さよならピアノソナタ

1 世界の果ての百貨店 ②

 立ち上がろうとすると、すぐ上に彼女の顔があって、サファイア色の深いひとみがぼくの顔をのぞき込んでいて、ぼくはどきりとして硬直する。すぐそこにある椿つばきの花びらみたいな唇が動くのをじっと見つめてしまう。


けてきたんじゃないなら、なんでこんなとこにいるの」

「え、あ、いや、だから……」


 彼女はまゆかしげた。ほうが少しだけ弱まり、ぼくはしりもちをついたままあわてて後ずさった。


「だから、オーディオのパーツ拾いに来ただけだってば。たまに来てるんだよ。尾けてきたってなんだよ」

「……ほんとに?」


 こんなことでうそをついてもしかたない。というか尾行される心当たりがあるんだろうか。


「とにかくどこか行って今すぐ。それからわたしがここにいたこと、絶対だれにも言わないで。今いた曲はおくから消して」

無茶むちや言わないでよ……」

「ぜっ、たい、だから!」


 涙目。今にも空じゅうの星がこぼれ落ちてきそうな。ぼくはなにも言い返せなくなる。


「わかったよ。消えるよ」


 リュックサックを肩にかけ直して、ジャンクの山を登り始めたとき、後ろでいきなりガリガリガリという奇妙なかいおんが聞こえ、彼女が「あっ、やっ」と叫んだ。

 振り向いてようやく気づいた。ピアノの上に、手のひら大の小さなテープレコーダーが乗っていて、怪音の発生源はそれだった。ずっとろくおんしていたんだろうか。内部のどこかにテープがひっかかったまま回っているんだろう。レコーダーを手にあたふたする彼女を見ていられなくなり、ぼくはさっと歩み寄ると電源を切ってやった。


「……こ……こわれ、ちゃった?」


 かえりかけの卵でも持つように両手でレコーダーを包み込んだ彼女は、涙目でつぶやく。


「あ、だめだよ無理に開けようとしちゃ」


 ふたに手をかけた彼女を、あわてて止めた。ピアノの上にかばんを置くと、ドライバー一式を取り出す。彼女の目が丸くなった。


「……分解、するの?」

「大丈夫だよ。ちゃんと元に戻すから」


 彼女からレコーダーを受け取ったぼくは、まずそれが普通のテレコではないことに気づく。2トラックのマルチレコーダーだった。カセットテープのA面とB面を同時に再生したり個別にろくおんしたりできるのである。次に、めんられたラベルの文面が見たこともない言葉だった。あきらかに英語じゃない。


「これ、どこの言葉?」

「ハンガリー」彼女はぼそりと答える。東欧製品かあ。直せるかな。

 しかし、ねじをはずして中を開いてしまえば、出てくるのはれた部品ばかりだ。統一工業規格ってらしい。


「直せる、の?」

「たぶん」


 ぼくはピアノのうわぶたを下ろして作業台がわりにすると、テレコをどんどん分解していった。予想通り、カセットからテープがナマコのないぞうみたいにでろでろと引き出されて中にからまっていたので、外すのに一苦労。


「……ねえ、これひょっとして最初からこわれてなかった?」

「え? ……ああ、うん……テープ最後まで回っても自動で止まらないの。だから、ボタン押して止めないとよくこんがらかる」


 それでか。テープストッパーがだめになっていた。


「あ、あなたが急に来たからっ、止めるの忘れて」


 ぼくのせいかよ。ていうか、買い換えればいいのに。


「大事なものなの?」こんなにぼろぼろになっても使ってるってことは。


「え?」彼女ははっとぼくの顔を見て、それからうつむく。「……うん」


 ハンガリーか。ひょっとしてこの、日本人じゃないのかな。顔立ちがハーフっぽいし。そんなことを考えながらもぼくは、足りない交換部品をジャンクの山からあさり、テレコの外科手術を終えた。巻き戻し、早回し。ちゃんと止まるようになった。


「直ったよ」

「え……あ、うん」


 彼女はまだちょっと信じられないといった顔をしている。でも、ちゃんと再生もできるかどうかたしかめようとしてぼくが再生ボタンを押そうとすると、テレコを引ったくった。


「き、いちゃだめ」


 彼女は音量を最小まで落とすと、テープを再生して、直ったことを確かめた。


「……あ、りがと」


 テレコを胸に押しつけるように抱いて、顔を赤らめ、うつむいて、彼女はつぶやく。ぼくもなんだかずかしくなって、顔をそむけてうなずいた。

 工具をかばんにしまっていると、彼女が「どうしてこんなにいろいろ持ち歩いてるの」といてきた。


「だから、かいいじるのが好きなの。部品拾いに来たってさっき言ったじゃんか」

「楽しいの? それ」


 あらためてかれると、ちょっと言葉に詰まる。


「んー……。こわれちゃったのを直すのは、けっこう楽しいよ? なんでか知らないけど、いっぺんくしたものが戻ってきたときの方が、みんなうれしそうな顔するんだよね」


 ぼくとせんが合うと、彼女はまたかあっとせきめんし、ふいとそっぽを向いてしまう。ぼくはその横顔をちらと見ながら、いろいろ訊いてやりたいというしようどうと戦っていた。なんでこんな場所にいるのか。ていうかおまえだれ? さっきのピアノ曲はなに? それに、ろくおんされていたのもいてみたかった。ひょっとしてあのオーケストラはげんちようじゃなかったりして。

 でも、訊いたらまた怒られるんだろうな。

 彼女はまたレコーダーをピアノの上に置くと、がわりにしていた食器棚に腰を下ろしてあしもとせんを落とした。もう少し話してみたかったけど、だまり込んでしまったので糸口が見つからない。どうもじやしたみたいだし、しかたない、今日きようは帰ろう。

 またここに来たらえたりしないだろうか。家にピアノがないからわざわざこんなとこまできに来てるのかな。そんなことを考えながらゴミの山を登り始めたぼくの背中に、声がかけられた。


「──あのっ」


 首だけ後ろに向ける。

 ピアノのとなりに立った彼女は、今度は怒っているというよりもずかしがっているというふうな顔の赤らめ方をしていた。


「このへんの人?」


 ぼくは首をかしげる。


「……ううん。電車で四時間くらい」

「駅まで、行くの?」


 うなずくと、彼女の顔にいつしゆんだけあんの色がぱっと広がる。それから彼女はレコーダーを腰にぶらさげると、ぼくの後に続いてだいゴミの斜面を登り始めた。


「帰るの? なら、ぼくはここにいても」

「だめ! いいから行って、早く!」


 なんだよそれ……。

 しやくぜんとしないままぼくは、かさなったジャンクででこぼこになったこうばいを上り下りして、谷の口の雑木林に戻った。彼女は、脚が痛いとか転びそうになったとかいちいち文句をれながら、なぜかついてくる。


「あのさ」


 ぼくが振り向いて声をかけると、彼女は三メートルくらい後方でびくっと立ち止まった。


「な、なに?」

「ひょっとして帰り道がわからない?」


 日本人ばなれした白い肌が、はっきりとまたこうちようした。ぶんぶん首を振る彼女だったが、ぼしなのがばればれだった。ぼくはため息をつく。


「まあ、ぼくもここにはじめて来たときは迷子まいごだったけど」


 海岸から駅を目指して道を一本間違うと、ここにいつのまにか迷い込んでしまうのだ。


「はじめてじゃない。もう三回くらい来てる」

「三回来てんのに帰り道おぼえてないのかよ……」

「だからちがうってば!」

「じゃあひとりで帰ったら」

「うー……」


 みつきそうな目でにらんでくるので、ぼくはからかうのをやめてだまって林の中を歩き出した。ちゆうで、おそらくゴミを捨てに来たのだろう、あかむらさきいろのトラックとすれちがった。車が通りすぎてしまい、木々の間の静寂が深まると、またこずえのこすれ合う音が聞こえてくる。ぼくは、たしかにいたピアノ協奏曲の分厚いアンサンブルを思い出す。

 あれは、たしかに呼吸するのも忘れるほどのたいけんだった。あの特別な場所で、この女の子がいていなければ起きなかったせきだろう。ぼくは歩きながらちらと肩越しに彼女のようをうかがう。

 それにしても、彼女の顔をいったいどこで見たんだっけ。ひょっとしてぼくが憶えていないだけで知り合いだったりして。だからこんなに平気な顔でわがまま言ってくるとか。

 そんなわけはないか。

 だって、こんな印象的なが知り合いだったら──忘れるはずがない。




刊行シリーズ

さよならピアノソナタ encore piecesの書影
さよならピアノソナタ4の書影
さよならピアノソナタ3の書影
さよならピアノソナタ2の書影
さよならピアノソナタの書影