バッカーノ! The Rolling Bootlegs

『1日目』 ②

「よっと」


 男の背に寄りかかるように、じよじよに体重をせていく。

 ナイフが地面に落ちる音が聞こえたが、少年はそんな事はまったく気にかけない。

 何かがきしむような音が、男の腕の関節あたりからはっきりと聞こえてくる。

 が、その音もまた、男自身の悲鳴によってき消された。


「うあ…うああああぁぁぁぁっぁっかっうぁっややややややっやめっやめてくれれ…!」


 男の意志が痛みに支配されているのを確認すると、少年は男の体を赤暗いれんの壁へとたたきつけた。鈍い音と共に、男はガクリとひざをついた。それからゆっくりと体を倒すと、低いうめき声と共に地面を転げ回る。

 少年はその様子を横目に、短いあらごとの間に散らばったぜにを拾い集めた。

 そして、男の動きが止まるのを確認すると、


「ほら…立てよ」


 あくまで用心深く男の腕を取り、自分より一回り大きい体を引き起こす。そして、そのまま赤煉瓦の壁へと男をもたれかけさせた。


「信仰心の薄いおれに声をかけたのが間違いだったな……生憎あいにくと、黙ってされてやるほどの自己犠牲精神は持ち合わせてはいないんでね」


 男は肩で息をしながら少年の皮肉を聞き流すと、目だけを素早く動かした。こんな状況下ではあるが、何とか自分の逃げる方法をさくしているのだろう。


「逃げるつもりか? そうあせるな」


 少年は拾い集めたぜにてのひらの上に広げると、男の目の前に突き出して、


「言ったろ? 幸運だと思って……」


 そのまま、広げていた手を小銭ごとかたく握りしめる。


「……ありがたく、受け取っとけってなあっ」


 それほど大きく振りかぶったようには見えなかった。だが、繰り出された少年のこぶしは、男の前歯をへし折るには充分な威力だった。


「~~~~~~~~~っ!」


 男はなぐられたしようげきで、赤れんに後頭部を強く打ち付ける。前歯の痛みも伴い、声にならない悲鳴をあげると───ずるり…と、壁に背中をこすり付け───だらしなく地面に崩れ落ちた。

 先刻と違い完全に意識を失っているため、地面を転げ回りはしなかった。

 少年は、堅く握っていた拳をゆっくりとゆるめる。その中から次々と硬貨がこぼれ落ち、鼻と口からの出血にまみれた男の顔面へと降り注いだ。何枚かがだらしなく開かれた口の中へと入り込む。地面にこぼれた分の乾いた金属音が、うらを退廃的な空気に包み込んでいた。


「……ん?」


 見ると、少し離れた所にさっきのナイフが落ちている。にでもあるような型で、大した価値も無い一品だ。


(川にでも捨てとくか……)


 一瞬降り返ると、男は確かに気絶していた。だが少年は、念には念を入れてきようを回収しておくことにした。

 にぶく光る安物に手を伸ばした瞬間、少年の名を呼ぶ声が。


「フィーロ・プロシェンツォ。その手を止めろ」


 ナイフに触れかけた手を静かに引き、少年────フィーロは声のした方向…路地裏の出入口…大通りの光の方へと目を向けた。

 逆光の中に立つ青年の姿が見える。20代半ばといった年頃の青年が、かつしよくのスーツの上に、ひざまで隠れる黒コートをっていた。


「困るな…証拠品に勝手にさわられちゃ……」


 青年はいやったらしい目をフィーロに向けながら、白い手袋でゆっくりとナイフを拾い上げた。


「エドワード…これは、どういうことだ?」

「『エドワードさん』だろう? 目上の人間には『さん』ぐらいつけろよ……ぞう。なんだったら、『エドワード警部補殿』でも構わんがな」


 黒コートの男……エドワード・ノア警部補は、こうまんな笑みを浮かべながら静かに右手を上げた。

 すると、彼の背後から数人の男が現れ……破けた紙袋、散らばった硬貨、気絶している間抜けを次々と『回収』し始めた。フィーロの事などまるで気にかけない。頭一つ背の高い彼らにとっては、文字通り『眼中に無い』のであろう。


「おいおいお前ら、そのガキを踏みつぶさないように気をつけてやれよ」


 じようのつまらないジョークを聞き流し、男達は黙々と作業を続ける。


「…ふん、つきあいの悪い連中だ」


「説明しろよ、エドワード…さん。これじゃおれがただのみてえだろう」


 それまで沈黙を続けていたフィーロが、静かに口を開いた。

 物品があらかた持ち去られ、作業にいそしんでいた男達の姿はもう見られない。先ほどの出来事のこんせきは、物いの残したわずかなけつこんのみ。

 エドワードはその問いかけに対し、顔はおろか、目線すら向けずに答えた。


「そうだな、お前はじゃない。クズろうで、町のダニではあるがな」

「はぐらかすな…」


 フィーロの言葉に、不快の意がこもり始める。エドワードはそれをあざけるような笑いを浮べると、葉巻に火をつけながら赤れんの壁にもたれかかった。


「ま、そう怖い顔をするな……今しがたお前が男だがな…あれは、俺達が目をつけてた容疑者だ」

「何の?」

「殺人だよ。お前にやったのと同じ手口だと思うが、うらで物乞いのふりして、親切なしんしゆくじよの身なり…あるいはさいの中身を確認する、そんでもってリスクに見合う金を持ってそうだったら、紙袋に隠したナイフでブスリ!……ってわけだ。もっとも、紙袋はさっき初めて知ったんだがな」

「何だってそんなのを野放しにしてた」

「目撃証言はあったんだが、いまいち決め手にならなくてな。手っ取り早く警官をおとりにして、現行犯逮捕するつもりだった」


 エドワードは葉巻を大きく吸い込んだ。


「そこに、俺が現れたってわけか」

「まあな。ぶっちゃけた話、お前ら以外ならそれとなく人を通らせて安全を図るつもりだったが」

「…最初っから、ずっと見張ってたってわけか。ずいぶんと大層な趣味だな。人が殺されるかも知れない瞬間を、ボクシングの観戦気取りで見てたってわけか。…そいつはさぞかしポップコーンの手が進んだんだろうな?」

「そう思うからこそ、お前のを見逃してやるんだよ」

「……ありがたくて涙が止まらないな」

「それにしても、俺としてはお前がされて死んでくれりゃ良かったと思ってたんだが……よくもまあ、避けられたもんだ」

「あんなひとの無い所で物いをしてれば、けいかいはして当然だろう。そこへ、あのあからさまにあやしい紙袋だ。…中身がじゆうじゃなくてよかったよ」

「ほお? なら無視すりゃ良かっただろ?」


 当然といえば当然の事を聞いてくる。


「今日はそんな気分だったんだよ。万が一ただの物乞いだったら、金はくれてやるつもりだった……おい、なんでそんなにつっかかる?」

「言っただろう? 犯人はさいに金が詰まってるやつしか相手にしない。それこそ、まだ明るいうちに人を刺し殺して逃げるっていうリスクに見合う金しかねらわねえ。前のガキがそんな大金を持ってるとは信じられなかったんでなあ?」


 明らかに、持っているのを知っている上での皮肉であった。


「………俺を、脱税かせつとうの容疑で調べようってのか?」


 フィーロの目が、鋭い光を放ち始める。


「は! じようだんだろう? 誰がお前みたいな小物の為に、そんな回りくどいをする必要がある? 仮にお前がの頂点だったとしても、あんな弱小組織、周りに喰われるだけのエサじゃねえか! 今だに残ってんのは、そうでどこも見向きすらしてくれねえからだろうが!」

「────それ以上はじよくと受け取る」


 フィーロはただ一言、短く言いきった。