WORLD END ECONOMiCA I
第一章 ⑨
逃げ回っているのは、ろくな計画性もなく家を飛び出して、他人に迷惑をかけている馬鹿野郎だ。俺はそんな
「ふん」
しかし、ハガナは鼻を鳴らし、
ぎりぎりと
「ま、そういうわけで、これから一緒にここで暮らすことになったの」
「え」
ハガナが驚き、リサを見あげた。
「なあに? ハガナと同じよ。彼も困っているから、寝床を貸す。なにか問題がある?」
リサは笑顔のままだが、どこか迫力を感じさせる様子で、そう言った。
おそろしく性格の悪そうなハガナが、首をすくめて、身を引いている。
「で、でも……」
「でも?」
リサの再度の問いかけに、ハガナはちらりと俺を見て、リサを見た。
「すごく……臭い」
ハガナみたいな
自分でも驚くくらいのダメージに胸を押さえていると、リサが大きなため息をついていた。
「はあ。それは理由になりません。ほら、あなたもいちいち傷ついてないで」
「き、傷ついてなんかねえよ!」
言い返すが、むきになっている時点でばればれだ、と自分でも思う。
「シャワーを浴びればいい男に元通りよ。洗濯もしてあげるから」
リサは細かいことにこだわらないような口調で、さっぱりとそんなことを言う。
一方で、相変わらず鼻を押さえたままのハガナは、俺のことを
そして、
「本当に、犬じゃないの?」
「ハガナ!」
リサにたしなめられたハガナは、眉を
俺はその後ろ姿を見送りつつ、三日の
実家を出て以来のまともな風呂に、危うく泣き出すところだった。
両親が共に日本からの移民なので、うちでは
月面都市のいたるところで水の循環が見て取れるが、だからといって水が安い、というわけでは決してない。月面では、あらゆる物質が人の手を経て循環しているので、酸素ですら無料ではない。
ここは完全に人工的な都市であり、砂漠に噴水がある都市で有名なラスベガスやドバイの比ではない。俺はその二つのどちらも自分の目で見たことはないが、映像でなら見たことがある。
ああ、地球人は馬鹿なのだな、と端的にそう思ったので、月面都市という存在の狂気具合をその時に初めて理解した。
「さっぱりした?」
脱衣所から出ると、ソファーに腰掛けていたリサが、テーブルの上のコップに水を
脱衣所はすぐに広めの居間とつながっている。絶対にどこかから拾ってきた古ぼけたソファーセットにローテーブルは、隅っこを何度も
驚いたのは、その隣に分厚い書物があったことだ。
場所と資源に限りがある月では、本の実物を見ることは
俺は比較的最近まで、本というのはアプリケーションソフトのインターフェース規格のことだと思っていた。まさか、画面の中のああいう形の物が現実に存在しているなどとは思わない。
こういうところから、地球移民は月育ちを馬鹿にしてくるのだが、こっちからすれば、
「現物の本が珍しい?」
聞かれ、俺は我に返った。
リサは再び多目的端末を手にしている。多分、「本」を読んでいたのだろう。
「……まあ……」
知らないことは知らないのだ、と開き直るにしても、自分が世間知らずのように扱われることは腹立たしい。
だからもごもごと口ごもるように答えたのだが、リサは馬鹿にすることはなかった。
「場所を取るものね。すぐに汚れるから保存にも気を遣うし、なにより内容の検索もできないし、電子版のほうが百倍マシ。でも、もしかして、あなた月生まれ?」
気を遣われている、とすぐにわかった。地球からの移民と月育ちの子供が、どういうことで
「月生まれだよ……で、それは?」
俺は、テーブルの上のぼろぼろの分厚い本を指差して尋ねた。
背表紙には金色の文字でアルファベットらしき物が書かれているが、読み取れない。
B…I…b? ……L……。
「これは、私にとって世界一大事な本。地球から持ってきたのよ。生まれたときから一緒だったジュリーとは別れられても……飼い犬のことなんだけどね、この本だけは置いてくるわけにはいかなかった」
リサは携帯端末を脇において、ぼろぼろの本の表紙を
俺はそれを見て、まだ俺が小さくて無邪気だった頃、仕事でがさがさになった両親の手を撫でていたことを思い出した。
「……いつ、地球から?」
「十一歳の頃に住んでた土地を追い出されてね。両親は一大決心して月移民に応募したの。お金なんてなかったからものすごい倍率の一般枠だったけど、まあ、職業が特殊だったから、当時まだあったノア制度の
「ノア、制度?」
「ああ、文化多様性保護制度とかいうやつの通称……ってそうか、
神学者、という単語も初めて聞く。
リサは手元の端末を使って辞書を引いてくれた。
神の教えについての学問をする人間らしい。
そんな役に立たないことに人生を
「で、この本はそんな家庭に育った私の魂ね。執筆されたのは章によって幅があるけどおおむね二千年くらい昔のこと。地球上で最も売れた本よ」
「へえ……そんなに面白いのか?」
投資とは、なんにせよ人気のあることへの投票と同じだ。俺が少し興味を持って本を見ると、リサは笑い出した。
「はは。ああ、いえ、ごめんなさい。面白いかどうかといわれたら、私はそれなりに面白いと思うけど、そういう本ではないの」
「ん、あ?」
「これは、聖書と言ってね、あっちの聖堂で見たでしょう?
聖書という単語は知っていた。なるほど、これがそうなのか。
「言うなれば、宗教的な教えの書ね。推定で十億冊以上売れたらしいけど」
「……十億、冊?」
瞬時に想像できない。
「地球だとどこにでもあるからね。世界中の言葉に
「てことは、地球の奴らは皆読んだことがあるのか」
たちまち、テーブルの上のぼろぼろの書物が、ファンタジー映画に出てくる伝説の書物に見えてくる。
「だといいんだけどね」
リサの言葉に、俺は「?」となってしまう。



