立ち上がろうとすると、すぐ上に彼女の顔があって、サファイア色の深い瞳がぼくの顔をのぞき込んでいて、ぼくはどきりとして硬直する。すぐそこにある椿の花びらみたいな唇が動くのをじっと見つめてしまう。
「尾けてきたんじゃないなら、なんでこんなとこにいるの」
「え、あ、いや、だから……」
彼女は眉を傾げた。魔法が少しだけ弱まり、ぼくは尻餅をついたままあわてて後ずさった。
「だから、オーディオのパーツ拾いに来ただけだってば。たまに来てるんだよ。尾けてきたってなんだよ」
「……ほんとに?」
こんなことで嘘をついてもしかたない。というか尾行される心当たりがあるんだろうか。
「とにかくどこか行って今すぐ。それからわたしがここにいたこと、絶対だれにも言わないで。今聴いた曲は記憶から消して」
「無茶言わないでよ……」
「ぜっ、たい、だから!」
涙目。今にも空じゅうの星がこぼれ落ちてきそうな。ぼくはなにも言い返せなくなる。
「わかったよ。消えるよ」
リュックサックを肩にかけ直して、ジャンクの山を登り始めたとき、後ろでいきなりガリガリガリという奇妙な機械音が聞こえ、彼女が「あっ、やっ」と叫んだ。
振り向いてようやく気づいた。ピアノの上に、手のひら大の小さなテープレコーダーが乗っていて、怪音の発生源はそれだった。ずっと録音していたんだろうか。内部のどこかにテープがひっかかったまま回っているんだろう。レコーダーを手にあたふたする彼女を見ていられなくなり、ぼくはさっと歩み寄ると電源を切ってやった。
「……こ……壊れ、ちゃった?」
孵りかけの卵でも持つように両手でレコーダーを包み込んだ彼女は、涙目でつぶやく。
「あ、だめだよ無理に開けようとしちゃ」
蓋に手をかけた彼女を、あわてて止めた。ピアノの上にかばんを置くと、ドライバー一式を取り出す。彼女の目が丸くなった。
「……分解、するの?」
「大丈夫だよ。ちゃんと元に戻すから」
彼女からレコーダーを受け取ったぼくは、まずそれが普通のテレコではないことに気づく。2トラックのマルチレコーダーだった。カセットテープのA面とB面を同時に再生したり個別に録音したりできるのである。次に、裏面に貼られたラベルの文面が見たこともない言葉だった。あきらかに英語じゃない。
「これ、どこの言葉?」
「ハンガリー」彼女はぼそりと答える。東欧製品かあ。直せるかな。
しかし、ねじを外して中を開いてしまえば、出てくるのは見慣れた部品ばかりだ。統一工業規格って素晴らしい。
「直せる、の?」
「たぶん」
ぼくはピアノの上蓋を下ろして作業台がわりにすると、テレコをどんどん分解していった。予想通り、カセットからテープがナマコの内臓みたいにでろでろと引き出されて中にからまっていたので、外すのに一苦労。
「……ねえ、これひょっとして最初から壊れてなかった?」
「え? ……ああ、うん……テープ最後まで回っても自動で止まらないの。だから、ボタン押して止めないとよくこんがらかる」
それでか。テープストッパーがだめになっていた。
「あ、あなたが急に来たからっ、止めるの忘れて」
ぼくのせいかよ。ていうか、買い換えればいいのに。
「大事なものなの?」こんなにぼろぼろになっても使ってるってことは。
「え?」彼女ははっとぼくの顔を見て、それからうつむく。「……うん」
ハンガリーか。ひょっとしてこの娘、日本人じゃないのかな。顔立ちがハーフっぽいし。そんなことを考えながらもぼくは、足りない交換部品をジャンクの山から漁り、テレコの外科手術を終えた。巻き戻し、早回し。ちゃんと止まるようになった。
「直ったよ」
「え……あ、うん」
彼女はまだちょっと信じられないといった顔をしている。でも、ちゃんと再生もできるかどうか確かめようとしてぼくが再生ボタンを押そうとすると、テレコを引ったくった。
「き、聴いちゃだめ」
彼女は音量を最小まで落とすと、テープを再生して、直ったことを確かめた。
「……あ、りがと」
テレコを胸に押しつけるように抱いて、顔を赤らめ、うつむいて、彼女はつぶやく。ぼくもなんだか恥ずかしくなって、顔をそむけてうなずいた。
工具をかばんにしまっていると、彼女が「どうしてこんなに色々持ち歩いてるの」と訊いてきた。
「だから、機械いじるのが好きなの。部品拾いに来たってさっき言ったじゃんか」
「楽しいの? それ」
あらためて訊かれると、ちょっと言葉に詰まる。
「んー……。壊れちゃったのを直すのは、けっこう楽しいよ? なんでか知らないけど、いっぺん失くしたものが戻ってきたときの方が、みんな嬉しそうな顔するんだよね」
ぼくと視線が合うと、彼女はまたかあっと赤面し、ふいとそっぽを向いてしまう。ぼくはその横顔をちらと見ながら、色々訊いてやりたいという衝動と戦っていた。なんでこんな場所にいるのか。ていうかおまえだれ? さっきのピアノ曲はなに? それに、録音されていたのも聴いてみたかった。ひょっとしてあのオーケストラは幻聴じゃなかったりして。
でも、訊いたらまた怒られるんだろうな。
彼女はまたレコーダーをピアノの上に置くと、椅子がわりにしていた食器棚に腰を下ろして足下に視線を落とした。もう少し話してみたかったけど、黙り込んでしまったので糸口が見つからない。どうも邪魔したみたいだし、しかたない、今日は帰ろう。
またここに来たら逢えたりしないだろうか。家にピアノがないからわざわざこんなとこまで弾きに来てるのかな。そんなことを考えながらゴミの山を登り始めたぼくの背中に、声がかけられた。
「──あのっ」
首だけ後ろに向ける。
ピアノの隣に立った彼女は、今度は怒っているというよりも恥ずかしがっているという風な顔の赤らめ方をしていた。
「このへんの人?」
ぼくは首を傾げる。
「……ううん。電車で四時間くらい」
「駅まで、行くの?」
うなずくと、彼女の顔に一瞬だけ安堵の色がぱっと広がる。それから彼女はレコーダーを腰にぶらさげると、ぼくの後に続いて粗大ゴミの斜面を登り始めた。
「帰るの? なら、ぼくはここにいても」
「だめ! いいから行って、早く!」
なんだよそれ……。
釈然としないままぼくは、積み重なったジャンクででこぼこになった勾配を上り下りして、谷の口の雑木林に戻った。彼女は、脚が痛いとか転びそうになったとかいちいち文句を垂れながら、なぜかついてくる。
「あのさ」
ぼくが振り向いて声をかけると、彼女は三メートルくらい後方でびくっと立ち止まった。
「な、なに?」
「ひょっとして帰り道がわからない?」
日本人離れした白い肌が、はっきりとまた紅潮した。ぶんぶん首を振る彼女だったが、図星なのがばればれだった。ぼくはため息をつく。
「まあ、ぼくもここにはじめて来たときは迷子だったけど」
海岸から駅を目指して道を一本間違うと、ここにいつのまにか迷い込んでしまうのだ。
「はじめてじゃない。もう三回くらい来てる」
「三回来てんのに帰り道憶えてないのかよ……」
「だからちがうってば!」
「じゃあひとりで帰ったら」
「うー……」
噛みつきそうな目でにらんでくるので、ぼくはからかうのをやめて黙って林の中を歩き出した。途中で、おそらくゴミを捨てに来たのだろう、赤紫色のトラックとすれちがった。車が通りすぎてしまい、木々の間の静寂が深まると、また梢のこすれ合う音が聞こえてくる。ぼくは、たしかに聴いたピアノ協奏曲の分厚いアンサンブルを思い出す。
あれは、たしかに呼吸するのも忘れるほどの体験だった。あの特別な場所で、この女の子が弾いていなければ起きなかった奇蹟だろう。ぼくは歩きながらちらと肩越しに彼女の様子をうかがう。
それにしても、彼女の顔をいったいどこで見たんだっけ。ひょっとしてぼくが憶えていないだけで知り合いだったりして。だからこんなに平気な顔でわがまま言ってくるとか。
そんなわけはないか。
だって、こんな印象的な娘が知り合いだったら──忘れるはずがない。