神様のメモ帳

1 ②

 見られてた。血の気が引くのがわかった。この女どこまで知ってる。ひょっとしてアレなCGを彩色してるとこまで。いやそれより。


「なんで、僕の名前」


 今度は彼女が野球投手のワインドアップみたいなかっこうで驚く番だった。


おぼえてないの? 同じクラスなのにっ?」

「え」


 僕はものすごくあせる。転校してきてから、ほとんどだれともしやべらないようにしてきたから、クラスメイトの名前なんて一人も思い出せないのだ。


「購買部の場所も教えてあげたのに。世界史の資料集もいっぺん貸してあげたのに。体育のときに着替えも手伝ってあげたのに!」

「ちょ、ちょっと待って」

「最後のはうそだけど」


 この女……。


「ひょっとしたら、とは思ってたけど、ほんとに憶えてなかったんだね……」


 泣きそうな目でそう言われると、なんだか申し訳なくなってくる。


しのざきあや。藤島くんの二つとなりの席だよ? なんで憶えてないかな」

「ごめん……」

「だいたい藤島くんは一年四組だっていう自覚が足りないんだよ、文化祭もさぼるし」


 いや、でも、転校してきて次の週に文化祭ですよ? 休むしかないだろ。


「クラス章もつけてないし。都立校でクラス章がある学校すごく珍しいんだよ? つけなきゃ損だよ」


 なにがどう損なのかよくわからなかったので、「あれくしちゃった」と僕はうそをついた。


「じゃ、あたしの貸してあげる。うちにスペアあるから」と、彩夏は自分のセーラーのえりからバッヂを外した。


「え、いや、らないよ」

「いいから、こら、暴れるな」


 逃げようとした僕は、彼女に後ろからつかまえられた。僕は思わず息を止めて固まってしまう。背中から彼女の両手が回されて、僕のブレザーの襟をまさぐっている。これは、客観的に見て、後ろからきつかれているように見えるんじゃないだろうか、いや、待て、落ち着け僕。

 ものすごく長い体感時間の後で、彩夏の体温が僕の背中から離れる。


「うん。よしよし」


 彼女は僕の正面に回ってくると、満足そうにうなずく。緑と青に塗られたえりしようを、僕は複雑な気持ちで見下ろした。首輪でもつけられた気分だった。なんだってこいつは、こんなことまでしやがるんだろう。転校生にやたらと世話を焼きたがるやつはけっこう見たけど、ここまで気安いのははじめてだった。


「校則で決まってるんだから外しちゃだめだよ?」

「なんで東京の高校は変な校則がいっぱいあるのかな……」


 東京は自由だと思ってた僕が悪いのだろうか。とくに迷惑なのが、最低一つは部活動を義務づけられていることだった。おかげでこんな目にっている。


「校則なかったら、ふじしまくん帰宅部だったんだ?」


 なんだよ。悪いかよ。


「でもパソコン部、来年なくなっちゃうよ?」

「……え?」

「もうすぐ三年生卒業でしょ。四月に予算決めるときに、部員が最低二人いないと、廃部なんだって」


 そんな重要事項、初耳ですが。僕はパソコン部もん教師のうらなりナスビづらを思い出す。あのろう、黙ってつぶす気だったな。せっかく居心地のいい部活だったのに。


「あのねっ」


 いきなりあやが声を高くするので。僕はびっくりして半歩後ずさった。


「ものは相談なんだけどっ。藤島くんが交換条件をんでくれるなら」と彼女は、なんだか悲壮なかくを決めたみたいな顔つきで言った。「あたし、パソコン部に入ってもいいよ」

「……交換条件?」

「実は園芸部も、あたし一人しかいないのです」


 なぜか自慢げに彩夏は、左うでわんしようを僕につきつけた。園芸部? 園芸委員じゃないのか?


「委員会はずっと昔になくなっちゃったの。これ、物置から見つけてきたやつ。かっこいいでしょ?」

「いや全然」

「どうしてそういうこと言うかな! とにかく」


 彩夏は顔をにしている。なんでこんなにハイテンションなのか、わからない。


「弱小部は助け合って生きていこうよ、ね?」


    


 けっきょく彩夏の迫力にされて、僕は交換条件を吞むことになった。二人で入部届けを職員室に出して、それでおしまいのはずだった。屋上ではひとりになれないとわかったので、放課後の時間をつぶす場所を別に探さなきゃいけなかった。図書室とか職員用トイレとかを検討しながら僕は家に帰った。

 でも次の日の放課後、授業が終わるなりあやは僕の机までやってきて言った。


「あたし屋上の鍵借りてくるから、ふじしまくんは道具取ってきて。げんかんわきのロッカーわかるでしょ? 園芸委員って書いてあるやつ」


 クラスメイトの視線が、かばんに教科書を詰め込んでいた僕と、彩夏との間を何度も行き来する。


「名前だけの部員じゃなかったの?」と僕は口をはさむ。


「……名前だけだったの?」彩夏は振り向き、口をおさえて青ざめる。「そ……そうだよね、ごめんなさい。あ、あたし、うれしくて、ちょっと舞い上がっちゃって、あの」


 なみだぐむ彩夏。クラスメイトの視線が痛かった。まるで僕が泣かせてるみたいな、いや、その通りなんだけど、とにかくこれはまずい。


「えと、あの、ちょっと」

「藤島くんもパソコン部で忙しいもんね。ごめんね?」

「いや、べつに──」

「こないだパソコンで描いてた女の子の絵、もうすぐ完成だもんね。スカートは後から描くんでしょ?」

「わああ!」


 僕はあわを食って彩夏の口をふさいだ。


「わかった、オーケー、手伝うから」

「……ほんとに?」彩夏の顔から一瞬で涙の気配が消し飛ぶ。「ありがと、藤島くん!」


 いたずらっぽく舌をちらと出すのも見えた。くそ、この女。


「……あや、部員増えたんだ?」


 そばにいた女子生徒が、複雑そうな表情でちらちら僕を見ながら言う。


「うん。戦力倍増。植物のことならなんでも言ってくれていいよ」


 クラスメイトたちは顔を見合わせる。


「あ、じゃあ」男子の一人が手を挙げた。「トイレの洗面台のカビがすごいからなんとかしてくれ」

「カビは植物じゃないよ!」と彩夏。


「いや、植物だろ?」「植物と動物だけで分類するのはもう古いんだってさ」「トイレのあれはこけじゃね?」「類だと植物じゃないんだよ」「生物部ちょっと黙ってろ」「どんどん広がってるよな」「人の顔に見える」「マジかよ」


 次々と男子生徒が口を挟んできて論議が盛り上がる。なんなんだこのクラスは。二十分くらいかんかんがくがくしたあげく、彩夏が保健室からほんとにカビキラーを借りてきた。当たり前のような顔をして男子トイレに入ろうとする彼女を、僕はあわてて止める。


「……僕がやるから」


 トイレの壁一面に広がったカビを前にほうに暮れる僕を哀れに思ったのか、同級生が何人か手伝ってくれた。塩素の刺激しゆうがトイレ中に充満する。


ふじしまも大変だよな……」


 めちゃくちゃ同情されてしまった。


「まあ、しのざきも悪いやつじゃないから」「悪いやつじゃないな」「うん」


 壁をスポンジでこすりながら、僕も力なくうなずき返す。

 そこでふと気づいた。クラスメイトから名前で呼ばれるのは、それがはじめてだった。しどろもどろになった僕は、ろくな言葉も返せなかった。


    


「新入部員歓迎会しようよ、おごるから」


 その日の夕方、作業を終えてらんはちえを残らずげんかん口の内側に運び込むと、あやが言った。


「ラーメン屋さんでバイトしてるの。店員だから安くしてくれるよ」


 女子高生がラーメン屋でバイトってのも珍しいな、と思う。


「ちょくちょく行ってるうちに働くようになったの、面白い常連さんがいっぱいいるし。一緒に行こ?」

「なんで──」



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