「感謝を表す原始的な反応です。快感を与えるための。つまり、ふだんのわたしたちの宿主は、とても愚かなので、肉体的感覚でこちらの感謝を表すしかないのです」
「ありがとう。わたしを運ぶことにしてくれて、ほんとにありがとう」
『たったひとつの冴えたやりかた』より
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/浅倉久志訳)
十六歳の冬に、僕は実にいろんな人と出逢った。ボクサー、軍人、ヒモ、探偵、やくざ。彼らはみんな種類のちがうニートだった。ニートというのはニュースや新聞でたまに見かける言葉で、やる気のない無職の若者を指す言葉だと思っていたけれど、ニートにもそれぞれの顔がある。だれもが同じ理由で仕事をせず学校にも行っていないわけじゃなかった。
「ニートというのはね。なにかが『できない』人間や、なにかを『しようとしない』人間のことじゃないんだ」と、探偵は僕に教えてくれた。「ちがうのはただ、ルールなんだよ。みんなが双六をやってる盤の上に、ぼくらだけチェスの駒を並べてるようなものさ」
「よくわかんないけど。邪魔してる、ってこと?」と、僕はそのときは無邪気にも訊いてしまった。探偵は、さくらんぼみたいな唇をすぼめてしばらく考え、それからにっと笑った。
「先に進みたい人間にとっては邪魔だろうね。ひとまとめにしてラベルを貼って処理場に引っぱっていきたい気持ちはわかる。指さして嗤いたい気持ちもわかるよ。嗤えばいいんだ、どれだけ言葉を取り繕おうと、ぼくらが今までもこれからも社会経済にマイナスしかもたらしていないのは動かしようのない事実だから。でも」
探偵は広げた自分の両手を見つめ、また顔を上げた。今度は皮肉な苦笑ではなく、冬の晴れ間みたいにあたたかい笑い顔だった。
「ぼくらはぼくら自身を嗤わない。ミミズは暗闇を怖がったりしないし、ペンギンは空が飛べないのを恥じたりしないのと同じように。それが生きるってことだよ。ちがうかい?」
僕は答えられなかった。そんなこと、これまで考えたこともなかったから。だって、なんか小難しそうなこと言ってるけど要するに駄目人間だろ?
でも、その冬に僕ははじめて人が死ぬところを見て、はじめて人を殴った。生きることについて自分なりにほんの少しずつ考え始めることになった。生きることをやめちゃったやつとか、死ぬことをやめちゃったやつとかを見たら、たぶん、だれだってそうなる。
でも、それはずっと後の話だ。まずは、その冬に僕が出逢った人たちの中でただ一人の、ニートじゃない普通の女の子のことから話そうと思う。
彩夏とはじめて逢ったのは十一月の終わり頃だった。
僕はその火曜日の放課後、南校舎屋上の給水塔の上でぼうっと彼方の高層ビル群を眺めていた。いつもなら授業が終わってすぐにコンピュータ室に行って部員一名の部活動にいそしむんだけど、午後にIT選択授業がある日は、放課後も生徒が大勢居残って普段さわれないパソコンで遊んでる。そこにのこのこ入っていくのは気が引けるので、毎週火曜日と木曜日は屋上で時間を潰すことにしていた。北校舎の二階に見えるコンピュータ室に向かって、さっさと帰れよ電波を十分くらい送り込んでから、ため息をついて街をながめる。
僕の越してきたこの街は二色に色分けされている。病人の静脈みたいな細い川がその境目だ。こっち側には小さな工場の錆びた屋根、肩を寄せ合った安アパートの並び、それから高校。なぜか寺と墓地も多い。僕の家もこっち側。向こう岸には首都高速の高架、無数の路線を吞み込む巨大な駅、複雑に交差した坂道に沿って居並ぶビル、デパート、テレビ局。晴れていると彼方に都庁の影も見える。東京は不思議なところだ。日本中のどこにでもある退屈な住宅地と、ビルだらけの都会とが、平気な顔をして隣り合っている。
駅のあたりは、屋上から眺めていると、テレビCMの一コマみたいに現実感がなかった。たぶん、僕がそっちに寄りつかないせいだろう。学校の帰りに制服のままするっと遊びに行けるので、うちの高校は内外で人気が高いらしい。明るい色のセーラー服だと四割増しくらいでもてるんだそうだ。
その日は曇り空で、いつもはぎらぎら太陽を照り返すビルの表面をよく観察することができた。とはいってもまったく同じように区切られたガラスが並んでいるだけなんだけど、僕は頭の中でその区切りのあっちやこっちに色を塗りながらドット絵を描いていた。
そうやってひとりきりで時間を潰すのには慣れていた。父親の仕事の関係で、しじゅう転校していたからだと思う。十月のはじめにその高校に転入してきた僕は、活動している部員が他にいないからという理由だけでパソコン部に入って、だれにも気づかれずに学校生活を送っていた。高校なんて通う意味はないんじゃないかと思うこともよくあった。授業にも全然ついていけないし。
ビルを眺めていると突然、足下でがちゃりと音がしたので、僕は腰を浮かせた。給水塔は屋上から突き出た階段室の上に置かれている。階段を上ってきただれかがドアを開けた音だ。
「あれ、いないのかな」
女の子の声が聞こえた。僕がおそるおそる身を乗り出して真下をのぞいたとき、彼女が振り向き、目が合った。
ショートカットに、気の強そうな眉と、対照的に人懐っこそうな可愛い瞳が印象的な女の子だった。見憶えがあるような気がした。身を起こそうとすると、彼女がめちゃくちゃ驚いた顔で「わ」と叫んだ。僕は給水塔から転げ落ちた。
足から落っこちたのは幸運だったけど、手の甲をコンクリートの壁で盛大にすりむいたので、僕らが出逢って最初にしたことは、彼女が持ってきたじょうろの水で傷口を洗って手当てすることだった。
「なんでこんなとこに登ってるかな、危ないよ!」
擦り傷に絆創膏をべたべた貼りながら彼女は言う。なんでと訊かれても困る。
「……馬鹿となんとかは高いところが好きなんだよ」
「馬鹿の方を伏せ字にしないと意味ないよ、それ」
ものすごく冷静に突っ込まれてしまった。逃げ出したくなったけど、手首をつかまれているのでそうもいかない。
「はい、おしまい。もう登っちゃだめだよ?」絆創膏まみれになった僕の右手をぽんと軽く叩いて、彼女はまるで保母さんが幼稚園児を諭すみたいににこやかに言う。「とか言って、あたしも登ったことあるんだけどね。はしごがあると登りたくなるよねやっぱり」
というかこいつだれだ? 学校の人間は顔も名前も一人として憶えていなかったので、こんなになれなれしく話しかけてくる女の子にはまったく心当たりがなかった。
ふと、彼女の左腕に巻かれた黄色い腕章が目に留まる。古びて文字は変色していたけれど、かろうじて『園芸委員』と読めた。そこでようやく、フェンスの際に並んだたくさんの鉢植えに気づいた。園芸委員会なんてあったのか。
「あ、そうか、あの高さからじゃないとコンピュータルームがよく見えないのか。藤島くんて、あれなのかな、同じ部屋にだれかいると集中できないとか? 芸術家タイプ?」
フェンスに手をかけて向かい側の校舎に目をやりながら彼女が言った。僕はぎょっとする。
「──なんで知ってんの?」
自分でびっくりするくらい素っ頓狂な声が出た。彼女はきょとんとした顔を僕に向ける。
「だって、うちのクラスこっちの三階だから、コンピュータルーム見えるもん。藤島くんいつも窓際の席使ってるし」