神様のメモ帳

1 ③

 断ろうとしたらまた泣く構えを見せたので、僕はしかたなくうなずく。道具をロッカーにしまって鍵を職員室に返すと、彩夏と一緒に校門を出た。

 首都高より向こう側には行ったことがないと言ったら彼女はめちゃくちゃ驚いた。


「だって住んでるのもこの近くなんでしょ?」

「引っ越してきたばっかりだし、駅前は人多いからあんま行きたくない。行く用事もないし」

「ブックファーストとかHMVとかも行かないの?」


 僕はうなずく。本もCDもたいがい通販で買うことにしていた。店がでかいからって欲しい物が置いてあるわけじゃないし。


「そっか。でも、うちの店はけっこう駅から離れてるよ。ラーメンはそんなにしくないけどアイスクリームがすっごい美味しいので有名」

「アイス屋やれよ……」

「それミンさんに絶対言っちゃだめだよ。ラーメンの上にアイスせて出してくるよ」


 ミンさんというのはそのラーメン屋のマスターだという。中国人だろうか。

 二歩前をスキップ気味の足取りで楽しげに歩く彼女を見ながら、不思議な気持ちになる。なにがどう間違ってこんなことになってるんだろう。なんで僕みたいなやつにいちいちかまうんだろう?

 運送トラックの舞い上げるじんを浴びながら橋を渡り、街に入る。首都高のこうをくぐって駅前へ。人の海の中をもまれながら流されるように南口に入り、地下街を通って東口に抜ける。

 地上に出て線路沿いに進んだ先、ホームレスのテント小屋が立ち並ぶ公園を抜け、街のが届かなくなったあたりで右手に入る。ラーメン屋は、薄暗い袋小路にあった。その雑居ビルの一階、『ラーメンはなまる』と書かれたのれんのあたりだけが明るくて、ゆうとうにまとわりつく虫みたいに客が集まっていた。

 ひどくせまい店だった。ゆか面積のほとんどはちゆうぼうが占めて、カウンター席が五つきり、あとの客は店の外にあるパイプで食べている。中にはひっくり返したビールケースに座ってどんぶりかかえているサラリーマンもいる。


「どっかそのへん座ってて?」


 あやはそう言って店の裏に回ってしまった。そのへんて言われても。椅子もビールケースも絶賛満席なんですけど。

 彼女が入っていったビルとビルの間をのぞきこむと、厨房に続く入り口のわきに非常階段があって、そこに一人の男が座ってラーメンをすすっていた。階段の足下には、重ねた古タイヤと、背の低いドラム缶、しみだらけの段ボール箱。

 男が顔を上げた。僕は思わず一歩後ずさった。男は前くらいで、はだが浅黒くて、もう十一月だってのにTシャツ一枚で、盛り上がったじようわんとうきんがむき出しで見えた。ぎょろりとした目でにらまれて、殺される、と一瞬だけ思った。


「おまえ、M高生か」

「いやちがいます、まだ中学生ですよ高校生に見えますか?」自分でも理由はわからないけどとっさにうそが出た。男は丼を置いて言う。


「そか。ところで数学のふくもと先生のかみはまだ無事?」

「いや、もう生え際が北極点をとっくに通過して……はっ」


 寄ってきてデコピンされた。ひたいに穴が開いたみたいに痛い。


「……ぅう……きようだ、卒業生なら最初からそう言えばいいのに」なにが卑怯なのか自分でもよくわからないが(というか制服見ればM高生なのはバレバレなのに気づかない僕の方がどうかしてたんだけど)、額を押さえてしゃがみ込み、うめく。と、背中から声がした。


「卒業生じゃないよ、そいつは中退。落ちこぼれだ。ほら、これ食え」


 振り向くと、灰色のタンクトップを着た若い女の人が立っていた。後ろ髪は太いポニーテイル、大きく開いた胸元からは、巻き付けた白いさらしが見える。土木作業員みたいなかっこうだったけど、白抜きの文字で『はなまる』と書かれた黒いこしエプロンをつけていたので、店の人だとかろうじて気づいた。ひょっとしてこの人がミンさん? 女の人だったのか。

 ミンさんが僕の手に押しつけたのは、紙カップに入ったアイスクリームだった。


「あのなマスター、何度も言ったけど自分からやめたんだ、落ちこぼれてねーぞ」

「ツケ払ってからでかい口きけ無職」

「赤ん坊は生まれたときみんな無職っていうだろ。そこから世間のきたない色に染まってくんだ」


 それ無色ちがうから。でもミンさんは突っ込まずにちゆうぼうの白いの中に戻っていった。僕はアイスのカップを手に、しばらく立ちすくむ。


「おい、おまえ」と、中退生の声。振り向いてとっさにひたいをかばう。


「なに警戒してんだよ。おまえ、一年だよな」と僕のえりのクラス章を見て彼は言う。「中間テストの赤点いくつあった?」

「な」


 なんでそんなことくですか?


ふじしまくん、だめだよテツせんぱいとあんまりしやべっちゃ、ニートがるよ」


 制服の上からそのまま黒いエプロンをしたあやが、どんぶりまんさいしたトレイを手に厨房から出てきて言った。色黒男──テツ先輩は歯をむいてデコピンのだけした。男女差別だ。彩夏はしたを出して、それから店の外の席に座っている客の方へ給仕に行ってしまう。


「いいから答えろ、おまえはいかにも一年生のうちからすぐ赤とりそうな顔してる」


 でっかいお世話だったが事実その通りだったので、僕は「英語と日本史で追試だった」と小声で答えた。テツ先輩は満面の笑みを浮かべて僕のうでをつかみ、ものすごい力で引っぱりおろしてドラムかんの上に座らせた。


「この席はほんとはニート専用だけど、おまえは見込みがある。中退したら来い、おれらはおまえを歓迎する」

「いや、そんな見込みらないです」俺らって、ほかにだれ?


「なんでだよ。台選びから教えてやるよ? 店員にも知り合いいるから設定6の情報とかすぐ入るし」


 よく見るとテツ先輩はジーンズの背中にスロット情報誌をはさんでいた。うわあ。この人パチプロだ。しようしんしようめい人間だ。僕はテツ先輩の方をなるべく見ないようにしながら木のスプーンでアイスを口に運ぶ。晩秋の夕空の下、ラーメンのスープの香りがする熱気を顔に浴びながら味わうアイスクリームは格別のしさだった。

 テツ先輩の言う『俺ら』の二人目は、僕がチャーシューメンをすすってる最中に現れた。いきなり後頭部になにかごりっとした硬いものが押しつけられ、「動くな。武器を捨てて両手を挙げろ。氏名と所属部隊を言え」と声がする。僕はチャーシューとスープをき出しかけた。


「え、え、えと」両手を挙げたら丼落とすんですけど。


「遅かったじゃんしよう。アホやってないで座れよ」


 テツ先輩はヴァニラアイスとコアントローソースをかき混ぜながらのんびり言う。


「ここは自分の席ですよ。だれですかこいつは」

「ナルミ。あやと同じ部活だって」

「後からヒロさんも来るって言ってたのに、どうするんですか座る場所」

「ヒロはナルミのひざの上でいいだろ」

「なるほど」


 なるほど?

 しようと呼ばれた男はようやく僕の視界に入ってきた。濃緑と茶色の混じった迷彩色のトレーナー、硬そうな丸ぼう、ゴーグル型のサングラス。せていて、はだは小学生みたいにれいなピンク色だった。僕と同い年くらいに見える。手にしていたモデルガン(だと思う、本物だったらどうしよう)をカーキ色のバックパックにしまいながら、僕を見て言う。


「でもこいつ、高校生じゃないですか。ニートの定義は」

「心配すんな。おれこうはいだし、あと二年もすれば立派なニートになる」


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