「よっと」
男の背に寄りかかるように、徐々に体重を載せていく。
ナイフが地面に落ちる音が聞こえたが、少年はそんな事はまったく気にかけない。
何かが軋むような音が、男の腕の関節あたりからはっきりと聞こえてくる。
が、その音もまた、男自身の悲鳴によって搔き消された。
「うあ…うああああぁぁぁぁっぁっかっうぁっややややややっやめっやめてくれれ…!」
男の意志が痛みに支配されているのを確認すると、少年は男の体を赤暗い煉瓦の壁へと叩きつけた。鈍い音と共に、男はガクリと膝をついた。それからゆっくりと体を倒すと、低いうめき声と共に地面を転げ回る。
少年はその様子を横目に、短い荒事の間に散らばった小銭を拾い集めた。
そして、男の動きが止まるのを確認すると、
「ほら…立てよ」
あくまで用心深く男の腕を取り、自分より一回り大きい体を引き起こす。そして、そのまま赤煉瓦の壁へと男をもたれかけさせた。
「信仰心の薄い俺に声をかけたのが間違いだったな……生憎と、黙って刺されてやるほどの自己犠牲精神は持ち合わせてはいないんでね」
男は肩で息をしながら少年の皮肉を聞き流すと、目だけを素早く動かした。こんな状況下ではあるが、何とか自分の逃げる方法を模索しているのだろう。
「逃げるつもりか? そう焦るな」
少年は拾い集めた小銭を掌の上に広げると、男の目の前に突き出して、
「言ったろ? 幸運だと思って……」
そのまま、広げていた手を小銭ごと堅く握りしめる。
「……ありがたく、受け取っとけってなあっ」
それほど大きく振りかぶったようには見えなかった。だが、繰り出された少年の拳は、男の前歯をへし折るには充分な威力だった。
「~~~~~~~~~っ!」
男は殴られた衝撃で、赤煉瓦に後頭部を強く打ち付ける。前歯の痛みも伴い、声にならない悲鳴をあげると───ずるり…と、壁に背中をこすり付け───だらしなく地面に崩れ落ちた。
先刻と違い完全に意識を失っているため、地面を転げ回りはしなかった。
少年は、堅く握っていた拳をゆっくりと緩める。その中から次々と硬貨がこぼれ落ち、鼻と口からの出血にまみれた男の顔面へと降り注いだ。何枚かがだらしなく開かれた口の中へと入り込む。地面にこぼれた分の乾いた金属音が、路地裏を退廃的な空気に包み込んでいた。
「……ん?」
見ると、少し離れた所にさっきのナイフが落ちている。何処にでもあるような型で、大した価値も無い一品だ。
(川にでも捨てとくか……)
一瞬降り返ると、男は確かに気絶していた。だが少年は、念には念を入れて凶器を回収しておくことにした。
鈍く光る安物に手を伸ばした瞬間、少年の名を呼ぶ声が。
「フィーロ・プロシェンツォ。その手を止めろ」
ナイフに触れかけた手を静かに引き、少年────フィーロは声のした方向…路地裏の出入口…大通りの光の方へと目を向けた。
逆光の中に立つ青年の姿が見える。20代半ばといった年頃の青年が、褐色のスーツの上に、膝まで隠れる黒コートを羽織っていた。
「困るな…証拠品に勝手に触られちゃ……」
青年は嫌味ったらしい目をフィーロに向けながら、白い手袋でゆっくりとナイフを拾い上げた。
「エドワード…これは、どういうことだ?」
「『エドワードさん』だろう? 目上の人間には『さん』ぐらいつけろよ……小僧。なんだったら、『エドワード警部補殿』でも構わんがな」
黒コートの男……エドワード・ノア警部補は、高慢な笑みを浮かべながら静かに右手を上げた。
すると、彼の背後から数人の男が現れ……破けた紙袋、散らばった硬貨、気絶している間抜けを次々と『回収』し始めた。フィーロの事などまるで気にかけない。頭一つ背の高い彼らにとっては、文字通り『眼中に無い』のであろう。
「おいおいお前ら、そのガキを踏み潰さないように気をつけてやれよ」
上司のつまらないジョークを聞き流し、男達は黙々と作業を続ける。
「…ふん、つきあいの悪い連中だ」
「説明しろよ、エドワード…さん。これじゃ俺がただの阿呆みてえだろう」
それまで沈黙を続けていたフィーロが、静かに口を開いた。
物品が粗方持ち去られ、作業に勤しんでいた男達の姿はもう見られない。先ほどの出来事の痕跡は、物乞いの残した僅かな血痕のみ。
エドワードはその問いかけに対し、顔はおろか、目線すら向けずに答えた。
「そうだな、お前は阿呆じゃない。クズ野郎で、町のダニではあるがな」
「はぐらかすな…」
フィーロの言葉に、不快の意がこもり始める。エドワードはそれを嘲るような笑いを浮べると、葉巻に火をつけながら赤煉瓦の壁にもたれかかった。
「ま、そう怖い顔をするな……今しがたお前がのした男だがな…あれは、俺達が目をつけてた容疑者だ」
「何の?」
「殺人だよ。お前にやったのと同じ手口だと思うが、路地裏で物乞いのふりして、親切な紳士淑女の身なり…あるいは財布の中身を確認する、そんでもってリスクに見合う金を持ってそうだったら、紙袋に隠したナイフでブスリ!……ってわけだ。もっとも、紙袋はさっき初めて知ったんだがな」
「何だってそんなのを野放しにしてた」
「目撃証言はあったんだが、いまいち決め手にならなくてな。手っ取り早く警官を囮にして、現行犯逮捕するつもりだった」
エドワードは葉巻を大きく吸い込んだ。
「そこに、俺が現れたってわけか」
「まあな。ぶっちゃけた話、お前ら以外ならそれとなく人を通らせて安全を図るつもりだったが」
「…最初っから、ずっと見張ってたってわけか。随分と大層な御趣味だな。人が殺されるかも知れない瞬間を、ボクシングの観戦気取りで見てたってわけか。…そいつはさぞかしポップコーンの手が進んだんだろうな?」
「そう思うからこそ、お前の過剰防衛を見逃してやるんだよ」
「……ありがたくて涙が止まらないな」
「それにしても、俺としてはお前が刺されて死んでくれりゃ良かったと思ってたんだが……よくもまあ、避けられたもんだ」
「あんな人気の無い所で物乞いをしてれば、警戒はして当然だろう。そこへ、あのあからさまに怪しい紙袋だ。…中身が銃じゃなくてよかったよ」
「ほお? なら無視すりゃ良かっただろ?」
当然といえば当然の事を聞いてくる。
「今日はそんな気分だったんだよ。万が一ただの物乞いだったら、金はくれてやるつもりだった……おい、なんでそんなにつっかかる?」
「言っただろう? 犯人は財布に金が詰まってる奴しか相手にしない。それこそ、まだ明るいうちに人を刺し殺して逃げるっていうリスクに見合う金しか狙わねえ。二十歳前のガキがそんな大金を持ってるとは信じられなかったんでなあ?」
明らかに、持っているのを知っている上での皮肉であった。
「………俺を、脱税か窃盗の容疑で調べようってのか?」
フィーロの目が、鋭い光を放ち始める。
「は! 冗談だろう? 誰がお前みたいな小物の為に、そんな回りくどい真似をする必要がある? 仮にお前が組織の頂点だったとしても、あんな弱小組織、周りに喰われるだけのエサじゃねえか! 今だに残ってんのは、不味そうでどこも見向きすらしてくれねえからだろうが!」
「────それ以上は侮辱と受け取る」
フィーロはただ一言、短く言いきった。