WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ⑨

 逃げ回っているのは、ろくな計画性もなく家を飛び出して、他人に迷惑をかけている馬鹿野郎だ。俺はそんなやつらとは違う。夢があり、計画があり、目的と手段をはっきりさせて、家から出ざるを得なかったからそうしているだけだ。


「ふん」


 しかし、ハガナは鼻を鳴らし、こうまんちきな態度のまま、目をらす。

 ぎりぎりとみしたい思いに駆られたが、ここでけんでもすればシャワーもどこも失ってしまう。俺は必死に思いとどまった。


「ま、そういうわけで、これから一緒にここで暮らすことになったの」

「え」


 ハガナが驚き、リサを見あげた。


「なあに? ハガナと同じよ。彼も困っているから、寝床を貸す。なにか問題がある?」


 リサは笑顔のままだが、どこか迫力を感じさせる様子で、そう言った。

 おそろしく性格の悪そうなハガナが、首をすくめて、身を引いている。


「で、でも……」

「でも?」


 リサの再度の問いかけに、ハガナはちらりと俺を見て、リサを見た。


「すごく……臭い」


 ハガナみたいなやつでも、女の子は女の子だ。はっきり臭いと言われると、ものすごく傷つく。

 自分でも驚くくらいのダメージに胸を押さえていると、リサが大きなため息をついていた。


「はあ。それは理由になりません。ほら、あなたもいちいち傷ついてないで」

「き、傷ついてなんかねえよ!」


 言い返すが、むきになっている時点でばればれだ、と自分でも思う。


「シャワーを浴びればいい男に元通りよ。洗濯もしてあげるから」


 リサは細かいことにこだわらないような口調で、さっぱりとそんなことを言う。

 一方で、相変わらず鼻を押さえたままのハガナは、俺のことをにらんでいる。

 そして、いぶかしむように言った。


「本当に、犬じゃないの?」

「ハガナ!」


 リサにたしなめられたハガナは、眉をひそめてから、きびすを返しておもの奥に引っ込んだ。

 俺はその後ろ姿を見送りつつ、三日のしんぼうだ、と自分に言い聞かせたのだった。



 実家を出て以来のまともな風呂に、危うく泣き出すところだった。

 両親が共に日本からの移民なので、うちではおおむね毎日湯船に入る習慣があった。あの両親がするぜいたくといえば唯一それくらいだったということもある。

 月面都市のいたるところで水の循環が見て取れるが、だからといって水が安い、というわけでは決してない。月面では、あらゆる物質が人の手を経て循環しているので、酸素ですら無料ではない。

 ここは完全に人工的な都市であり、砂漠に噴水がある都市で有名なラスベガスやドバイの比ではない。俺はその二つのどちらも自分の目で見たことはないが、映像でなら見たことがある。

 ああ、地球人は馬鹿なのだな、と端的にそう思ったので、月面都市という存在の狂気具合をその時に初めて理解した。


「さっぱりした?」


 脱衣所から出ると、ソファーに腰掛けていたリサが、テーブルの上のコップに水をいでくれた。

 脱衣所はすぐに広めの居間とつながっている。絶対にどこかから拾ってきた古ぼけたソファーセットにローテーブルは、隅っこを何度もつくろったあとがあるカーペットの上に置かれているが、テーブルの上には花のけてある花瓶もあって、みすぼらしさを感じさせないようになっている。居間にテレビはないが、パソコンならある。ローテーブルの上にも、リサが今しがたまで使っていたらしい多目的たんまつが置かれている。

 驚いたのは、その隣に分厚い書物があったことだ。

 場所と資源に限りがある月では、本の実物を見ることはめつにない。

 俺は比較的最近まで、本というのはアプリケーションソフトのインターフェース規格のことだと思っていた。まさか、画面の中のああいう形の物が現実に存在しているなどとは思わない。

 こういうところから、地球移民は月育ちを馬鹿にしてくるのだが、こっちからすれば、いまだに馬鹿みたいに非効率な本を利用する地球人のほうが、頭がおかしいと思う。


「現物の本が珍しい?」


 聞かれ、俺は我に返った。

 リサは再び多目的端末を手にしている。多分、「本」を読んでいたのだろう。


「……まあ……」


 知らないことは知らないのだ、と開き直るにしても、自分が世間知らずのように扱われることは腹立たしい。

 だからもごもごと口ごもるように答えたのだが、リサは馬鹿にすることはなかった。


「場所を取るものね。すぐに汚れるから保存にも気を遣うし、なにより内容の検索もできないし、電子版のほうが百倍マシ。でも、もしかして、あなた月生まれ?」


 気を遣われている、とすぐにわかった。地球からの移民と月育ちの子供が、どういうことでけんをするのか心得ている、ベテランの保育士みたいだ。


「月生まれだよ……で、それは?」


 俺は、テーブルの上のぼろぼろの分厚い本を指差して尋ねた。

 背表紙には金色の文字でアルファベットらしき物が書かれているが、読み取れない。

 B…I…b? ……L……。


「これは、私にとって世界一大事な本。地球から持ってきたのよ。生まれたときから一緒だったジュリーとは別れられても……飼い犬のことなんだけどね、この本だけは置いてくるわけにはいかなかった」


 リサは携帯端末を脇において、ぼろぼろの本の表紙をたんねんでる。

 俺はそれを見て、まだ俺が小さくて無邪気だった頃、仕事でがさがさになった両親の手を撫でていたことを思い出した。


「……いつ、地球から?」

「十一歳の頃に住んでた土地を追い出されてね。両親は一大決心して月移民に応募したの。お金なんてなかったからものすごい倍率の一般枠だったけど、まあ、職業が特殊だったから、当時まだあったノア制度のゆうぐう枠に入れたのよ」

「ノア、制度?」

「ああ、文化多様性保護制度とかいうやつの通称……ってそうか、みがなければ知らないよね。ノアの箱舟という話があるの。悪くなってしまった世界が大洪水で滅亡する時に、船には善良な人と動物のつがいが一組ずつ乗せられていて、洪水が去った後の新天地で再びき世界を築くという伝説というか言い伝えというか、教えというか、まあそんなもの。うちは両親が共に神学者だったからね。そういう変わり種も月に必要だと判断されたんでしょうね」


 神学者、という単語も初めて聞く。

 リサは手元の端末を使って辞書を引いてくれた。

 神の教えについての学問をする人間らしい。

 そんな役に立たないことに人生をささげているやつらが月にいるとは、正直驚きだった。


「で、この本はそんな家庭に育った私の魂ね。執筆されたのは章によって幅があるけどおおむね二千年くらい昔のこと。地球上で最も売れた本よ」

「へえ……そんなに面白いのか?」


 投資とは、なんにせよ人気のあることへの投票と同じだ。俺が少し興味を持って本を見ると、リサは笑い出した。


「はは。ああ、いえ、ごめんなさい。面白いかどうかといわれたら、私はそれなりに面白いと思うけど、そういう本ではないの」

「ん、あ?」

「これは、聖書と言ってね、あっちの聖堂で見たでしょう? はりつけになっていた人の弟子たちがまとめた書物」


 聖書という単語は知っていた。なるほど、これがそうなのか。


「言うなれば、宗教的な教えの書ね。推定で十億冊以上売れたらしいけど」

「……十億、冊?」


 瞬時に想像できない。


「地球だとどこにでもあるからね。世界中の言葉にほんやくされているし」

「てことは、地球の奴らは皆読んだことがあるのか」


 たちまち、テーブルの上のぼろぼろの書物が、ファンタジー映画に出てくる伝説の書物に見えてくる。


「だといいんだけどね」


 リサの言葉に、俺は「?」となってしまう。