山と海に挟まれた坂ばかりの町を歩くこと三十分、ごちゃついた民家がいきなり開けて、バスロータリーが現れた。電飾のほとんど切れた商店街ゲートがあり、四階建てくらいのビルの屋上には昭和の時代からそのままと思しきグリコの看板があり、左手に見える掘っ建て小屋みたいなものの屋根にはJRのロゴと駅名が書かれたプレートが掲げられている。蕎麦屋の軒先で生ゴミを漁っている野良猫と、それからぼくら二人の他には動くものすらない。
「着いたよ」
「見ればわかる」
彼女はそれだけ言ってすたすたと駅の入り口へ歩き出す。
どうしよう、とぼくはその場に立ちつくして考える。けっきょく名前も訊けなかった。まあしょうがない、今日はじめて逢ったんだし。忘れてくれって言ってたし。
ぼくはぼくのゴミ漁りに戻ろう。
彼女に背を向けて歩き出そうとしたとき、声が聞こえた。
「ちょっと、あんた」
バスロータリーを挟んで反対側にある小さな交番から出てきた中年のお巡りさんだった。呼び止められたのはぼくじゃないとすぐに気づいた。彼女はびくっと凍りついて、おそるおそる振り返る。お巡りさんは駆け寄ってきて言った。「あんた、蛯沢さんて人じゃないの」
「……え、あ、あの」
彼女が青ざめたのがわかった。
「ああうんやっぱりそうだ聞いてた服装とも合ってるし。ご家族がね、今捜してますよ。前も家出してこのへんに来たんだってね? とりあえず来てくれる、連絡しますから」
家出少女だったのか。しかもどうやら常習犯ぽい。関わり合いになるのはやめよう、と踵を返しかけたとき、お巡りさんの肩越しに、すがるように見つめてくる彼女の視線に気づいた。気づいてしまった。
助けてくれなかったら祟って出てやる。そんな切実な、涙のたまった瞳。
いや、立ち止まるなよ自分。
でも、もう遅かった。あんな目を見て黙って立ち去れるほどぼくは人間ができていない。
「あのう」
彼女を連れて交番に戻ろうとするお巡りさんの、汗のあとがくっきり染み出た背中に声をかける。振り向いたお巡りさんは、まるでたった今ぼくの存在に気づいたみたいな顔をした。
「人違いじゃないですか。だって、ぼくと一緒に遊びに来たんだから」
「へ」
お巡りさんは、間違ってかたつむりをかじってしまったときみたいな変な顔になる。
「ほら、行こ、電車乗り遅れると次来るまですごい時間かかるし」
「あ、う、うん」
ぼくはお巡りさんに会釈すると、逃げてきた彼女と一緒に駅の方に走り出した。納得したのかどうかわからないし、長居は無用だ。
切符を買って改札を抜けてから、そっとバスロータリーの方をうかがう。
「大丈夫かな……。追いかけてきたりしたら、話合わせてよ?」
「わ、わたしは」彼女は切符を固く握りしめて、ぼくの顔から目をそらして言う。「べつに助けてほしいなんて言ってない」
「じゃあお巡りさん呼んでくる。嘘つくのはよくないよねやっぱり」
彼女は顔を真っ赤にして声を噛み潰し、ぱたぱたとぼくの背中を何度も殴った。
「今度から家出するときは親が予想もできないようなとこに行けよ」
「そんなの、あなたの知ったことじゃない」
余計なお世話みたいだった。ひょっとしてぼく、嫌われたんだろうか。助けたのに。
彼女はむすっとした顔でぼくをひとにらみすると、下り車線のプラットフォームに続く階段に向かった。ぼくとは逆方向。安心するような、少し残念なような。
でも、そのとき下り電車の到着を告げる案内メロディが駅構内に流れた。耳慣れた曲。それはモーツァルトの『きらきら星変奏曲』だった。
「あ……」
なにかがぱちんとつながる感触。思い出した。彼女がだれなのか、思い出した。
そうだ、さっき蛯沢って言ってたじゃないか。
「蛯沢、……真冬?」
階段の二段目で彼女はびくっと立ち止まり、振り向いた。白い肌にさす朱。夕立寸前の曇り空みたいな瞳。
見憶えがあるのは当然だった。CDのジャケットで見たことがあったのだ。それからテレビでも。東欧の国際ピアノコンクールにおいて史上最年少の十二歳で優勝し、華々しくデビューした天才少女ピアニスト、蛯沢真冬。二年半の間に数多くのレコードをリリースしながらも、十五歳で楽壇から突然姿を消した謎の存在。
それが今、ぼくの目の前にいる。泣き出しそうな顔をして、階段の手すりを握りしめて。
「……知ってる、の……?」
踏切の音にまぎれてかき消されてしまいそうな、とぎれとぎれの、彼女の声。ぼくはぼんやりとうなずく。ぼくは彼女を知っていた。録音した曲目さえすべて思い出せた。
「知ってるよ。だって、CDも全部持ってるし、それに」
「忘れて」
「え」
「全部、忘れて」
ぼくがなにか言い返そうとしたとき、彼女は長い栗毛をひるがえして階段を駆け上った。踏切の閉まるカンカンカンカンという音が聞こえてくる。ぼくはしばらく、呆けたようにその場に立ちつくしていた。
「──ねえ!」
横から声がぶつけられる。振り向くと、反対側のプラットフォームに白い人影。ぼくと視線が合うと、彼女は──蛯沢真冬は、振りかぶった腕を思いっきり振り下ろした。
投げつけられた赤いものは線路を飛び越して、キャッチしようとしたぼくの手首にぶつかり、足下に落ちる。コカコーラの缶だった。
ぼくらの間に、電車が滑り込んでくる。
彼女を呑み込んでドアが閉まり、走り去ってしまうと、ぼくは他にだれもいないプラットフォームでまたひとりきりになった。アスファルトの上を転がる缶を、線路に落っこちる寸前で捕まえて拾い上げた。冷たい。たぶんあっちの自動販売機で買ったやつだろう。ひょっとしてこれが礼のつもりなんだろうか。
蛯沢真冬。
ぼくは彼女のCDをすべて聴いていた。もちろん自分で買ったのではなく、評論家である父のところに送りつけられたものだ。けれど、月に何百枚と献呈されて増殖を続ける父の蔵盤の中でも、曲順まで憶えてしまうほど何度も繰り返して聴いたものは他にはなかった。無機質にすら聞こえる揺るぎないリズムの中に、ふと紛れ込んだ温かい脈動を探すのが好きだった。
それから、あのゴミ捨て場で聴いた曲を思い出す。あの曲は録音していなかったはず。CDで出ていたら、憶えているから。
なにがあったのだろう。
あんな、痛ましいピアノを弾くピアニストじゃなかったはずなのに。
そこで、彼女の最後の言葉も耳によみがえる。『全部、忘れて』。
コーラの缶を握りしめたまま、ベンチに腰を下ろした。上り電車がやってくるまでの間、耳の中で、あの奇妙なピアノ協奏曲と彼女の声とが入り交じって何度も何度も回っていた。
これが、高校に入る前の春休みに体験した、不思議な出来事。
家に帰ってから、蛯沢真冬のアルバムに収録された『きらきら星変奏曲』をオートリピートで際限なく聴きながら思い返してみると、なんだかすべて夢だったんじゃないかという気がしてきた。だって廃品がピアノに共鳴してオーケストラの音を出すとかあり得ないし。
唯一あれが現実だったという証拠である、彼女にもらった(?)コーラは、プルタブを引いた瞬間に爆発したように中身がほとんど全部こぼれてしまった。炭酸飲料を投げたりしてはいけません。濡れた床を雑巾で拭くと、かすかに残っていた現実味も消えてしまう。
忘れろなんて言われなくても忘れるよ、と思った。だってぼくらのリアルは忙しくて、二日前の夢すら憶えていない。
そのときのぼくはもちろん、あんな形で真冬と再会するなんて思ってもいなかったのだ。