さよならピアノソナタ

1 世界の果ての百貨店 ③

 山と海にはさまれた坂ばかりの町を歩くこと三十分、ごちゃついた民家がいきなり開けて、バスロータリーが現れた。でんしよくのほとんど切れた商店街ゲートがあり、四階建てくらいのビルの屋上にはしようの時代からそのままとおぼしきグリコのかんばんがあり、左手に見える掘っ建て小屋みたいなものの屋根にはJRのロゴと駅名が書かれたプレートが掲げられている。のきさきで生ゴミをあさっているねこと、それからぼくら二人ふたりほかには動くものすらない。


「着いたよ」

「見ればわかる」


 彼女はそれだけ言ってすたすたと駅の入り口へ歩き出す。

 どうしよう、とぼくはその場に立ちつくして考える。けっきょく名前もけなかった。まあしょうがない、今日きようはじめてったんだし。忘れてくれって言ってたし。

 ぼくはぼくのゴミ漁りに戻ろう。

 彼女に背を向けて歩き出そうとしたとき、声が聞こえた。


「ちょっと、あんた」


 バスロータリーをはさんで反対側にある小さな交番から出てきた中年のおまわりさんだった。呼び止められたのはぼくじゃないとすぐに気づいた。彼女はびくっとこおりついて、おそるおそる振り返る。お巡りさんはけ寄ってきて言った。「あんた、えびさわさんて人じゃないの」

「……え、あ、あの」


 彼女が青ざめたのがわかった。


「ああうんやっぱりそうだ聞いてた服装とも合ってるし。ご家族がね、今さがしてますよ。前も家出してこのへんに来たんだってね? とりあえず来てくれる、連絡しますから」


 家出少女だったのか。しかもどうやら常習犯ぽい。かかわり合いになるのはやめよう、ときびすを返しかけたとき、お巡りさんの肩越しに、すがるように見つめてくる彼女のせんに気づいた。気づいてしまった。

 助けてくれなかったらたたって出てやる。そんな切実な、涙のたまったひとみ

 いや、立ち止まるなよ自分。

 でも、もう遅かった。あんな目を見てだまって立ち去れるほどぼくは人間ができていない。


「あのう」


 彼女を連れて交番に戻ろうとするお巡りさんの、汗のあとがくっきりみ出た背中に声をかける。振り向いたお巡りさんは、まるでたった今ぼくの存在に気づいたみたいな顔をした。


「人違いじゃないですか。だって、ぼくといつしよに遊びに来たんだから」

「へ」


 お巡りさんは、間違ってかたつむりをかじってしまったときみたいな変な顔になる。


「ほら、行こ、電車乗り遅れると次来るまですごい時間かかるし」

「あ、う、うん」


 ぼくはお巡りさんにしやくすると、逃げてきた彼女と一緒に駅の方に走り出した。なつとくしたのかどうかわからないし、ながは無用だ。

 切符を買って改札を抜けてから、そっとバスロータリーの方をうかがう。


「大丈夫かな……。追いかけてきたりしたら、話合わせてよ?」

「わ、わたしは」彼女は切符を固く握りしめて、ぼくの顔から目をそらして言う。「べつに助けてほしいなんて言ってない」

「じゃあお巡りさん呼んでくる。うそつくのはよくないよねやっぱり」


 彼女は顔をにして声をつぶし、ぱたぱたとぼくの背中を何度も殴った。


「今度から家出するときは親が予想もできないようなとこに行けよ」

「そんなの、あなたの知ったことじゃない」


 余計なお世話みたいだった。ひょっとしてぼく、嫌われたんだろうか。助けたのに。

 彼女はむすっとした顔でぼくをひとにらみすると、下りしやせんのプラットフォームに続く階段に向かった。ぼくとは逆方向。安心するような、少し残念なような。

 でも、そのとき下り電車の到着をげる案内メロディが駅構内に流れた。みみれた曲。それはモーツァルトの『きらきら星変奏曲』だった。


「あ……」


 なにかがぱちんとつながる感触。思い出した。彼女がだれなのか、思い出した。

 そうだ、さっきえびさわって言ってたじゃないか。


「蛯沢、……ふゆ?」


 階段の二段目で彼女はびくっと立ち止まり、振り向いた。白い肌にさすしゆ。夕立寸前のくもぞらみたいなひとみ

 おぼえがあるのは当然だった。CDのジャケットで見たことがあったのだ。それからテレビでも。東欧の国際ピアノコンクールにおいて史上最年少の十二歳でゆうしようし、はなばなしくデビューした天才少女ピアニスト、蛯沢真冬。二年半の間に数多くのレコードをリリースしながらも、十五歳でがくだんから突然姿を消したなぞの存在。

 それが今、ぼくの目の前にいる。泣き出しそうな顔をして、階段の手すりを握りしめて。


「……知ってる、の……?」


 踏切の音にまぎれてかき消されてしまいそうな、とぎれとぎれの、彼女の声。ぼくはぼんやりとうなずく。ぼくは彼女を知っていた。ろくおんした曲目さえすべて思い出せた。


「知ってるよ。だって、CDも全部持ってるし、それに」

「忘れて」

「え」

「全部、忘れて」


 ぼくがなにか言い返そうとしたとき、彼女は長いくりをひるがえして階段をけ上った。踏切の閉まるカンカンカンカンという音が聞こえてくる。ぼくはしばらく、ほうけたようにその場に立ちつくしていた。


「──ねえ!」


 横から声がぶつけられる。振り向くと、反対側のプラットフォームに白いひとかげ。ぼくと視線が合うと、彼女は──蛯沢真冬は、振りかぶった腕を思いっきり振り下ろした。

 投げつけられた赤いものは線路を飛び越して、キャッチしようとしたぼくの手首にぶつかり、あしもとに落ちる。コカコーラの缶だった。

 ぼくらの間に、電車がすべり込んでくる。

 彼女をみ込んでドアが閉まり、走り去ってしまうと、ぼくはほかにだれもいないプラットフォームでまたひとりきりになった。アスファルトの上を転がる缶を、線路に落っこちる寸前で捕まえて拾い上げた。冷たい。たぶんあっちの自動はんばいで買ったやつだろう。ひょっとしてこれが礼のつもりなんだろうか。

 えびさわふゆ

 ぼくは彼女のCDをすべていていた。もちろん自分で買ったのではなく、ひようろんである父のところに送りつけられたものだ。けれど、月に何百枚とけんていされて増殖を続ける父のぞうばんの中でも、曲順までおぼえてしまうほど何度もり返して聴いたものはほかにはなかった。しつにすら聞こえるるぎないリズムの中に、ふとまぎれ込んだ温かい脈動を探すのが好きだった。

 それから、あのゴミ捨て場で聴いた曲を思い出す。あの曲はろくおんしていなかったはず。CDで出ていたら、憶えているから。

 なにがあったのだろう。

 あんな、痛ましいピアノをくピアニストじゃなかったはずなのに。

 そこで、彼女の最後の言葉も耳によみがえる。『全部、忘れて』。

 コーラの缶を握りしめたまま、ベンチに腰を下ろした。上り電車がやってくるまでの間、耳の中で、あの奇妙なピアノ協奏曲と彼女の声とが入り交じって何度も何度も回っていた。



 これが、高校に入る前の春休みにたいけんした、な出来事。

 家に帰ってから、蛯沢真冬のアルバムに収録された『きらきら星変奏曲』をオートリピートで際限なく聴きながら思い返してみると、なんだかすべて夢だったんじゃないかという気がしてきた。だって廃品がピアノに共鳴してオーケストラの音を出すとかあり得ないし。

 ゆいいつあれが現実だったというしようである、彼女にもらった(?)コーラは、プルタブを引いたしゆんかんばくはつしたように中身がほとんど全部こぼれてしまった。たんさん飲料を投げたりしてはいけません。れたゆかぞうきんくと、かすかに残っていた現実味も消えてしまう。

 忘れろなんて言われなくても忘れるよ、と思った。だってぼくらのリアルは忙しくて、二日前の夢すら憶えていない。

 そのときのぼくはもちろん、あんな形で真冬と再会するなんて思ってもいなかったのだ。



刊行シリーズ

さよならピアノソナタ encore piecesの書影
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