クースラは、ウェランドの斜め後ろからその横顔を盗み見るが、ウェランドは表情を消していてわからない。
「あなた方、神の道より外れし者の行動は、逐一上に報告いたします。神の教えを忘れることなく、神の秩序を乱すことなく、神の威光を汚すことなかれ。以上の三つを頭に刻み、騎士団のため、神のために働いてください」
まるで修道会の入会儀式だが、恐ろしいのはフェネシスと名乗った修道女が、本気の目をしていることだ。
この年頃で変に頭の良い少女は、狂信という病とびっくりするほど相性がいい。
視野が狭く、直情的。
ポーストはおそらくこのことを謝っていた。世の中には、戦う人、祈る人、耕す人と三種類あるように、騎士団も権力構造は一枚岩ではない。
騎士団に雇われる錬金術師は、そのほとんどが武器や攻城技術に関わる性質上、戦う集団の一部門に属している。しかも様々な物資を必要とするために、基本的には輜重隊にぶら下がっていた。
だが、目の前のフェネシスは明らかに祈りの集団の先兵だ。修道女であることからして、騎士団内部の聖歌隊の人間だろう。もちろん、教会の聖歌隊とは訳が違う。教会の聖歌隊は静かな教会の中で神のことを賛美するが、騎士団の聖歌隊は血と怒号が飛び交う戦場で神のことを賛美する。
信仰の質と、方向性が違う。もっと陰険で、権力主義的だ。常に戦の集団の権勢を侵食しようと虎視眈々と狙っている。ポーストの失墜を狙う者は、教会だけではなく身内の人間にも大勢いるというわけだ。森で傷を負えば、覇者たる狼ですら他の動物の餌食になる。騎士団の「備品」たる錬金術師を殺されたという傷の匂いを嗅ぎつけて、グルベッティの権力をポーストから横取りする機会を窺いに来たのだろう。
その上話がややこしいのは、同じ騎士団に属しているにもかかわらず、そもそも聖歌隊の人間は錬金術師を敵視していることだ。
神に盾つく存在は、なんであれ地上から消え失せろと、聖歌隊の連中は本気で思っている。
毒殺と暗殺で身を守れというのは、こういうことかと納得する。
トーマスは誰に殺されたかわからない。
それは、敵が身内にいる可能性すらあるということだ。
「お返事は?」
フェネシスが、顎を引いてそう尋ねる。
幼い頃、近所の教会で糞尼に仕置き棒で頬を張られた時のことを思い出す。
こいつは、最初が肝心だ。
クースラがそう思い、口を開こうとしたその瞬間のこと。
ウェランドがすっと前に歩み出て、手を伸ばした。
握手。
そんなまさか、というのは相手も同じだったらしい。意外そうな顔をして、それでも右手が自然に伸びていた。それが人間の反応というものだ。
だが、ウェランドの手はそのまま相手の手を素通りし、ぺたり、と目的地に到着した。
フェネシスとやらは、ウェランドの手を目を丸くして追いかけていた。
自分の胸に当てられ、わし、と遠慮なく五指を突き立てたその手を。
「ふうん?」
ウェランドは首をかしげ、目当ての物がなかったような、そんな顔をしている。
そして、もっと確かめようともう一方の手を伸ばそうとした瞬間だ。
フェネシスがウェランドの手を振り払って平手打ちを繰り出した。
「ふん」
ウェランドはひょいと体を反らしてそれを避ける。
フェネシスが無表情なのは、平手打ちを避けられたからというより、事態に頭がついていっていないからだろう。クースラだって、ウェランドの行動に呆気にとられていた。
平手打ちは、ほとんど反射的なもの。
なので、あっさり避けられると体の平衡を保てずに、ぐらりと揺れて、ウェランドの胸に肩が当たる。
「──っ!」
それでようやく我に返ったらしい。
ウェランドの胸を押し、逃げようとしたその刹那。
ウェランドの手がフェネシスの細い腕を掴み、あまりの力の差にフェネシスの体ががくんと揺れる。
「な、にを──」
と、フェネシスが抗議の声をどこまで上げられたのか、クースラは聞き取れなかった。
自分の胸を押して逃げようとする修道女の腕を掴んだウェランドは、残る手でまだ幼い少女の口を覆うように顔を掴んだのだ。クースラが思わず息を飲むほど、ウェランドの手の中にすっぽり収まる小さい顔だ。
そして、ウェランドは目を見開いているフェネシスの顔を無理やりぐいと引き寄せて、その目を覗き込むようにしながら言った。
「ここは錬金術師の工房だよお。子供がうろついてると、とても、危ない」
「っ! っ!」
ウェランドは細身に見えるが、冶金作業でその体はそこいらの傭兵よりも鍛え抜かれている。フェネシスがどれだけ暴れたって、びくともしない。
フェネシスが口を覆われ、見開いた目を一瞬も閉じられないのは、閉じた瞬間に首の骨を折られるかもしれない、という本能的な恐怖があるからだろう。
ウェランドはそれ以上言葉を重ねずに、じっとフェネシスの目を覗き込んでいる。フェネシスが必死に体をよじろうとしても、本当にかけらも動かさない。
やがてフェネシスは、暴れるというよりも、恐怖で体を震わせ始めていた。
「ふんっ」
最後につまらなそうに鼻を鳴らし、ウェランドはフェネシスの顔から手を離す。
目を見開いたままのフェネシスは後ろによろめき、数歩は耐えたが、すぐに腰が抜けたようでその場にへたり込んだ。
クースラは、そこでようやく、ウェランドの視線に気がついた。
「俺は工房に行くから、後は任せたよお」
そして、さっさと階段を下りて行ってしまった。
クースラがハッと我に返った時には後の祭り。
人心掌握方法の基礎の基礎だ。
一人が標的に圧倒的な畏怖や徹底的な嫌悪感を与えれば、もう一人は逆に親しくなりやすくなる。監視役と名乗ったのがこいつの運のつき。その瞬間に動かなかったのがクースラの運のつき。
悪役はウェランドに取られ、面倒な善役を押しつけられた。
ただ、だからといってなんのためらいもなく少女の胸を揉んだうえ、かけらの慈悲も見せずに脅せるウェランドの精神構造に恐れ入る。
クースラは、呆れるほかない。
それに、今更取り返しはつかない。ため息を必死に飲み込み、自分の役目を受け入れるしかない。陰険な祈りの連中が監視として寄越すということは、この哀れな少女は自分の意思とは関係なしに、この工房の監視をやらされるはずだろうからだ。
こんな目に遭わされても、きっと明日も明後日も来るだろう。
うまく懐柔しておかないと、まともに作業なんてできなくなる。
だが、その相手の面倒くささは、考えるだけでうんざりした。
クースラは、すぐに動けなかった自分が悪いと言い聞かせ、声も表情もなくただただ涙を流す修道女の側にしゃがみ込んだ。
小さな悲鳴みたいなものを上げて、フェネシスとやらは後ずさろうとした。
「大丈夫か? あいつはちょっと、頭がおかしいんだ」
それが長い長い慰めの、最初の一言だった。