「なりませんよ!」と僕はあわてて抗議した。少佐はゴーグルの奥から僕をにらみ、段ボール箱の上に腰を下ろす。
「一億総ニートの時代には、このような量産型ニートも必要なのか。我が国の未来は暗い」
「……量産型?」
おそるおそる訊いてみると、少佐はびっと僕を指さしてまくしたて始めた。
「そもそも貴様はニートの定義を知ってるのか? 原義では十六歳から十八歳の非就学・非就職者を指していたのが、英国から日本に輸入されて十五歳から三十四歳までと爆発的に定義が拡大されたのだ。あまりにも多様化したために、能動型・受動型の二種、刹那型・挫折型・蟄居型・躊躇型の四種、あるいは三次元軸八象限で分類しようとの試みも見られるが自分に言わせればすべてナンセンス」
「向井さん、お待ちどおさま」
彩夏が少佐の分の塩ラーメンを持ってきた。向井さんというのが少佐の本名らしい。
「ごめんね藤島くん、もうちょっとしたらピーク過ぎるから」
僕は彩夏に全力で、この座から脱出したいからなにか口実を作ってくれと念を飛ばしたけど無視された。少佐はスープを一口すすってまた喋り出す。
「そもそもニートは文化依存症だ。我が国のような富強国でしか生まれ得ない。我々はもっとニートを誇るべきだ! ニートを育んだ国土を愛し、内外の敵から守るために立ち上がらなくては! 量産型ではなく精鋭のニートを募り切磋琢磨し、日本新党を結成し悪の枢軸に断固たる戦いを挑むのだ! 増えるぞニート! 燃え尽きるほどニート!」
「うるせー黙って食え!」
厨房からミンさんの怒鳴り声と一緒に小鍋が飛んできて少佐の頭に激突した。
三人目がやってきたのは、少佐が帽子をぬいで後頭部のこぶをさすっているときだった。
「あれ。どうしたのその子」
男の声がして、路地の入り口に背の高い影が差す。
明るい色のジャケットとチノパンツを少し崩した感じで着こなした青年が立っていた。どこの業界かわからないけど業界人のオーラが出ている。テツ先輩とは違う意味で気圧されてしまい、その人が寄ってきたのでドラム缶からずり落ちそうになった。
「彩夏の知り合い。ほら、M高の」とテツ先輩が言うと、「あー、あーあー」とその人は笑って、僕のブレザーの肩を叩いた。
「テツがこの制服着てた時代もあったんだよなあ」
その人は狭苦しい勝手口周辺を見回すと、テツ先輩の隣、階段に腰を下ろした。僕は内心、首を傾げる。この場所はニート専用とかどうとか言ってなかったっけ?
「はじめまして。おれ、こういうもんです」と、その人は胸ポケットから薄い名刺入れを取り出して一枚僕に差し出してきた。やっぱり、ちゃんと働いてる人なのだ。そう思って受け取った名刺を見たら、こんなことが書かれていた。
『ニート
桑原 宏明』
……はっ。一瞬、意識を失ってしまった。
自分の生きている世界を確かめるために、僕は深呼吸してあたりを見回した。テツ先輩はアイスに、少佐はのびかけた塩ラーメンにかかりきりだった。彩夏は厨房の湯煙の中で丼を洗うのに忙しく、ミンさんは中華鍋の炎と格闘中、見上げた晩秋の夜空はどこまでも高く、突っ込む人間は僕だけだった。
「え、と……お仕事がニートなんですか?」
こわごわ訊ねると、ヒロさんは歯磨き粉のCMみたいな笑顔を浮かべて答える。
「なに言ってんだよ。ニートは職業じゃないぞ?」
そりゃそうだよなあ、とうなずきかけた僕にヒロさんの追い打ちが飛ぶ。
「ニートというのは生き様なんだな」
僕はもう泣きそうだった。生き様だってさ。目を細めて髪をかきあげるヒロさんは無駄にかっこよかった。なんなのこの人たち。
「ヒロなんで名刺作ったんだっけ」
「これナンパに便利なんだよね。見せるだけでウケるから」
「彼女に怒られるから無差別爆撃はやめたと言ってませんでしたか」
「あ、あの娘とは別れた。今はヘルス嬢の部屋に泊めてもらってんの。最初から無職って主張しとくと居着くの楽だわーほんと」
ヒロさんはヒモだった。そうか、生き様かあ。
彼らの会話を遠く聞きながら、僕はラーメンのスープを飲み干した。味はよくわからなかった。断片的な話から察するに、全員まだ十八歳か十九歳らしい。輝かしい未成年。
テツ先輩の言う通り、僕ももうすぐこうなるのかな、とぼんやり思い始めた。それだけはかんべんしてほしかった。
みんなラーメンを食べ終えて食後のアイス(テツ先輩は二つ目)をついばんでいるとき、不意に狭いビルの間にけたたましいロックのリズムが鳴り響いた。『コロラド・ブルドッグ』のイントロだ。三人とも飛び上がるように立ち上がって、それぞれの携帯電話を取り出す。三つの携帯がまったく同じタイミングで同じ着メロを鳴らしていた。
テツ先輩が真っ先に電話に出た。少佐とヒロさんの携帯はいきなり黙り込み、二人はなんだか悔しそうに腰を下ろす。
電話を切ったテツ先輩は、厨房に向かって怒鳴った。
「マスター、注文! アリスから。ネギラーメンの麵とチャーシューと卵抜きで」
それはただのネギじゃないのか? と思ってたら、三分後にミンさんが持ってきた丼にはほんとにネギとスープしか入ってなかった。
「うちはラーメン屋だってあいつにちゃんと言っとけ」とミンさんは苦々しい顔で言う。
スープの海面にこんもりと盛り上がった白髪ネギの島を囲んで、テツ先輩と少佐とヒロさんは渋い顔をして額を突き合わせた。
「問題は、だれが持ってくかだ」とテツ先輩。
「アリス、機嫌悪そうだった?」とヒロさんが訊ねる。
「かなり」
「出前ですか?」と訊いてしまったのが僕の運の尽きだった。テツ先輩はうなずき、それからはたと膝を打った。
「四人いるし、山手線ゲームで負けたやつが届けることにしよう」
……四人?
「お題は」
「じゃあ『ハローワークによく置いてある冊子』で」
「わかりました。パス一回までですね」
「ちょ、ちょっと待って僕も入ってるんですか?」
「俺からな。《雇用保険受給資格者のしおり》」
「《三十二歳からの自分探し》」
「《二分であなたの天職が見つかる!》」
「え、あ、あの」
「ナルミ、パスいちな。《だれも教えてくれなかった得する退職法》」
「《パソコン一台でらくらく起業できる!》」
「《新しい職場に三日でなじむための完全マニュアル》」
「……そんなん知ってるわけないでしょ!」
「逆切れかよナルミ。ニートならみんな知ってるぞ。職安に一回だけ行ってなんもしないで帰ってくる。全員通る道だから」
いや、ニートじゃねえから。
「敗戦は素直に認めろ負け犬」
「気にしなくてもいいんだよナルミ君。知らなくても恥ずかしいことじゃないから」
「当たり前です慰めないでください!」
「でも配達はしてくれよ」
絶句。まんまとはめられた。
出前先は、ラーメン屋の入っているのと同じビルの三階だった。308号室。「行けばわかる」と言われた通りだった。ドアにでっかい看板が打ち付けてあったのだ。