「可能性の話だよ、『聖杯』を追い求めた例の三家は、聖杯を手にするためにそれこそなんでもやったと聞く。そもそも、何者が『聖杯戦争』をこの町で再現しようとしているのかもつかめていないんだぞ? それこそマキリやアインツベルンの縁者が出てきても驚かんよ。……遠坂の縁者は今は時計塔にいるのみだから、それはないと思うがね」
完全には三家の関与を否定せぬまま、老魔術師は再び双眼鏡に目を向けた。
もう午後11時を回ろうかというのに、都市の明かりはほとんど明度を落とすことなく、曇天の夜空に煌々と己の存在を誇示している。
数分ほど観察を続けていた老魔術師が、次の段階だとばかりに、レンズ越しに霊脈の流れを視るための術式を準備し始めた。
その様子を背後から見ていた弟子は、神妙な顔で師の背中に問いかける。
「もしも本当に『聖杯戦争』が起こるとすれば、我らが『協会』も、『教会』の信仰者達も黙ってはいないでしょう」
「ああ……あくまで兆候に過ぎんからな。地脈の流れに異常があると、時計塔のロード・エルメロイが言っていたのだが……彼の弟子ならともかく、彼自身の推測は粗が目立つ。こうして現地まで出向いて確認するというわけだ」
疲れたように笑いながら、老魔術師は自らの願望を語り出す。
苛立ちと嘲りを入り交じらせた声色で、弟子か、あるいは己に対して縷々と述べる。
「もっとも、英霊なぞ聖杯の下ごしらえがなければ召喚できるものではない。実際に英霊の召喚が成されればその時点で疑惑は確信へと変わるのだが……そうなって欲しくはないものだ」
「おや、意外なお言葉ですね」
「私個人としては、ただのデマであって欲しいと思っているよ。仮に何かが顕現したとしても、それが贋物の聖杯であって欲しいというのが本音だ」
「さっきの話と矛盾してませんか? 聖杯は魔術師の悲願であり通過点だと……」
眉を顰めながら尋ねるファルデウスに、師は忌々しげに首を振った。
「ああ……そうだな。だが、仮に真なる聖杯と呼ぶに価するものだとすれば、まったくもって忌々しいことだ。このような歴史の浅い国にそれが顕現するなど……。正直、多くの魔術師は『根源に到達できるのならば関係ない』と言うだろうが、私は違う。どうにも、礼儀知らずの若造に寝台を土足で踏みにじられた気分だよ」
「そういうものですか」
なおも淡泊な調子で言葉を返す弟子に、老魔術師は本日何度目かの溜息をついて話を変える。
「しかし、本来の場所とは異なる土地で、如何なるサーヴァントが召喚されるのか……」
「まったく予想ができませんね。アサシンはともかく、他の五種に関しては召喚者次第ですから」
ファルデウスの返答に、師は苛立たしさを隠しもせずに叱咤の言葉を紡ぎ出す。
「おい、アサシンを除けば残り六体だ。先刻自分の口から七体のサーヴァントと吐き出したばかりだろう! しっかりしてくれ!」
聖杯戦争に喚ばれる英霊には、それぞれクラスが与えられる。
セイバー
アーチャー
ランサー
ライダー
キャスター
アサシン
バーサーカー
召喚された英霊はそれぞれの特性に合わせた存在として顕現し、己の業をさらに研ぎ澄ます。剣の英雄ならばセイバーとして、槍を用いた英雄ならばランサーというように。
殺し合いを始めるにあたり、互いの真名を告げることは弱点や能力を晒すことになるため、通常はそうしたクラス名でことを進めることとなる。また、それぞれのクラスによって闘争におけるスキルにも多少の差異が生じる。
例えばキャスターの『結界作成能力』や、アサシンの『気配遮断』がそれにあたる。
いわば、それぞれ違う特性を持ったチェスの駒のようなものだ。
手駒は一つだけ。しかもバトルロイヤルという変則的なチェス。指し手たるマスターの力量次第で、どの駒にも盤を制するチャンスが存在する。
そうした、いわば聖杯戦争の常識の中の常識であるという部分を言い損じたことに、師は弟子の不肖を嘆いたつもりだったのだが──
叱咤をされた側の男は、無表情だった。
師の言葉を飄々と聞き流すわけでもなく、反省の色を見せるわけでもなく、ただ、淡々と言葉を紡ぐ。
「いいえ、六柱ですよ。ミスター・ランガル」
「……なに?」
刹那、冷たい違和感が老魔術師ランガルの背を走り抜けた。
ファルデウスが自分のことを名で呼ぶなど、これが初めてのことだ。
何をふざけているのだと怒鳴りつけるところだったのかもしれないが、ファルデウスの冷え切った視線がそれを押しとどめる。
沈黙する師に対し、男は淡々と無感情な顔を蠢かせ、師の口にした一つの『間違い』を指摘する。
「日本で行われた聖杯戦争のクラスは確かに七柱というのがルールでした。しかし、この町の場合は六柱です。こと闘争において最も力を発揮するといわれる『セイバー』のクラスですが……この偽りの『聖杯戦争』には存在しないんですよ」
「何を……言っている?」
ギチリ、と背骨から音がする。
体の中に張り巡らされた魔術回路が、通常の神経が、血管のすべてが、ランガルの耳に違和感を通り越した『警報音』を響かせている。
弟子は──少なくとも数分前までは弟子だったはずの男は、一歩こちらに踏み出しながら、感情を消した声で自らの言葉を紡ぎ出した。
「マキリとアインツベルンと遠坂、彼らの生み出したシステムはじつに素晴らしい。それゆえ、完璧にコピーすることはできなかった。完全にコピーした状態で始めたかったのですが、何しろシステムを模倣する為に参考にした第三次聖杯戦争はトラブル続きでしてね。本当に参りました」
明らかに20代中盤としか思えない青年が、まるで視てきたかのように60年以上前の出来事を語り出す。
そして、不意に表情に険の色をこめたかと思うと、口の端を紐で引いたように歪めながら、あくまで淡々と自らの感情を吐き出した。
「貴方は我が国を『若い』と仰いましたが、だからこそ覚えておくべきですよ、御老体」
「……何?」
「若い国を、あまり侮るべきではない、と」
ギチリ ギチリ ギチ ギチチ ギリ ガキリ ギチ ギチリ。
ランガルの全身の骨と筋肉が軋みをあげる。理由は警戒か、あるいは怒りによるものか。
「貴様……ファルデウスではない……のか?」
「ファルデウスですよ? もっとも、その名以外の真実を貴方に見せたことはありませんが。ともあれ、『協会』については本日、この瞬間まで多くを学ばせていただきました。その点について、まずは謝礼を述べるべきでしょうか」
「……」
魔術師としての経験を長く積んできたランガルは、目の前の男についての認識を一瞬にして『弟子』から『敵』へと切り替える。
それなりに長い時間を共にしてきた男を、出方によっては次の瞬間に殺すべく感情をスイッチさせたのだが──それでも、ランガルの全身からは警戒音が鳴り響いたままだ。
魔術師としての腕はすでに確認しているはずだった。
力を隠している様子もなかった。それは、自分が協会の間諜にかかわっていた経験からも確信できる。
しかし、その経験のすべてが、現在自分が置かれている状況が危険であると告げているのも確かなことだ。
「つまり、外部組織から協会へのスパイだったというわけか。私の前で魔術師を志すと口にした瞬間から」
「外部組織、ねえ」
粘つくような声を漏らし、ファルデウスは相手の誤解を正そうとする。