「ドクターペッパーを持ってきてくれたまえ、三本だ!」
「食べる前に飲むの?」
「食べながら飲むんだ! 人参や肉なんかそのまま食べられるわけないだろう!」
深紅の缶を片手に半泣きになってタンメンをすするアリスは、なかなか見物だった。
「こっち見るなばか!」
早くも飲み終わった一本目の空き缶を投げつけられたので、僕は笑いをこらえながらアリスに背を向ける。しかし、とんでもない偏食もいたものだ。ほんとに地球人なんだろうか。
「給食の時間とか、どうしてたの? 怒られたりしなかった?」
ふと、思いついて訊いてみる。
しばらくの間をおいて、答えが返ってきた。
「学校には行っていない」
「え」
「生まれてこの方、教育機関に通った経験はないんだ。給食というシステムくらいは知っているけど」
まともな人生を送ってきたやつとは思っていなかったけど、小学校も行ってないのか。
「テツに言わせれば最終学歴小卒未満というのはニートとしては最上級らしいがね。ふん。そんな序列には興味がない」
でもなんとなく、こいつなら、ちゃんと小中高と学校に通うなんて普通の人生は馬鹿にするんだろうな、と思う。
「そんなことはない。ぼくは普通を侮蔑したりはしないよ」
僕はびっくりして振り向く。どうやらまた、考えてることが言葉で漏れていたらしい。
「できれば小学校にも中学校にも通いたかったと正直に思っているのだよ。ぼくが憎むのは愚昧だけだ、普通であることは愚昧であることと関連がない。通学は純粋にぼくが為し得なかったことであり、ぼくの欠落でもある。同世代の人間が義務教育を受けている間、ぼくはなにをしていたと思う?」
アリスはそこで言葉を切って、麵を一本だけすすり込んで苦い顔をしてドクターペッパーで流し込んだ。どうやら、僕への質問らしかった。
「花嫁修業?」
アリスは口の中の物を噴き出しかけた。
「……きみは奇妙なユーモアのセンスがあるな。さぞかし周囲の人間からは疎まれているだろうね。深く同情するよ」
同情されてしまった。その通りだけど。
「で、正解は?」
「うん? ああ、正解はね。見ての通りだ。ネットのそこらじゅうに窓を開いて、世界を見回っていたのさ。きわめて限定された、歪んだ世界をね」
アリスは背後の壁を埋め尽くす黒い機器の群れを仰ぐ。
「……毎日ずっと?」
「きみが考えているよりもはるかに厳密な意味で、毎日ずっと、だ。そうしてぼくは情報だけを体内に貯め込み、己の無力さだけをドクターペッパーで胃の中に流し込んで生きてきた。ぼくがこの世界に存在する意味を、ずっと探し続けてきたんだ。ねえ、知っているかい? 今現在、この地球上では三・六秒に一人の割合で、子供が貧困のために死んでいる。実はそれはぼくのせいなんだ」
「……は?」
思わず変な声が出る。なに言ってんのこいつ?
「純粋な可能性の問題だよ。いいかい、もしぼくに充分な資産があり、食糧生産ラインがあり流通経路があれば、ぼくは餓死する子供を救えたはずなんだ。貧困問題を憂えているわけではないよ、ぼくは聖人じゃない、繰り返すが純粋な可能性の問題だ。ぼくにその能力があれば、死んでいく子供を救うことができた。であれば、彼らが死んでしまったのはぼくの能力が足りなかったせいだ。同様に、テロリストが旅客機をハイジャックしてビルに突っ込んだのは、ぼくにそれを止める能力がなかったせいだ。震災や津波で甚大な被害が出たのも、ぼくにそれを予知する能力がなかったせいだ」
純粋な、可能性の問題。
いや、でもそれ、その理屈ならなんでもアリスのせいになるんじゃないの?
「ぼくはそういう風にして、時間をかけて自分の無力さを確かめた。具体的に言えば八年くらいかな。これほど無力なぼくが世界に対してなにを為せるのかを、知りたかった。たとえば無力に死んでいく人たちをどうにかできるのか。あるいはなにもできないのか」
八年。馬鹿だ。
「限界を感じたので家も出た。この新しい砦に閉じこもって、ひたすら世界に向けて窓を開け続けた。ふふ、実家からは今も追われている身だよ。おかげで現実世界の方にも窓を開けなきゃいけない羽目になった」
アリスは自嘲気味に微笑むと、ベッドの右手の床近くに並んだ無数の立方体小型モニタを見る。画像が小さすぎて最初はよくわからなかったけれど、『ラーメンはなまる』ののれんが映し出されているのに気づき、悟る。このビルの周囲の光景だ。合計六つのカメラによるリアルタイム映像。隣のビルの間や、裏側も網羅している。
「追われて……る?」
「実家もばかではないから、居場所はとっくに割れているだろうがね。まあ、非文明的手段を未然に防ぐための保険だよ。こうして家から逃げ、無力さから逃げ、ぼくの無能さゆえに失われ続ける世界から逃げ……それでも答えは見つからなかった。だから」
僕は呆然としてアリスの顔を見る。
真剣なんだ、こいつ。今までの、全部冗談の類だと思っていたけど。
「だから、ぼくは探偵になることを選んだ」
「……ごめん、話が飛びすぎてついていけない」
「わからないかい? すでに死んでしまったもの、失われてしまったものに対してなにか意味のある仕事が為せる職業は、この世の中でたった二つしかないんだ。つまり作家と探偵だ。作家だけがそれを夢の中でよみがえらせることができる。探偵だけがそれを墓の中から掘り返して情報に還元することができる。それは宗教家にも政治家にも葬儀屋にも消防士にもできないことなんだ」
僕はもうなにも言えなかった。アリスは箸で丼の中身をゆっくりとかき混ぜながら、寂しそうな目を伏せる。
「でもね、ときおり不安になる。探偵はつまるところ、すでに失われたものに対してしか働きかけられないのではないか、と。起きていない事件は解決できない。まだできていない墓は暴けない。これから深く傷つくはずの人がいても、ぼくはけっきょくそれに対して無力なままなんじゃないか、とね」
それきりアリスは黙って、丼に集中した。僕はなんとなく、いたたまれなくなって、また背を向けた。キャベツを嚙む音がもの悲しく響いていた。
長い長い時間をかけてアリスは丼を空にした。僕は黙って、隠し持っていたヴァニラアイスを差し出す。でも、アリスはそれをテーブルに置いたまま手をつけようとせず、僕の顔をじっと見上げていた。
「ええと……なに?」
「いや。なぜこんなに喋ってしまったのか不思議に思っていたところだよ」
僕も不思議だった。アリスがこれほど自分のことを喋るとは思ってもみなかった。少しだけこのパジャマ娘の行く末が心配になった。僕に他人を心配する資格なんて一ミリもないのだけれど。
「なにか思うところあれば率直に言ってくれてかまわないよ」
「んん」少し迷ったけど、正直に言うことにした。気を遣った噓がどれほど人を傷つけるかは、よく知っていたから。「抽象的すぎてなに言ってんのかよくわからなかったよ」
二本目の缶を投げつけられるかと思ったけど、かわりにアリスは声を立てて笑い出した。長い黒髪をシーツの上に乱してひとしきり笑うと、目尻の涙をこすりながら言う。
「きみはほんとに面白いやつだな。彩夏から話だけ聞いたときは、手の施しようのないろくでなしみたいに思ったものだけれど、どうやらそうじゃないらしい」
「彩夏……なんて言ってたの?」