WORLD END ECONOMiCA I

第一章 ⑧

 足の位置を変え、前傾姿勢になった、その直後だ。


「大丈夫。通報なんかしないから。それとも、出てこられないような悪事を働いたのかしら? だったら通報するしかないけど?」


 大昔、保育園で叱られた時の記憶がよみがえるような言い方だった。

 それに、俺はここに至ってようやく、宿を探しにこの場所に来たことを思いだす。どう考えても、誤解を解くほうが優先だ。俺は大きく息を吸うと、ゆっくりと吐いて、言った。


「わ、わかった」


 そして、のそのそと出る前に、断りを入れる。


「けど、見てもわめくなよ。俺は警官の言ってる犯人じゃない」

「ふうん?」


 立ち上がると、聖堂の真ん中に立っていたのは、二十歳くらいの髪が短い女だった。

 その隣にはさっきの黒髪の少女がいるが、頭一つ分は優に高い。

 黒くめの少女は、俺を見ると嫌悪の表情で一歩後ずさる。


「俺も迷惑してるんだ。信じてくれ」


 短く言うと、女はにこりと笑う。


「あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」

「本当だって!」


 思わず声を荒らげてしまったが、女は穏やかに笑ったままだ。


「冗談よ。教会では、信じることが仕事だからね」

「……」


 というか、あのアフロの店員から連絡がいっているはずだ、ということをようやく思い出す。

 だから、緊張することなんてなかった、と自分の間抜けさにため息をついた。

 それにしても、わざわざビビらせるようなをするなんて嫌な女だ、と思ったところに、おものほうから電子音がした。


「あら、電話。ちょっと待ってて」


 と、聖堂から母屋に向かおうとして、女がふと立ち止まった。その時、一緒について行こうとしていた黒尽くめの少女が、立ち止まった女に顔からぶつかっていた。


「外に出ていっちゃだめよ。まだ警官がうろうろしてるだろうしね」


 女は俺の返事も待たず、黒尽くめの少女の手を引いて母屋のほうに向かい、しばらくして、戻ってきた。

 そして、こんなことを言う。


「ねえ、セローからの紹介の子ってあなた?」

「……え?」

「今電話があって、犯罪者そっくりのやつが行くから数日間よろしくって」


 セローとは、どうやらあの店員の名前らしいが、楽しげにそんなことを言っている女を、俺はぼうぜんと見つめていた。今の電話でそのことを聞いたのか? だとしたら、俺は明らかに警官の話していた犯罪者と特徴が同じだったのに、こいつは欠片かけらも疑わなかったことになる。

 しかも、警官とのやり取りを思い返せば明らかだ。あの時、黒くめの少女がいることに気が付いていなかったのなら、演台付近は神聖な場所だからと警官を止めたのは、間違いなく、俺のことを守るためだった。

 信じがたいほどのおひとし?

 あのセローとかいうアフロの話では、確かにそういう感じがうかがえた。

 俺は助けてもらっていながら、こう言わざるを得ない。


「な、なんでだ? どうして、助けて、くれんだよ」

「うん?」


 女は軽く小首をかしげ、笑った。


「ここは教会よ。すべての者に救いあれ」


 月面は狂った世界だが、そこでもなおとつぴようのないやつがいるものだ。


「セローからの紹介ってことは、あそこで寝起きしてる子ってことか。なるほどね」


 女は一人でつぶやき、くすくすと笑ってから、言った。


「あんな所じゃ気も休まらないでしょ。とりあえずシャワーでも浴びて来なさいな」

「あ、え……」


 あまりのくつたくのなさに、逆にこっちが気後れしてしまう。

 なにより、まさか本当にかくまってもらえるなんて、いまだに信じられない。

 そんなうまい話が、あっていいものなのか?


「あら、人からの厚意が珍しいって顔ね」


 目を細め、意地悪い笑顔も様になっている。

 大人の女だ、と思った。


「大丈夫よ。セローもあれで人を見る目があるし、昔、あいつが路頭に迷っているのを助けたのも私なの」


 そんなことを言っていた気がする。


「何日でもいてちょうだい。ただ」


 と、女は言葉を止めてから、微笑ほほえむ。


「仲良くしてね」

「は? お前と?」


 俺はなんの考えもなしに聞き返し、女が笑ったまま少し怒ったのがわかった。


「私には、リサという名前があるの。それでなくても、人をお前呼ばわりは感心できないわ」


 相当のきよかん相手でも月面ならけんに負けない自信のある俺が、女の妙な迫力にたじろいでしまう。


「い、いや、えっと、そうじゃなくって」

「もう面識あるでしょ? まさか二人して演台の下にいるとは思わなかったけど……その子とね」


 そして、女はおもに続く扉のほうを振り向いた。

 そこには、さっきの黒くめの少女が、警戒感丸出しでこちらのことをにらみつけている。

 あるいは状況が状況とはいえ、演台の下に連れ込んだのがまずかったのかもしれない。

 なにより、あの時、随分な顔つきで俺のことを突き放そうとしていた。


「どう?」


 しかし、どうもこうもない。俺は他に行く場所なんてないので、いくらだってまんができる。

 それにシャワーという単語に猛烈にかれていた。

 あのカフェにそんな上等なものはないので、体は濡れタオルで拭く程度だったのだ。


「する。仲良くする。もちろん」

「ふふ。よろしくね」


 と、女は母屋のほうを振り向き、言った。


「ほら、ハガナも挨拶しなさい」


 じっとこちらを睨みつけていた少女が、リサのほうを見る。黒髪、黒目で、服装はかっちりした学校の制服のような黒尽くめで、ストッキングも黒なら靴も黒だ。

 唇は頑固そうに引き結ばれ、目つきは徹夜三日目みたいにきつい。その人形のように整った顔立ちで眉根にしわを寄せると、実にはっきりときよぜつの意志が見て取れる。

 しかも、ハガナは嫌そうに鼻を手で押さえている。まるっきり、いやみなお姫様だ。


「本当に人なの? 野良犬ではなくて?」

「ん、な」


 本物の姫並みの暴言に、俺のほうが言葉を失ってしまう。


「ハガナ、人を犬呼ばわりしちゃダメ」


 リサがあきれ気味に注意するが、ハガナはすぐに返事をしない。俺のことを蔑むようにたっぷり睨みつけてから、ようやくリサを見た。


「リサ、やっぱりこいつが怪しい」

「ハガナ」


 リサが呆れて注意するが、ハガナはリサを見上げて一言言った。


「だって、こんなに臭い」

「え」


 あつにとられた俺の横で、リサがため息をついていた。


「もー。ハガナ、女の子でしょ。デリカシーってものを身につけなさい」

「でも」


 と、ハガナは言って、俺を見た。


「事実として、臭すぎる」


 俺は慌てて自分の体を嗅いで回る。自分では、臭いかどうかよくわからない。

 しかし、そこでようやく、どうしてリサが演台の下に隠れた俺に気が付き、警官がペットの話をしたのか理解した。

 犬。

 演台の下でハガナが思い切り俺のことを突き放そうとしたのも、合点がいった。

 そういうことか……。


「ちょっと臭うのは確かだけど……警察が追いかけてるのは別の子よ」

「どうしてそう言えるの」


 ハガナは責めるような目をリサに向ける。


「年齢は十代半ばの、東洋人系で、黒髪黒目の少年」


 ハガナは、警官の言った特徴を繰り返す。


「こいつじゃない」

ちげえよ!」


 たまらず俺が言い返すと、顎を引いたハガナは、かくするようににらみつけてくる。

 俺が犬なら、こいつは気難し屋の猫だ。


「ハガナ、違うのよ。私の知り合いがね、犯人がせんいんしよくをしている時間にこの子の姿を見てるの。つまり、アリバイがあるってわけ」

「……」


 俺はカフェにこもりっきりでかぶとりひきをしていた。出入り口は一つで、あのアフロが見張っている。引きこもりも、たまには役に立つものだ。


「そ、そうだ。大体、俺は無銭飲食みたいなことはしねえ」