四代目は廊下に出てくると、冷蔵庫の陰から僕を引っぱり出した。左肩をつかまれ、親指がすさまじい力で肉に食い込んでくる。
「あ、い、……」
「おまえの顔は憶えたし住所もすぐに調べはつく。いいか、おまえはなにも聞かなかった。わかったな?」
すぐ目の前に狼の目。僕はがくがくとうなずいた。
「返事しろ」
「わ、かり……ました」
僕を床に投げ捨てると、四代目は部屋を出ていった。
「大丈夫かい?」
僕がぐったりして台所の隅で丸くなっていると、アリスがやってきて言った。こいつ自分の足で歩けたのか。ベッドの外に出ると死んでしまう病気なのかと思ってた。
「なんかもう疲れた」
僕の喉からそんな言葉が出てきた。その日一日の、偽らざる感想だった。
「こうでもしないと、ぼくがただのネット依存症のひきこもりだと思われたままなんじゃないかと危惧を抱いてね。悪く思わないでくれたまえ」
「いや、それはもう十分わかったよ」
彩夏のおかげで、僕の人生はとんでもない領域に足を踏み入れようとしていた。薬物売買とか探偵とかハッカーとかは、僕の知らない遠くの世界でよろしくやっていてほしかった。
「それだけのために、助手だとか口が堅いだとか、でまかせばっかり……」
「でまかせではないよ。きみは確かに口が堅い。それは知ってる」
僕はアリスを見上げた。笑ってる。今日逢ったばかりなのに、なにを言ってるんだろう。
「ねえ、ナルミ。ぼくと初対面の人間は、だれもが例外なくこう訊くんだ。『ほんとにニートなの? どうしてニートになったの?』訊かなかったのはきみがはじめてだ」
アリスはしゃがみ込んで、うずくまった僕と目の高さを合わせる。
「あるいはきみのそれは無神経とか無関心とかいうものかもしれないけれど、ぼくは──ぼくらニートは、それを嬉しく思う。憐れむくらいなら、ほっといてほしいんだ。どうしてニートになったのかなんて、訊くまでもない。そんなの、理由は一つしかない。神様のメモ帳の、ぼくらのページにはこう書いてあるのさ。『働いたら負け』ってね。他に理由はない」
「……神様のメモ帳?」
「すてきなくらい無責任な言葉だろう?」
膝を立ててそこに両腕と顎をのせ、アリスは微笑む。
「ニートというのはね。なにかが『できない』人間や、なにかを『しようとしない』人間のことじゃないんだ」
空の丼を載せたトレイを手に僕がNEET探偵事務所を出たときには、もう空はすっかり真っ暗だった。地上のけばけばしい光に潰されて、星はまったく見えない。階下のラーメン屋周辺はなんだかにぎやかになっていた。笑い声や怒鳴り声が聞こえる。
非常階段で下までおりると、あのニート専用席の僕が座っていたドラム缶に、四代目が腰を据えていた。テツ先輩と少佐とヒロさんとで、真ん中の木製の台を囲んでなにかやっている。甲高く澄んだ鈴のような音が聞こえた。
「壮さん! 五分だけって言ったでしょう!」
後ろに立っているボディガード岩男が四代目の耳元で怒鳴った。
「うるせえ負けっぱなしで帰れるか! さっさと振れよテツ!」
「お、四五六」
「っざっけんな!」
丼の上を千円札が飛び交う。チンチロリンだった。四人とも知り合いだったんか。
「藤島くん、ミンさんが新しいフレーバー作ったんだけど試食する?」
コーンアイスを手に彩夏が駆け寄ってくる。僕は薔薇の香りのするそれをなめながら、サイコロが丼を鳴らす音を聞いた。四代目は顔を真っ赤にして奇声を発しながら、まるで忍者の手裏剣みたいに札をばらまいていた。その光景を見て、僕は、不覚にも──楽しそうだな、と思ってしまった。
帰り道。街灯が照らす暗い歩道、僕の二歩前を歩きながら彩夏が肩越しに言う。
「ごめんね、藤島くんの歓迎会だったのに。なんか今日は珍しく忙しくて」
そういえば、彩夏と全然喋っていなかった。客も多かったし。僕まで出前させられたし。
「ああ、アリスにも逢ったんだってね?」
「うん。……変なやつだった」そうとしか言いようがない。
「でも今日はすごかったね。あの店の裏、面白い人が色々集まるんだけど、今日はほとんど全員来てたよ。藤島くんはラッキーだね」
「ラッキーかなあ」
たしかに、今日一日で僕のキャパシティが軽く吹っ飛ぶほどの人数と顔を合わせたけど、全員憶えていた。テツ先輩、ミンさん、少佐、ヒロさん、アリス、それから四代目。
「お兄ちゃんも来ればよかったのにな」
お兄ちゃん?
「あたしのお兄ちゃんも今、中退でニートしてて。前はあの店でテツ先輩たちとよくつるんでたの。でも、最近は家にも帰ってこないし、店にも来ないし、携帯もつながらないんだよね」
「ひょっとしてあそこに集まる人はみんな無職なのかな……」
空恐ろしい想像だった。僕もいつか中退して、ああなってしまうのか。
「学校やめたいとか思ったこと、あるの?」と彩夏が振り向く。
「毎日思ってる」
街灯の逆光の中で、彩夏の顔が翳る。
「……今も?」
僕は言葉に詰まった。即答できないということ自体がおかしかった。
彩夏は切実そうな目でじっと見つめてくる。
僕は目をそらして、「今は。そうでもない、かな」と噓をつく。
「そう」
柔らかい微笑み。
「でも、ここはたぶん噓つかなくてもいい場面だと思うよ」
僕は啞然として足を止めた。彩夏も立ち止まる。ちょうど二本の街灯の中間で、僕らの影がアスファルトの上で淡く交差する。
「……なんで?」
それだけ口にできた。なんで。なんで噓だとわかったんだろう。
「だって、あそこはあたしの場所だったから」と彩夏は言った。「あたしも他に部員がいないからって園芸部に入ったんだよ。それで、屋上でずっと、学校やめてなにしようか考えてた。だからあたしの方が半年くらい先輩だよね」
なんで笑いながらそんなことを言えるんだろう、と僕は思う。だって僕とちがって彼女は、クラスでもちゃんと自然に、呼吸するみたいに喋っているように見える。
そんなことを言ったら彼女は、さっきよりずっと透き通ったガラスみたいな笑みを浮かべる。
「簡単だよ。藤島くんにもできるよ。怒ったら普通に怒鳴って、嬉しかったら普通に笑って、ほしいものがあったら普通に言えばいいだけだよ」
僕はしばらくうつむいて、その言葉の意味をじっと考えてみた。わからなかった。なんかものすごく大きなお世話なことを言われている気がした。それがなにからなにまでぴったり僕に当てはまっているとしても。
橋を渡ったところで僕らは別れた。
バス停に向かって駆けていく彩夏の後ろ姿を見送りながら、普通に怒鳴ったり笑ったりする彼女のことを考えた。それって無理してるってことじゃないのか。そんなことを僕にもやれというのだろうか。無理してクラスメイトと話を合わせて、無理して笑って。
ほっといてほしかった。僕にはどうせできない。