神様のメモ帳

1 ⑦

 四代目は廊下に出てくると、冷蔵庫の陰から僕を引っぱり出した。左かたをつかまれ、親指がすさまじい力で肉に食い込んでくる。


「あ、い、……」

「おまえの顔はおぼえたし住所もすぐに調べはつく。いいか、おまえはなにも聞かなかった。わかったな?」


 すぐ目の前におおかみの目。僕はがくがくとうなずいた。


「返事しろ」

「わ、かり……ました」


 僕をゆかに投げ捨てると、四代目は部屋を出ていった。



「大丈夫かい?」


 僕がぐったりして台所のすみで丸くなっていると、アリスがやってきて言った。こいつ自分の足で歩けたのか。ベッドの外に出ると死んでしまう病気なのかと思ってた。


「なんかもう疲れた」


 僕ののどからそんな言葉が出てきた。その日一日の、いつわらざる感想だった。


「こうでもしないと、ぼくがただのネット依存症のひきこもりだと思われたままなんじゃないかといだいてね。悪く思わないでくれたまえ」

「いや、それはもう十分わかったよ」


 あやのおかげで、僕の人生はとんでもない領域に足を踏み入れようとしていた。薬物売買とかたんていとかハッカーとかは、僕の知らない遠くの世界でよろしくやっていてほしかった。


「それだけのために、助手だとか口が堅いだとか、でまかせばっかり……」

「でまかせではないよ。きみは確かに口が堅い。それは知ってる」


 僕はアリスを見上げた。笑ってる。今日ったばかりなのに、なにを言ってるんだろう。


「ねえ、ナルミ。ぼくと初対面の人間は、だれもが例外なくこうくんだ。『ほんとにニートなの? どうしてニートになったの?』訊かなかったのはきみがはじめてだ」


 アリスはしゃがみ込んで、うずくまった僕と目の高さを合わせる。


「あるいはきみのそれは無神経とか無関心とかいうものかもしれないけれど、ぼくは──ぼくらニートは、それをうれしく思う。あわれむくらいなら、ほっといてほしいんだ。どうしてニートになったのかなんて、訊くまでもない。そんなの、理由は一つしかない。神様のメモ帳の、ぼくらのページにはこう書いてあるのさ。『働いたら負け』ってね。ほかに理由はない」

「……神様のメモ帳?」

「すてきなくらい無責任な言葉だろう?」


 ひざを立ててそこに両うであごをのせ、アリスは微笑ほほえむ。


「ニートというのはね。なにかが『できない』人間や、なにかを『しようとしない』人間のことじゃないんだ」


    


 からどんぶりせたトレイを手に僕がNEETたんてい事務所を出たときには、もう空はすっかり真っ暗だった。地上のけばけばしい光につぶされて、星はまったく見えない。階下のラーメン屋周辺はなんだかにぎやかになっていた。笑い声や怒鳴り声が聞こえる。

 非常階段で下までおりると、あのニート専用席の僕が座っていたドラムかんに、四代目がこしえていた。テツせんぱいしようとヒロさんとで、真ん中の木製の台を囲んでなにかやっている。かんだかく澄んだ鈴のような音が聞こえた。


そうさん! 五分だけって言ったでしょう!」


 後ろに立っているボディガードいわが四代目の耳元で怒鳴った。


「うるせえ負けっぱなしで帰れるか! さっさと振れよテツ!」

「お、

「っざっけんな!」


 丼の上を千円札が飛び交う。チンチロリンだった。四人とも知り合いだったんか。


ふじしまくん、ミンさんが新しいフレーバー作ったんだけど試食する?」


 コーンアイスを手にあやけ寄ってくる。僕はの香りのするそれをなめながら、サイコロが丼を鳴らす音を聞いた。四代目は顔をにして奇声を発しながら、まるでにんじやしゆけんみたいに札をばらまいていた。その光景を見て、僕は、不覚にも──楽しそうだな、と思ってしまった。


    


 帰り道。街灯が照らす暗い歩道、僕の二歩前を歩きながら彩夏がかたしに言う。


「ごめんね、藤島くんの歓迎会だったのに。なんか今日は珍しく忙しくて」


 そういえば、彩夏と全然しやべっていなかった。客も多かったし。僕まで出前させられたし。


「ああ、アリスにもったんだってね?」

「うん。……変なやつだった」そうとしか言いようがない。


「でも今日はすごかったね。あの店の裏、面白い人が色々集まるんだけど、今日はほとんど全員来てたよ。藤島くんはラッキーだね」

「ラッキーかなあ」


 たしかに、今日一日で僕のキャパシティが軽く吹っ飛ぶほどの人数と顔を合わせたけど、全員おぼえていた。テツ先輩、ミンさん、少佐、ヒロさん、アリス、それから四代目。


「おにいちゃんも来ればよかったのにな」


 お兄ちゃん?


「あたしのお兄ちゃんも今、中退でニートしてて。前はあの店でテツせんぱいたちとよくつるんでたの。でも、最近は家にも帰ってこないし、店にも来ないし、携帯もつながらないんだよね」

「ひょっとしてあそこに集まる人はみんな無職なのかな……」


 空恐ろしい想像だった。僕もいつか中退して、ああなってしまうのか。


「学校やめたいとか思ったこと、あるの?」とあやが振り向く。


「毎日思ってる」


 街灯の逆光の中で、彩夏の顔がかげる。


「……今も?」


 僕は言葉に詰まった。即答できないということ自体がおかしかった。

 彩夏は切実そうな目でじっと見つめてくる。

 僕は目をそらして、「今は。そうでもない、かな」とうそをつく。


「そう」


 やわらかい微笑ほほえみ。


「でも、ここはたぶん噓つかなくてもいい場面だと思うよ」


 僕はぜんとして足を止めた。彩夏も立ち止まる。ちょうど二本の街灯の中間で、僕らの影がアスファルトの上で淡く交差する。


「……なんで?」


 それだけ口にできた。なんで。なんで噓だとわかったんだろう。


「だって、あそこはあたしの場所だったから」と彩夏は言った。「あたしもほかに部員がいないからって園芸部に入ったんだよ。それで、屋上でずっと、学校やめてなにしようか考えてた。だからあたしの方が半年くらい先輩だよね」


 なんで笑いながらそんなことを言えるんだろう、と僕は思う。だって僕とちがって彼女は、クラスでもちゃんと自然に、呼吸するみたいにしやべっているように見える。

 そんなことを言ったら彼女は、さっきよりずっとき通ったガラスみたいな笑みを浮かべる。


「簡単だよ。ふじしまくんにもできるよ。怒ったら普通に怒鳴って、うれしかったら普通に笑って、ほしいものがあったら普通に言えばいいだけだよ」


 僕はしばらくうつむいて、その言葉の意味をじっと考えてみた。わからなかった。なんかものすごく大きなお世話なことを言われている気がした。それがなにからなにまでぴったり僕に当てはまっているとしても。

 橋を渡ったところで僕らは別れた。

 バス停に向かってけていく彩夏の後ろ姿を見送りながら、普通に怒鳴ったり笑ったりする彼女のことを考えた。それって無理してるってことじゃないのか。そんなことを僕にもやれというのだろうか。無理してクラスメイトと話を合わせて、無理して笑って。

 ほっといてほしかった。僕にはどうせできない。




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