《NEET探偵事務所》
可愛らしくレタリングされた字でそう書いてあり、その下には謎の英文があった。
It's the only NEET thing to do.
今日一日でだいぶいいかんじに脳が麻痺していた僕は、ニートが探偵をやっているくらいではもう驚かなくなっていた。ラーメンを載せたトレイの角でインタフォンのボタンを押す。インタフォンはカメラつきに改造されていて、青いランプがちかちかと点滅した。テツ先輩によればこれは『入ってよし』のサインらしい。
中は奥行きのある細長いワンルームだった。冷房が効いているのか外よりもさらに寒い。冷蔵庫とキチネットと洗濯機が並んだ廊下の奥に、狭苦しい部屋が見えた。間にドアがない造りなので、天井までの高さのあるPCラックや数え切れないほどのモニタ画面で部屋の壁が埋まっているのが玄関からでも見える。
「ラーメン、持ってきたけど……」
「入りたまえ」
奥から女の子のかなり幼い声がした。
トレイを手に部屋の入り口まで行った。とんでもない部屋だった。三方の壁一面がわけのわからない機器と液晶画面とコードの束で覆い尽くされ、わずかに残った部屋の中央の床はベッドが占めていた。毛布の上には大小さまざまなぬいぐるみ。その中に埋もれるようにして、僕に背を向けて座っていたパジャマ姿が、振り向いた。
人形かと思った。小さな顔、不釣り合いに大きな瞳、冗談みたいに白い肌、細っこい手足、シーツに川をつくる長いさらさらの黒髪。ファンシーなクマさんの柄が入った水色のパジャマ。僕はトレイを持ってしばらく呆然とその女の子を見つめていた。
女の子は、キーボードの載っていた可動式のテーブルを脇へ押しやると、かわりに別の細長いテーブルをベッドの上に引っぱり出してきた。病室のベッドに備え付けてあるようなやつ。
「なにを突っ立っているんだい。ぼくはネギラーメンを注文したんであって高校生の形をした置物を注文した憶えはないよ」
「あ、ん……えと。そこに置けばいいの?」
「この距離からきみの持ってる丼に手が届くほどぼくの腕が長いように見えるのかい?」
すげえ言われようだった。なんだかもう怒るのも呆れるのも通り越してすがすがしい。僕がトレイを女の子の前のテーブルに置くと、彼女は割り箸を取り上げてじっと見つめ、それから大きく深呼吸した。ちっちゃい顔に気合いがみなぎる。箸先を持った両手に力がこもった。けれど割り箸は《人》の字の形に広がってぷるぷる震えたままいっこうに割れない。どんだけ非力なんだこの娘。
「……割ってあげよか」
パジャマ娘はきっと僕をにらみつけた。
「きみは翼が弱くて飛べない雛鳥を見つけたら飛ぶのを手伝ってやろうと言って空に放り投げて自己満足に浸るタイプか。最低だな。きみがしたり顔で歩き去った背後でその雛鳥はアスファルトに叩きつけられて死んでるのに、気づきもしないなんて、愚昧にもほどがある」
なんで割り箸一本でここまで言われなくちゃならないんだ、と思ったけど、僕は口をつぐんだ。彼女は再び息を大きく吸い込んで割り箸に全力をそそぎ込む。
ぼき。
右手側の箸が折れた。よくあるパターンだ。彼女は長さが不揃いになってしまった割り箸をしばらく無表情に見つめ、それから「う、う……」と涙目になる。おい、泣くな!
すん、と鼻を鳴らすと、潤んだ目を手の甲でこすり、彼女はネギラーメン(というかネギ)を食べ始めた。と思ったら僕をまた上目遣いでにらみ、「きみはほんとに悪趣味だな。他人の食事を黙ってじっと見ていて楽しいのかい」と言う。
「あ、ご、ごめん」
部屋を出ていこうとしたら、今度は、「どこへ行くんだ。きみが戻ってしまったら食べ終わった後の丼はだれが片づけるんだ。それくらい考えたまえよ」とか言うのである。僕はぼりぼりと頭を搔くと、ベッドに背を向けたまま部屋の入り口にしゃがみこんだ。
パジャマ娘がネギを嚙むしゃくしゃくというかすかな音を背中に聞きながら、僕はその日一日を振り返っていた。なんとなく断りきれなくて彩夏についてきただけなのに、いやあ、色々あった。もう疲れたよ。寝そうになっていた僕の背中に、再び彼女の声が刺さる。
「ナルミ。食べ終わった。冷蔵庫から飲み物を取ってきてくれたまえ」
僕はびくんとして立ち上がり振り向く。
「え、え?」
「冷蔵庫から飲み物だ。他人の家にあがりこんで寝ようとするなんて、ほんとに図々しいやつだなきみは」
おまえには言われたくない。でも僕は素直に従った。くたびれていると反抗する意思もなくなってくる。冷蔵庫を開けると中には深紅の350ミリリットル缶がぎっしり並んでいた。他にはなにも入っていない。コーラかと思ったら全部ドクターペッパーだった。突っ込む気力もなかった。パジャマ娘はドクターペッパーをごくごくと一気飲みすると、幸せそうな顔をする。その表情を見ているとなんだかすべてを赦せそうな気がしてきた。
「神様が創世七日目に休んだのはドクターペッパーを飲んでいたからだよ。ドクターペッパーがなければ今頃一週間は十二日くらいだったにちがいない」
「そうスか」
「ナルミ、きみも飲むといい。うちの冷蔵庫に入っているのは一本たりともやれないけれど売ってる店を紹介してあげよう」
くれるんじゃないのかよ。
「……って」僕はそこでようやく気づいた。「なんで僕の名前知ってるの」
テツ先輩が電話で話していただろうか? いや、あのときは一方的に注文を受けてすぐ切られていた。僕の名前なんて出る間もなかった。
「藤島鳴海、十六歳男、身長164センチ体重51キロ、M高校一年四組……」
パジャマ娘の口から、僕のプロフィールが──住所、電話番号、学歴、家族構成──ずらずらと出てきた。さすがに僕は言葉を失った。
「彩夏が新入部員がどうのと話していたから、調べたんだ。学校というところはセキュリティの甘さと情報密度のアンバランスがすさまじいのだよ。気をつけた方がいい」
僕は呆然と、部屋を取り巻くコンピュータの分厚い壁を見回す。
「……ハッカー?」
「ハッカーじゃない」
パジャマ娘は笑って首を振った。
「ニート探偵だよ」
アリスというのは半分本名なのだと探偵は言った。
「有子をそう読ませているのだよ。それと、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの本名から拝借した」
「だれそれ?」
アリスはベッドの上で膝を抱え、馬鹿にした目つきで僕を見る。
「小説家だよ。玄関の看板に書いてあったろう。一文字もじってあるが、あまりにも有名な作品の文句じゃないか。読んだことないのか」
看板に書いてあった英文を思い出し、僕は首をひねる。
「探偵ってことは……その、依頼受けて色々頼まれて調べるわけ」
「ただの探偵じゃない。ニート探偵だ。調布と田園調布くらい違うから気をつけたまえ。ただの探偵は聞き込み張り込み歩き回って足で情報を稼ぎ探し物を見つけだす。ニート探偵は」
アリスは胸を張り、背後の壁を埋め尽くす機器類に向かって手を振る。
「部屋から一歩も動くことなく世界中を検索し真実を見つけだす。ネット依存症のひきこもりじゃないかと、きみは今そう思ったね? 隠さなくてもいい」
「うん……まあ」