トカゲの王I ―SDC、覚醒―

プロローグ1『トカゲと鴨のゲシュタルト』 ⑦

 窓辺に注がれるかすかな月明かりが部屋のりんかくを浮かび上がらせている。打ち捨てられたテーブルは脚がちて傾き、かべには派手なヒビも幾つか見られる。かつてのマスコットらしきクマのぬいぐるみは首の糸がほつれて床に転がり、その内側に虫が巣を作り上げている。クマにいつけてあった真っ黒な目は片方がれ落ちてなくなっている。その目に合わせるように、そっと右目を指でおおう。


「………………………………………」


 思わせぶりだがもちろん、なにも起こらない。しかしなんとなく満たされた気持ちになった。

 口を閉ざすと時計の秒針の音が聞こえる。この部屋には時計が備えつけられていて、それがまだ正常に動いている。今は夜の九時を回ったところで、つまり立派な夜間外出だ。

 学校や市からも寂れた街の方には近寄るなというお達しはあったが、知ったことではない。ここの周辺はおれ以外にも、昼間の不良、うみしまたちが女子とのい引きに利用しているといううわさもある。もっとも、数ヶ月前から廃ビルを利用しているがそんなやからそうぐうしたことがないので、噂話のたぐいだと思うがね。実際に鉢合わせたらどうするかについての対応は用意してあるが、それを緊張せずにじつせんできるかは怪しかった。

 手鏡を開き、月明かりの入り込むまどぎわで自らの顔を確かめるが、相も変わらず眼球の色が異常をきたしているだけだった。今はあかさびのような色をたたえて、にごった印象を与える。

 その自らのひとみを、探るように、沈み込むように。一点をぎようし続ける。


「俺は最強だ、俺は最強だ、俺は最強だ……自己暗示、カーッ!」


 締めに目を限界まで見開く。しゆんかん、俺の足もとはぜた(床を思いっきりって、足首をねんしかけた)。爆竹かちんどんやのように走り回り、「せぃ、やぁ!」とくうに向けてこぶしを振り回す。それはまさにじゆうおうじん、のつもりだが、拳は鈍重で足腰は上半身の激しさについていけずもつれて、分解してしまいそうだった。わきばらいてぇ、超いてぇ。

 数分どころか数十秒とたずかべに手をつき、息はすさみきる。り上がる吐き気がのどを埋める。


「最強になっていないじゃないか!」


 逆ギレして、床を強く踏みつける。ほこりが舞い散り、吸い込むと一層せた。


「ダメだ、こういうのじゃない」


 首を激しく振って反省する。しかし、とくちびるが自然に動く。


「じゃあ、どういうものなんだ。修行って」


 過去の偉人たちの文献(漫画とかラノベのバトルもの)を読みあさってみたが、能力のかくせいにおける前提条件が、俺からすれば困難を極めている。空を見上げても女の子は降ってこないし、あんな危機におちいったらそのまま死んじゃうだろうがこの野郎。

 七年前からまったく進歩の見られない能力。年齢を重ねても目玉の大きさは変化しないように、俺の特異は広がりを見せない。観光地のたきに打たれに行ったこともあったがかいげんすることはなかった。いやすでに目と芽、どちらも開ききっているのだ。

 それが現実をえる役目しか果たさないだけで。

 本当に目を覚まし、盲目にも等しい見識の狭さを打破しなければいけないのは両親の方だ。

 あいつらのことを考えただけでほとばしる怒りは、目の先へとつどって視界を溶かすほどだ。

 これだけのエネルギーが普段、自分のどこに隠れているのだろう。そしてその熱量をもってしても、俺は進化しない。自らを塗り替える力は、世界を塗り替える力に手を伸ばさない。

 俺には世界を塗り替える資格があるはずなのに。

 少なくとも、普通の人間よりは一歩だけ、世界の常識からはみ出ているのだ。

 目の色を変えるという超常現象が、俺を枠外へいざなう。

 だがしかし、たった一歩ではなにも変わらない。世界は、塗り替えられない。

 かべにらみ、ほおの肉をむ。


『シラサギ』と名乗る、つばさを持つ少女の率いる宗教団体に両親が傾倒したのは五年前になる。今では両親どちらも、教団の幹部にまで上り詰めるありさまとなった。


「救いようがないバカ共だ」


 壁をこぶしの側面でたたく。ヒビが入っている壁ではあるが、おれの拳ではビクともしない。

 両親が教団にその身と人生をささげて以来、俺にとって家は帰るべき場所ではなくなった。極力寄りつかないように努め、だからこそ能力修行という名目で夜中もビルの中で過ごしていた。両親自体、めつに家へ帰ってくることはないので掃除、洗濯といった家事は半ば崩壊し、家の中はぶつにまみれている。自分の部屋以外は一切、掃除しようと思わなかった。

 だがそれでも、自分の両眼の秘密を明かしたことがその引き金となったという事実を自覚しているがゆえに。俺の願いは両親との決別ではなく、解放に傾いている。

 今は、まだ。


「悪魔の子、ね」


 根底にある、トラウマのように巡るその言葉をはんすうする。

 こんな能力しかない自分は、悪魔にもなれやしないのだ。


「あんたたちの自慢の子供は、ただの色物人間だよ」


 神様とあがめられる、翼を生やす女となにも変わっちゃいない。

 ちように口の中が苦くなったことに気づき、なげいているだけでは変わらないと自分に言い聞かせる。俺は祈ることにすがらない。いやたとえ祈るときであっても、行動を忘れない。

 壁に張りついているだけのヤモリから、俺は脱却してみせる。

 そしてもう少し修行に精を出すか、と思うがままに珍妙な姿勢(がにまたになって右腕は腰に、左腕は胸の前に置いてめいっぱい力を込める。全身ぶるぶる)で構えた直後。

 それは、始まった。


 その夜、物語は動き出す。

 偶然と、運命の二つにしゆうげきされて。

 石がぞうに水面へ投げ込まれるように。

 本来、上から下へとただ流れているだけだった川に、一つのよどみが生まれる。

 その淀みがやがて、もう一つの流れとなる。そんな渦のお話の、はじまり。


 などとこんなときでも頭の中でのんに格好つけている俺を無視して、それは続いていた。

 廊下側からいきなり、窓ガラスの割れる音が暴風のように押し寄せた。

 順々にもかかわらず、その音は積み重なるように鳴り響く。


しゆうげき……やつらか!」


 小声ですごむ。この能力の『奥』に潜むものをねらって、おれは様々な組織に追われ続けている。

 もちろんうそでそんなやからにまったく心当たりはない。が、時々、本当にそう思い込みかけるときがある。以前、その思い込みの強さをなるあきれられた。しかしそんな余裕も、廊下を踊るように駆け抜ける影の存在を認めたたんに引っ込む。

 だれかがいる。そいつが、ガラスを割りまくっている。これは頭の中の出来事じゃない。

 その場にかがみ込んで頭をかかえたまま、緊張に首筋が引きつる。耳が痛む。飛んできたガラスの破片に直接、まくを傷つけられたように音が離れない。立ち上がろうとしてもひざが笑って、しりが上がらない。関節がすべて石になったようだった。

 半ば自動的に身を硬くして、事態をやり過ごすことに努める。先程見かけた影がそのまま、廊下の奥にでも消えてくれること、もしくは単なる見間違いであることを祈りながら。

 やがて音が風化したように消え去り、再び室内を静寂が包む。そこでようやく俺は頭と耳から手を離し、恐る恐る背筋を伸ばす。廊下の方へ目をやるが、窓ガラスが無軌道に割られていること以外に変化はない。動くもの、影が消えたことに、まずはあんの息をいた。

 胃腸の膜がけいれんしたようにふるえている。いらつように内臓が痛み、鈍重な気分はぬぐいきれない。

 なにが起きたというのだろう。

 真っ先に思い浮かんだのは地震だった。だがそれほど激しく建物が揺れれば、四階にいる俺自身がそれを感じないはずがない。次に突風だが、熱帯夜の七月にそんなものは無縁だった。