部にまで上り詰める有様となった。
「救いようがないバカ共だ」
壁を拳の側面で叩く。ヒビが入っている壁ではあるが、俺の拳ではビクともしない。
両親が教団にその身と人生を捧げて以来、俺にとって家は帰るべき場所ではなくなった。極力寄りつかないように努め、だからこそ能力修行という名目で夜中もビルの中で過ごしていた。両親自体、滅多に家へ帰ってくることはないので掃除、洗濯といった家事は半ば崩壊し、家の中は汚物にまみれている。自分の部屋以外は一切、掃除しようと思わなかった。
だがそれでも、自分の両眼の秘密を明かしたことがその引き金となったという事実を自覚しているが故に。俺の願いは両親との決別ではなく、解放に傾いている。
今は、まだ。
「悪魔の子、ね」
根底にある、トラウマのように巡るその言葉を反芻する。
こんな能力しかない自分は、悪魔にもなれやしないのだ。
「あんたたちの自慢の子供は、ただの色物人間だよ」
神様と崇められる、翼を生やす女となにも変わっちゃいない。
自嘲に口の中が苦くなったことに気づき、嘆いているだけでは変わらないと自分に言い聞かせる。俺は祈ることに縋らない。いやたとえ祈るときであっても、行動を忘れない。
壁に張りついているだけのヤモリから、俺は脱却してみせる。
そしてもう少し修行に精を出すか、と思うがままに珍妙な姿勢(がに股になって右腕は腰に、左腕は胸の前に置いてめいっぱい力を込める。全身ぶるぶる)で構えた直後。
それは、始まった。
その夜、物語は動き出す。
偶然と、運命の二つに襲撃されて。
石が無造作に水面へ投げ込まれるように。
本来、上から下へとただ流れているだけだった川に、一つの淀みが生まれる。
その淀みがやがて、もう一つの流れとなる。そんな渦のお話の、はじまり。
などとこんなときでも頭の中で暢気に格好つけている俺を無視して、それは続いていた。
廊下側からいきなり、窓ガラスの割れる音が暴風のように押し寄せた。
順々にもかかわらず、その音は積み重なるように鳴り響く。
「襲撃……やつらか!」
小声で凄む。この能力の『奥』に潜むものを狙って、俺は様々な組織に追われ続けている。
勿論噓でそんな輩にまったく心当たりはない。が、時々、本当にそう思い込みかけるときがある。以前、その思い込みの強さを成実に呆れられた。しかしそんな余裕も、廊下を踊るように駆け抜ける影の存在を認めた途端に引っ込む。
誰かがいる。そいつが、ガラスを割りまくっている。これは頭の中の出来事じゃない。
その場に屈み込んで頭を抱えたまま、緊張に首筋が引きつる。耳が痛む。飛んできたガラスの破片に直接、鼓膜を傷つけられたように音が離れない。立ち上がろうとしても膝が笑って、尻が上がらない。関節がすべて石になったようだった。
半ば自動的に身を硬くして、事態をやり過ごすことに努める。先程見かけた影がそのまま、廊下の奥にでも消えてくれること、もしくは単なる見間違いであることを祈りながら。
やがて音が風化したように消え去り、再び室内を静寂が包む。そこでようやく俺は頭と耳から手を離し、恐る恐る背筋を伸ばす。廊下の方へ目をやるが、窓ガラスが無軌道に割られていること以外に変化はない。動くもの、影が消えたことに、まずは安堵の息を吐いた。
胃腸の膜が痙攣したように震えている。苛立つように内臓が痛み、鈍重な気分は拭いきれない。
なにが起きたというのだろう。
真っ先に思い浮かんだのは地震だった。だがそれほど激しく建物が揺れれば、四階にいる俺自身がそれを感じないはずがない。次に突風だが、熱帯夜の七月にそんなものは無縁だった。