廊下には書類を抱えた部下がずらりと列をなしていて、全員が緊張に顔を強張らせている。
自分で文字が読み書きできる権力者相手には隠し事ができないからだ。
王や領主が高転びするのは、大抵が手紙の代筆を任せる書記官の裏切りによるものだったりする。隠しておきたい戦の失敗や秘密を、どうしても書記官には隠せないからだ。
逆に言えば、あのポーストは自分の秘密をいくらでも隠し、ねつ造して報告することができる。
さすが戦場の近くはおっとりした老騎士が采配を振るっているような場所ではないらしい。
この建物もこの町を牛耳っていた大商会から接収したもののようだが、たぶん接収したのは建物だけではなかっただろう。表通りに出れば、権勢を誇示するための騎士団の旗が、地平線の向こうの誰かに見せるかのように高々と掲げられている。
建物のすぐ目の前にある広場には、この町の独立を示す裁判刀を持った雄々しき男性のブロンズ像があるのに、それがすっかりかすんでしまっている。
罪人の首に誰が刀を振り下ろせるかで、その町の支配者が決まるものだ。
なのに、騎士団は勝手な権限で錬金術師をこの町に呼び寄せ、参事会はその威信を賭けて人々の出入りを取り仕切っている市壁にて、その荷を検めることもできない。
そして、その不可侵な存在のクースラとウェランドは、ポーストの一存によって生きるか死ぬかを決められる。権力の階梯は、高く、同時に、重いのだ。
クースラとウェランドの二人はそんな旗と見張りの間をくぐり抜け、町の活気と昼の日差しに目を眇めた。
「どう思う?」
クースラは、ポーストの前でも口数の少なかったウェランドにそう尋ねた。
別に人見知りをするわけではないが、ウェランドはああいう連中の前ではあまり喋らない。その代わりに、ずっと相手を殺すことを考えている。
と、五年前の糞餓鬼時代に聞いたことがある。
「あれだけでなにもわかるわけないよお」
「まあな」
「けど、それは鉱石だって同じだよ。神はどの金属も、純粋な形で埋めなかったからねえ」
「つまり?」
「つまり、これまでやってきたとおりにするだけさ」
ウェランドは唇の端をつり上げながら、そう答えたのだった。
賑やかな町の市場で昼飯をすませてから、クースラたちは工房に向かった。
これだけ賑やかな町なのに、必ずどこかにはひっそりとした空間がある。クースラたちが歩いていたのは空き家が立ち並ぶ区画で、そこを抜けると急に視界が広がった。
眼下には広がる町の様子と、遠くに海も見渡せた。
素晴らしい景色。
これでどうしてこの辺りは賑やかではないのかと思ったら、それは崖上の特等席に、でんと錬金術師の工房があるからだろう。
「贅沢な工房だよねえ」
「トーマスってのはよっぽどだな」
戦というのは結局のところ勝たなければなにも意味がない。
だとすれば、勝つためにはなんでもして、勝った後にあれこれ考えればいいということになる。錬金術師の生み出す技術一つで戦況がひっくり返ることがままあるとすれば、前線に近い工房ほどわがままを通すこともできる。
そういう話を聞いてはいたが、目の当たりにするとやはり驚きは禁じ得ない。
ウェランドがにまにましながらクースラを手招きするので、工房の建物の脇に行って崖を見下ろして、さすがのクースラも仰天した。
「専用の水車?」
「しかも、水はこの地面の下を流れてる。わざわざ暗渠を作ったとしか思えない。まあ、さすがに水を独り占め、というわけにはいかなかったみたいだけどねえ」
ウェランドの言葉に従って崖下に目をやれば、そこから港に向かっては、数基の水車が回っている。粉屋か縮絨工か鍛冶屋か石工かはわからないが、とにかく水車を必要とする者たちがその水車の周りに軒を連ねている。
水車の力強さは水の力強さで決まり、水の力強さは往々にして高低差で決まる。
その工房は崖に沿って建てられていて、今クースラたちが立っている場所を一階とすると、地下二階分くらいまで建物がある。水車はその一番下にあり、暗渠から流れ出た水の力強い流れをすべて一身に受け止めることができる。
クースラはこれまで、水車などの大規模な設備は職人組合と揉めながら共用のものを利用していた。それからすれば、これだけで涎が出るほどの贅沢だった。
「炉も立派だ。町中でこんなでかい炉を作るなんてねえ。水車が隣にあるから、なんとか許されたんだろうけど」
「火事になったら全部水で押し流すのか」
「下の人たちが災難だねえ」
ウェランドは呑気に言っているが、実際のところ呑気なのだろう。
ウェランドは錬金術師の中でもいかにも錬金術師らしいところがある。
自分の目的以外にはあまり細かいことを気にしない。それどころか、大きなことですら気にしないところがある。世間の基準に照らせばかなり緩いと自覚しているクースラですらそう思う。あるいは、そんなことを気にしている時点で、自分は錬金術師としては少し神経質なのかもしれない、とクースラは思うのだが。
「しかし、あのデブのおっさんが謝るようなことってなんだ?」
「うーん……なんだろうねえ……俺にも予想ができないよお」
水車から視線を上げ、見晴らしのいい景色を見ながら言った。なにも問題はなさそうで、万事うまくいきそうな雰囲気すらがこの日当たりの良さにはある。
「単なる脅しかもな。それより、中に入ろう。寒い」
「うん。そうしようかねえ」
別にこれが見納めというわけでもないが、あまりに見晴らしがよくて、クースラは名残惜しく崖上からの景色を振り返ってしまう。
そんなことをしていたからだろうか。
ウェランドが真鍮製の鍵を回して工房の中に入るのに続いたら、急に足を止めたウェランドの背中にぶつかった。
「おい、なんだよ」
クースラは毒づき、そして、部屋を見た。
石垣を木で補強したようながっしりとした建物の地上部分は、壁という壁にびっしり物が収まった、神経質さをギュッと濃縮したような部屋だった。決して汚いというわけではないし、おそらくこの状態を維持するには大変な労力が必要だったろう。
しかし、そんなことでウェランドが足を止めるとも思えない。
そう思った直後、異質な声が耳に届く。
「ようやくご到着ですか」
その、今にも押さえつけられていた「物」が雪崩を起こしそうな部屋の中に響いた一言は、凜として鐘の音のようだった。
口調というものには思いのほかたくさんの情報が含まれるもので、たった一言であってもそれは変わらない。声の感じから体格や顔の形がある程度わかり、発音の仕方でどこの地方のどの階級にあるのかが大体わかる。もちろん喋り方の調子から、きつい性格か穏やかな性格かもわかり、機嫌の良し悪しまでわかることだってある。
それらすべてを考え合わせれば、クースラの目の前にいるそいつは、声の感じから推し量れるそのままの姿だった。それが、それでもなお目をこすってしまったのは、とても信じられなかったからだ。
錬金術師の工房で、こいつはなにをしているんだ?
足首まで隠れるローブを身にまとった、ちんちくりんの修道女は。
ローブの縁取りは騎士団お抱えの修道院の紋様。
迷い込んだわけでは、ないだろう。
「お前、なんだよお」
二人でいる時は口をつぐみ、話すのを相方に任せて自分は相手を殺すことだけ考える、と豪語したウェランドが口を開く。しかも口調は友好的なものではない。
「ウル・フェネシスといいます。騎士団から派遣されました」
ヴェールを頭からかぶった白づくめの少女は、人形のようだ。作り物めいた緑色の目と、まっ白い前髪のせいかもしれない。白金と違わぬ色合いの髪の毛は珍しくもないが、ここまで白いのはなかなか見ない。
「私は、あなた方の監視役です」
しかし、フェネシスはクースラたちのことなど気にも留めず名乗ってから、ようやく立ち上がる。椅子に座っていても立ち上がってもあまり頭の高さが変わらないのは、椅子に座ると足が着いていないからだ。
子供。
だが、その目はひどく理知的で、本物の匂いがする。
どう出る?