断ろうとしたらまた泣く構えを見せたので、僕はしかたなくうなずく。道具をロッカーにしまって鍵を職員室に返すと、彩夏と一緒に校門を出た。
首都高より向こう側には行ったことがないと言ったら彼女はめちゃくちゃ驚いた。
「だって住んでるのもこの近くなんでしょ?」
「引っ越してきたばっかりだし、駅前は人多いからあんま行きたくない。行く用事もないし」
「ブックファーストとかHMVとかも行かないの?」
僕はうなずく。本もCDもたいがい通販で買うことにしていた。店がでかいからって欲しい物が置いてあるわけじゃないし。
「そっか。でも、うちの店はけっこう駅から離れてるよ。ラーメンはそんなに美味しくないけどアイスクリームがすっごい美味しいので有名」
「アイス屋やれよ……」
「それミンさんに絶対言っちゃだめだよ。ラーメンの上にアイス載せて出してくるよ」
ミンさんというのはそのラーメン屋のマスターだという。中国人だろうか。
二歩前をスキップ気味の足取りで楽しげに歩く彼女を見ながら、不思議な気持ちになる。なにがどう間違ってこんなことになってるんだろう。なんで僕みたいなやつにいちいちかまうんだろう?
運送トラックの舞い上げる砂埃を浴びながら橋を渡り、街に入る。首都高の高架をくぐって駅前へ。人の海の中をもまれながら流されるように南口に入り、地下街を通って東口に抜ける。
地上に出て線路沿いに進んだ先、ホームレスのテント小屋が立ち並ぶ公園を抜け、街の灯が届かなくなったあたりで右手に入る。ラーメン屋は、薄暗い袋小路にあった。その雑居ビルの一階、『ラーメンはなまる』と書かれたのれんのあたりだけが明るくて、誘蛾灯にまとわりつく虫みたいに客が集まっていた。
ひどく狭い店だった。床面積のほとんどは厨房が占めて、カウンター席が五つきり、あとの客は店の外にあるパイプ椅子で食べている。中にはひっくり返したビールケースに座って丼を抱えているサラリーマンもいる。
「どっかそのへん座ってて?」
彩夏はそう言って店の裏に回ってしまった。そのへんて言われても。椅子もビールケースも絶賛満席なんですけど。
彼女が入っていったビルとビルの間をのぞきこむと、厨房に続く入り口の脇に非常階段があって、そこに一人の男が座ってラーメンをすすっていた。階段の足下には、重ねた古タイヤと、背の低いドラム缶、しみだらけの段ボール箱。
男が顔を上げた。僕は思わず一歩後ずさった。男は二十歳前くらいで、肌が浅黒くて、もう十一月だってのにTシャツ一枚で、盛り上がった上腕二頭筋がむき出しで見えた。ぎょろりとした目でにらまれて、殺される、と一瞬だけ思った。
「おまえ、M高生か」
「いやちがいます、まだ中学生ですよ高校生に見えますか?」自分でも理由はわからないけどとっさに噓が出た。男は丼を置いて言う。
「そか。ところで数学の福本先生の髪はまだ無事?」
「いや、もう生え際が北極点をとっくに通過して……はっ」
寄ってきてデコピンされた。額に穴が開いたみたいに痛い。
「……ぅう……卑怯だ、卒業生なら最初からそう言えばいいのに」なにが卑怯なのか自分でもよくわからないが(というか制服見ればM高生なのはバレバレなのに気づかない僕の方がどうかしてたんだけど)、額を押さえてしゃがみ込み、うめく。と、背中から声がした。
「卒業生じゃないよ、そいつは中退。落ちこぼれだ。ほら、これ食え」
振り向くと、灰色のタンクトップを着た若い女の人が立っていた。後ろ髪は太いポニーテイル、大きく開いた胸元からは、巻き付けた白いさらしが見える。土木作業員みたいなかっこうだったけど、白抜きの文字で『はなまる』と書かれた黒い腰エプロンをつけていたので、店の人だとかろうじて気づいた。ひょっとしてこの人がミンさん? 女の人だったのか。
ミンさんが僕の手に押しつけたのは、紙カップに入ったアイスクリームだった。
「あのなマスター、何度も言ったけど自分からやめたんだ、落ちこぼれてねーぞ」
「ツケ払ってからでかい口きけ無職」
「赤ん坊は生まれたときみんな無職っていうだろ。そこから世間の汚い色に染まってくんだ」
それ無色ちがうから。でもミンさんは突っ込まずに厨房の白い湯気の中に戻っていった。僕はアイスのカップを手に、しばらく立ちすくむ。
「おい、おまえ」と、中退生の声。振り向いてとっさに額をかばう。
「なに警戒してんだよ。おまえ、一年だよな」と僕の襟のクラス章を見て彼は言う。「中間テストの赤点いくつあった?」
「な」
なんでそんなこと訊くですか?
「藤島くん、だめだよテツ先輩とあんまり喋っちゃ、ニートが感染るよ」
制服の上からそのまま黒いエプロンをした彩夏が、丼を満載したトレイを手に厨房から出てきて言った。色黒男──テツ先輩は歯をむいてデコピンの真似だけした。男女差別だ。彩夏は舌を出して、それから店の外の席に座っている客の方へ給仕に行ってしまう。
「いいから答えろ、おまえはいかにも一年生のうちからすぐ赤とりそうな顔してる」
でっかいお世話だったが事実その通りだったので、僕は「英語と日本史で追試だった」と小声で答えた。テツ先輩は満面の笑みを浮かべて僕の腕をつかみ、ものすごい力で引っぱりおろしてドラム缶の上に座らせた。
「この席はほんとはニート専用だけど、おまえは見込みがある。中退したら来い、俺らはおまえを歓迎する」
「いや、そんな見込み要らないです」俺らって、他にだれ?
「なんでだよ。台選びから教えてやるよ? 店員にも知り合いいるから設定6の情報とかすぐ入るし」
よく見るとテツ先輩はジーンズの背中にスロット情報誌を挟んでいた。うわあ。この人パチプロだ。正真正銘の駄目人間だ。僕はテツ先輩の方をなるべく見ないようにしながら木のスプーンでアイスを口に運ぶ。晩秋の夕空の下、ラーメンのスープの香りがする熱気を顔に浴びながら味わうアイスクリームは格別の美味しさだった。
テツ先輩の言う『俺ら』の二人目は、僕がチャーシューメンをすすってる最中に現れた。いきなり後頭部になにかごりっとした硬いものが押しつけられ、「動くな。武器を捨てて両手を挙げろ。氏名と所属部隊を言え」と声がする。僕はチャーシューとスープを噴き出しかけた。
「え、え、えと」両手を挙げたら丼落とすんですけど。
「遅かったじゃん少佐。アホやってないで座れよ」
テツ先輩はヴァニラアイスとコアントローソースをかき混ぜながらのんびり言う。
「ここは自分の席ですよ。だれですかこいつは」
「ナルミ。彩夏と同じ部活だって」
「後からヒロさんも来るって言ってたのに、どうするんですか座る場所」
「ヒロはナルミの膝の上でいいだろ」
「なるほど」
なるほど?
少佐と呼ばれた男はようやく僕の視界に入ってきた。濃緑と茶色の混じった迷彩色のトレーナー、硬そうな丸帽、ゴーグル型のサングラス。瘦せていて、肌は小学生みたいに綺麗なピンク色だった。僕と同い年くらいに見える。手にしていたモデルガン(だと思う、本物だったらどうしよう)をカーキ色のバックパックにしまいながら、僕を見て言う。
「でもこいつ、高校生じゃないですか。ニートの定義は」
「心配すんな。俺の後輩だし、あと二年もすれば立派なニートになる」