朝でした。
それはどこからどう見ても朝でした。太陽は東の空に眩しくそこそこの角度まで昇り、夏の大地をそりゃもう暖めていました。
鮮やかな緑の森の中に、堂々と建つ建物がありました。円筒形の棟の左右に、そっけないマンションのような四角い建物が二つくっついています。
建物には部屋がありました。お世辞にも広くはありませんが、机やタンス、ベッドなど、生活に必要なものは一通り揃っている部屋でした。備え付けの家具がいささか画一的な感じがする、学校の寮のような部屋で、実際学校の寮でした。
机の上にはいくつかのノートや教科書が置いてあって、使っているのが男子だったらクラスで少しはやし立てられそうな色と形状の文房具も転がっています。タンスの前には、セーラー服がハンガーで吊されていました。セーラー服といっても海軍の逞しいお兄さん達が着ているマジ物ではなく、普通に女子学生が着るセーラー服の夏服一式でした。
その服の主が、ベッドの上にいました。
部屋の脇に置かれた木枠のベッドに、簡単なマットレスがあります。
そしてその上で、〝ヘッケラー&コック〟とか、〝コルト〟とか、〝スミス&ウェッソン〟などの大手銃器メーカーのロゴがファンシーにちりばめられた、何処で売っているのか一般人には見当もつかない薄手の掛け布団にくるまって、〝撃ち方始め!〟とか、〝あそこにマシンガンを配置〟とか、〝砲兵隊に連絡!〟などのコンバットなセリフがコミカルにプリントされた、何処で売っているのかその筋の人でさえも判断に苦しむ薄い蒼色のパジャマを着て、その少女は顔を横に向けて寝ているのでした。
年の頃にして、十代の半ばでしょうか。短めの黒い髪は、今はしっちゃかめっちゃかに跳ねて炸裂しています。少女は目を閉じて、小さく口を開けて、すーすーと静かな寝息を立てて、薄い緑色のカーテン越しに降り注ぐ朝の光を浴びながら、幸せそうに寝ているのでした。
「ちょっと! いつまで寝てるのさ! 起きろ起きろ起きろー! 起きろー!」
部屋の中に声が響きました。もちろん少女の声ではなく、よくできた目覚まし時計でも電話の声でもありません。それは、若い男の子のような声でした。
「起きろー! 起きろー!」
はて、どこから誰が発しているのでしょうか。部屋には誰もいません。声は先ほどより大きく、
「起きろ! 起きろ! 起きろ!」
ひたすら動詞を命令形で連呼します。しかし少女は、
「ああ……もう食べられない……でも食べるわ……。そうね根性ね……。うん別腹よ……」
ぽつりぽつりと怪しい寝言を言って、再び整った寝息を立てるのでした。
「まったくもう……」
先ほどからの声は悪態をつくと、
「ぴぴぴぴ! ぴぴぴぴ! ぴぴぴぴ!」
目覚まし時計のアラーム音の声帯模写を、あらん限りの声量で始めたのでした。二十秒ほどそれが続くと、さすがの少女も寝苦しそうに眉をひそめました。
「ぴぴぴぴ! ぴぴぴぴ! ぴぴぴぴ!」
少女の手が、もぞもぞとベッドの頭の位置にあるデジタル目覚まし時計へと動きます。もちろん鳴っているのはそれではなく、本来起きるべき時間にとっくに止められていましたが、あわれ時計は振り下ろされた拳の直撃を受けて、プラスチックのボディがきしむ鈍い音を立てました。
少女の手がするりと戻って、またも平和な寝息です。
「ああもうっ! ──ぴぴぴぴっ! ぴぴぴぴっ! ぴぴぴぴっ! ……疲れた……。ぴぴぴっ! ぴぴぴぴぴぴぴっ!」
必死の声が再び部屋中に響いて、ようやく少女は、
「ふわ?」
ようやく目を半分よりちょっと少ないくらいに開きました。ゆっくりと上半身を起こして、目覚まし時計を後ろ手に取って、その文字盤を見ます。
八時二十五分。
液晶画面はそう告げていました。リアルな数字でした。
現実を確認するまでに三秒要した少女の目が、今度はぱっちりくっきり開きました。のどの奥からは声が、
「あ……。ち……、ち……、ち……」
一度息を吸って、
「ちこくだー!」
もう絶叫。
そこから先は目にも止まらぬ速さでした。布団をはぎ取ってパジャマのまま洗面所に消えて弾丸のように戻ってきて、
「どうして起こしてくれなかったのよ!」
誰もいない部屋で、文句を言いました。先ほどからの努力がようやく結ばれた声が、当然ムッとした口調で答えます。
「何度も起こしたんだよ!」
「えー。呼んだだけじゃ絶対に起きないよー。叩いてくれないとー!」
「無理言わないでねー」
声は冷静に答えました。少女は、
「ああもう、なんで毎朝毎朝起きられないんだろう……? 生まれ変わったら、夜明けと共に自然に起きられるくらいの人間になりたい……」
などとぶつくさ言いながら、激しく手を動かしながら着替えを始めました。アレを脱いでコレを着て、タンスの前のセーラー服を着て、制服姿になりました。最後にしっちゃかめっちゃかだった髪をかなりいい加減に揃えて、それでも跳ねる横の髪を、
「うりゃ!」
気合い、そうまさに気合いで押しとどめました。薄いベージュの肩掛け鞄を手にして、部屋の鍵を手に部屋から飛び出そうとした瞬間、
「ちょっと! また忘れてるよ!」
再び声がかかりました。
「あ、ごめんごめん!」
少女は慌てて戻って、机の上にあった小さなストラップを摑みました。それは、緑色の革と黄色い金属でできたシックな物でした。持っていない携帯電話の代わりに、部屋のとは違う鍵がついていました。そして先ほどからの声の主は、
「どうも」
なんとこのストラップだったのでした。
少女は部屋の扉へと移動、そこにあったウエストベルトを手にします。出かけるときは忘れないように、扉のすぐ脇に吊されていました。
少女はそれを腰に巻きつけてパチンと留めました。ベルトには緑のポーチがいくつかついています。そして右腿の位置には茶色い革製のホルスターがあって、中にはリヴォルバーが一丁入っていました。といっても銃刀法に違反しない格好だけのモデルガンですが。まあモデルガンでも普通の女子高生は腰になんか下げませんが。でもここで突っ込むと話が進みませんので流しますが。
壮絶な勢いで扉が開いて、少女が部屋から出て、扉が閉まって鍵がかかる音がして──廊下をどたどたと走っていく音が聞こえて、そして遠ざかっていく二人(?)の声。
「もう絶対遅刻だよエルメス! 一体全体どうしてくれるのよー!」
「こっちに責任なんてないよ木乃! 自分が悪い、自分が!」
というわけで、主人公の女子高生〝木乃ちゃん〟と、謎のストラップ〝エルメス〟の一日は騒々しく始まったのでした。
夏の青空の下、葉桜が鮮やかな校内の登り坂を、必死になって走る生徒が一人います。
先ほど誰もいない寮の中央棟から飛びだしてきた、その際にフロントの管理人のおじさんに、『あー、マッハ出しても間に合わないねー。グッドラック!』と冷たくそして楽しそうに声をかけられたセーラー服の少女でした。名前は木乃。この学園の高等部一年生です。ちなみに学園は中等部と高等部が一緒で共学。生徒の半分弱が遠くに故郷を持つ寮生、残りは駅から学園のバスで通ってくる生徒でした。
さて、腰のポーチやホルスターを揺らしながら必死になって走る木乃でしたが、
「まだ間に合うかも!」
そう叫んだ瞬間に、無情にも校舎から鐘が鳴り響きました。緑豊かな丘の上にある校舎までは、まだたっぷり数百メートルの距離が、しかも結構キツイ登り坂で残されていました。この寮から校舎までの距離の長さは、毎日昼食を中央棟の学食で摂る寮生にはかなり不評です。
「やっぱり遅刻だ……」
「やっぱり遅刻~。自業自得~」
うなだれた木乃と、ベルトの脇で揺れるストラップのエルメスが、とても対照的な口調で言いました。