視界が回復して、首を起こして、胸元を見て、
「…………」
そこにあった自分の鞄を、憮然とした顔で払いのけた。
「ヴィル?」
跳ね起きて、アリソンはヴィルを呼んだ。首を振る。どこにもヴィルの姿はなかった。
「ヴィル!」
「ここだよ……。こっち……」
か細いヴィルの声が返ってきた。アリソンが声のする方へ歩くと、ヴィルは小川の中に落ちて、そこにしりもちをついて座っていた。腰から下はずぶ濡れだった。
「大丈夫? ヴィル。けがは?」
ヴィルがアリソンを見上げる。
「足をちょっとぶつけたけれど、けがはしてないと思う……。アリソンは?」
「大丈夫。ありがと」
「よかった……。車から出た銃、見た?」
アリソンは首を振った。
「そっか……」
「掴まって」
アリソンが手をさしのべて、ヴィルは水を滴らせながら起きあがった。小川のほとりに座り込んだ。
「車、は?」
ヴィルが聞いた。
アリソンは路肩を駆けあがり、道の先を見た。車は見えなかった。それから、
「ちくしょー!」
叫んだ。
* * *
ロウ・スネイアム記念上級学校の学生寮は、マッカニウでもひときわ目立つ。
細い通りと木造の小さな家しかない町の縁に、まるで首都にあるような鉄筋コンクリート造りの、三階建てで細長く大きな建物がある。それが縦二列に四棟並び、中央には大きな食堂、管理棟や外来者の宿泊施設なども設置されていた。
学期中には、千人以上の学生がここで生活して、喧噪が絶えることはない。しかし休暇中の今は、一棟だけが使われていた。
夜。ヴィルの部屋は暗かった。ドアの磨りガラス越しに入る廊下からの薄明かりだけが、室内を照らしていた。
夏学期だけ住むために、ヴィルは別棟からここへ引っ越してきた。本来二人で使うための部屋は、それなりに広い。机や本棚、洋服タンスが二つずつ。一つのタンスの中に、革製のヴィルの鞄が置いてある。大きな旅行鞄で、ヴィルの持ち物は、全てこの中に入ってしまう。
部屋の隅には、今は使われていないが、壁に沿って全日暖房用の温水管が走っている。ベッドも二つ。一つはマットレスを外されて、鉄パイプのフレームにバネが見えている。もう一つには、パジャマ姿のヴィルが、仰向けに横になっていた。
ヴィルは寝ていなかった。
「…………」
薄暗闇の中、目を開けて考え事をしていた。
昼間。車に逃げられた後──。
ヴィルはアリソンの持っていたタオルを借りて、体を拭いて濡れた服を絞った。
サイドカーはハンドルが少し曲がり、側車側には大きなへこみができていたが、走れないことはなかった。
アリソンの運転で町に行き、すぐに警察署に行った。署といっても、建物は一軒家で、特に何かがなければ町に警官は三人しかいない。一人は休暇、一人は警邏中で不在だった。対応した中年の警官は、アリソンの「老人が偽の役人にさらわれた」との言葉に一瞬驚いた。宝のことは伏せて誘拐を説明した。
しかし警官は、誘拐や偽役人や拳銃など、全て信憑性が薄いとして鈍い反応しかしなかった。
濡れているため外で待っていたヴィルに、
「まったく役立たず!」
アリソンが憤慨しながら戻ってきた。結局警官はアリソンの名前と今夜の宿を聞いて、役場に事実確認の電話を入れることと、お手伝いさんに話を聞くことを明日すると、実にのんびりしたことしか言わなかった。
二人はその後もう一度老人の家に向かい、お手伝いさん宛のメモを残してきた。何を書けばいいのか分からず、『役場の人と出かけた』としか書かなかった。
長い距離を走って寮に戻ってきたのは、長い夏の日も沈み、門限である夕食時間をだいぶ過ぎてからだった。服はすっかり乾いていた。
学生達から恐れられている厳しい寮母に、ヴィルは門限破りとサイドカー破損の理由説明を求められた。本当のことは言えず、仕方なく、遠くへ行きすぎて、帰り道動物の飛び出しを避けて破損したと言った。ヴィルはあんたらしくないねと驚かれて、その後怒られた。そして、学生生活初の反省文の提出を余儀なくされた。
アリソンはお客として、涼しい顔で外来用の宿泊部屋をあてがってもらい、安い料金を払った。しかし夕食は、隅っこだけに明かりがついた食堂で、二人ともパンとジャムと牛乳だけになった。ヴィルはもそもそと、アリソンは、
「ま、これはこれで」
訓練中はもっと貧相なことがあるからと言いながら食べた。
寮内で、男女が夕食後に会うことは禁止されている。食堂から別れさせられて、アリソンとヴィルは、それぞれ自分の部屋に戻った。
「いた見つけたやっと帰ってきたヴィルおまえあの女の子はと言うか空軍飛行士は誰で関係はどうで今まで何をどこでナニしていたか教えてくれるよな当然そりゃ友達だからな」
例の友人の追及を、反省文を書かないといけないからという理由でかわして、ヴィルは部屋に戻った。そして、本当に反省文を書き始めた。
複雑な後ろめたさを感じながら、でっち上げた理由で慣れない文章を書き上げたときには、夜中近くになっていた。
「…………」
ヴィルは天井を見ていた。
「宝、か……」
つぶやいた。すこし風が出て、カタカタと窓が揺れる。二度三度。
「…………。……ん?」
六回ほど窓枠がうるさく揺れて、ヴィルはベッドから起きあがった。小さな明かりをつける。
窓を見て、薄く開いていないか調べようとして、
「っ!」
ガラスに映った自分の顔越しに、アリソンの笑顔が現れて絶句した。
アリソンは指で鍵を開けるように指示する。ヴィルが窓を上へと開けるやいなや、すっと身を入れて、音もなく部屋の中へと入った。アリソンは昼と同じジャケット姿で、腰にベルトを巻いて、その後ろにはカンバス地の小型バッグがついていた。
「あ、アリソン……?」
「こんばんは。起きてた? ちょっと話があってね」
アリソンは人差し指を口の前に当てて、小声で言った。
ヴィルも小声で、
「ここ、三階だよ……」
「飛行機乗りが、高いところ怖がってどうするの?」
「答えになってない……」
「雨どい。鉄筋コンクリートなら埋め込まれて丈夫に作ってあるから。つかまって登ってきた」
「…………」
「ここでお話して大丈夫?」
「……えっと、廊下にアリソンの声が聞こえると、あんまりよくない」
「そう……。屋上あった? もう少し高いところへ行きましょう」
小さく頷いたヴィルは、あることに気がついて言う。
「雨どいはやだよ……」
「じゃあ、階段から。こっそりね。まず着替えて」
寮の屋上は平坦で、大量のシーツを干すための物干し台が、暗闇の中立ち並んでいる。
ヴィルとアリソンは、自分達と同じくらい高い手すりの前にいた。ヴィルは着替えて、普段着の長ズボンとシャツを着ていた。手には薄い上着を持っている。
二人の目の前には、使っていない棟が、黒い固まりとして横たわっていた。斜め下には、管理棟と外来者の宿泊施設がある。
「あれがわたし」
アリソンが指さした部屋では、カーテンが開き、机の明かりが一つついていた。ベッドには、人が寝ているような膨らみが見える。
「…………。毛布?」
「そっ。きちんと丸めるのだけじゃなくて、足と腰を細くして、髪の色に似た布で枕を半分覆うのがコツ。暗ければしっかり人に見えるわ」
「どこで習ったの……?」
「空軍飛行学校で。消灯後に特訓とか……、まあほとんどは騒ぎ出したりする時のために。これができないと卒業は無理ね」
「…………」