楽聖少女

序幕 ③

 僕は真っ暗で長大なトンネルの中を引きずられながら、自分がちりにまで分解され、なにかべつのものと混ぜ合わされ、再構築されるのを感じた。すさまじい苦痛だった。細胞の一つ一つに痛みがていねいに打ち込まれていた。それでも僕という存在に最後までしがみつくことができたのは、耳の中に残っていた『ユキ』という名前のかけらのひびきだった。それはメフィストフェレスの声でもあり、自分の声でもあった。あるいはもう名前さえ思い出せない父や母の声でもあったかもしれない。


    †


 やがて、僕を押し包んでいたそのやみは、柔らかく、なまぐさく、ぬるぬるした現実の闇に変わっていった。

 背中に硬い感触が生まれる。

 次に、へいこう感覚が戻ってくる。あおけになっていることを身体からだが理解する。

 こみ上げてきた頭痛は、まんりきがいこつめ上げられているみたいだった。それでも、ベッドのまわりを囲んでいる人々の声が聞こえた。


「──先生!」

「ゲーテ先生!」

「おいヴォルフィ、しっかりしろ!」

「ヨハン様、お気をたしかに!」


 それは僕の名前じゃないよ、と、僕はけんたいかんの中で思った。最悪の気分だった。

 悪夢からめたそこは、またべつの悪夢の中。

 目を開こうとすると、まるでかさぶたをはがすときみたいな痛ましい感触があった。ぼやけた視界に、周囲からいくつもの人影が食い込んでいた。彼らの顔が、泣きらした目が、青ざめたほおが、じわじわと像を結びつつあった。

 腐ったはいみつのようなすさまじくけだるい苦痛の中で、僕は首を巡らせる。人々の頭の間に、開け放たれた窓が見えた。聖ペーター&パウル市教会のせんとうの影が、夜空に伸びて月を貫いていた。


    †


 こうして物語は始まるのだけれど、申し訳ないことに、これはゲーテの自伝でもなければ、名前も思い出せない図書室好きの高校二年生の異界漂流記でもない。僕は著述家であり、傍観者だ。川辺にじっと座って流れを眺め続けてはいるけれど、自分が泳ぐわけではない。

 これは、ある一人の音楽家の物語だ。

 音楽にすべてをかけ、戦い抜いた少女の、生の記録だ。

 あなたはおそらくそれが読みたくてこの本を手に取ったのだろうし、僕もそれを伝えたくてペンを取ったのだ。それにしては長い前振りだとお思いでしょうか? そんなあなたに、僕はさらに心苦しい真実を告げなきゃいけない。この物語自体が、何百ページを費やすのかかいもく見当がつかないくらい長大な序文なのである。

 なんの?

 僕自身の物語の、だ。

 の物語への前奏曲なのだ。

 どういう意味なのかは語り終えたときにわかってもらえると思う。……たぶん。わかってもらえることを祈りたい。今ここでその意味をくどくど説明するわけにはいかない。なぜなら、あの少女の物語をつづるという行程自体が、僕自身の物語の書き出しを探す旅でもあるからだ。

 それじゃあ、第一幕を開けよう。

 物語は、僕とあの少女のった場所、カールスバートという温泉地から始まる。



刊行シリーズ

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