楽聖少女
第一幕 ①
そもそも、温泉に行こうと言い出したのは
「ヴォルフィ、もう
フレディは見事なまでにドイツ人らしい金髪と
「フレディもしめきりやばいよね? 僕との共作批評集の原稿、来月発売なのにまだ上がってないんだけど、どういうこと?」
フレディは両手を広げて朗々と演説を始めた。
「俺たちは自由だ! 情熱的で
「思わないよ。働けよ」
フレディは
「……なにしてんの……」
「腰痛がひどくて
「おまえ昨日、
「あー、それはええとその」フレディは答えあぐねた後で身を起こした。「俺たちは腰痛からも自由であるべきだ!」
「じゃあ原稿書けよ」
「ううむだからその、次は頭痛が」
「頭痛いのはこっちだよ!」
たまっていた未査読論文を投げつけた。
「温泉行きたきゃそれ今日中に片づけてみろ!」
フレディは
「持病の
僕が冷淡に返すと、フレディは分厚い紙束を抱え、肩を落として書斎を出ていった。
彼の本名はヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラーといって、ドイツ文学ではいちばん有名な文豪の一人だ。ゲーテ(僕じゃん)とともにヴァイマール古典主義とかいうものを築きあげた偉大な詩人・劇作家らしいのだけれど、僕にとってはただのぐうたらな仕事仲間である。なんだかんだと原稿を後回しにする口実を見つけては、飲みにいったり観劇にいったりしてしまう。
彼のことはシラーと書いた方が通りはいいと思うのだけれど、この話では一貫してフレディと呼ぶことにする。僕と彼はともにファーストネームがヨハンで、まぎらわしいので、お互いにミドルネームからとった愛称で呼び合っていた。僕はヴォルフガングなのでヴォルフィ、彼はフリードリヒなのでフレディ。他の人はだいたい『ゲーテ先生』『シラー先生』と呼ぶ。まさかこの
ペンを置いて、
これでも、だいぶ慣れた。
しょうがない。僕だって飯を食って寝床で眠らなきゃ生きていけないし、こんな異郷でひとりでは生活できないし、まわりの人々と
もう二十一世紀には戻れないんじゃないか、という可能性は、泣けてくるのでなるべく考えないようにしていた。絶望感に浸ってたってなんにもならない。それに、わずかながら望みもあった。僕がゲーテとしての生活を続けているのはそのためでもあった。なにせ、僕をこの十九世紀に
一方で、このままだといつか身も心も完全にゲーテになっちゃって、万が一現代に戻れる可能性が出てきたときも帰る気すら
そんな不安を押し殺して、今日も僕はフレディの
デスクの上の電話が鳴った。優美な彫刻の木箱にハンドルやフックのついた古めかしい電話機で、たいへん
「もしもし。ゲーテ&シラー事務所です」
『ああ、ゲーテ先生ですか! フランクフルト学芸新聞です! シラー先生、シラー先生おられますか、あちらの電話にかけてもいっこうにつながらず! 原稿おとといまでの約束なんですよねええええ』
「あー、フレディは……」
僕は壁をにらむ。ちゃんと仕事してんのかな、あいつ。
『もーしめきり無理無理むりっす、まさかシラー先生、飲みにいったり劇場いったり寝てたり
だいたいその通りだが僕にわめかれても困る。これからうかがいます、と編集員は言って電話を切った。これは間に合わないだろうなあ、とフレディの様子を思い出す。
ところが本気を出したときの彼は大したもので、その日の夕方、新聞の編集員がやってきて僕がコーヒーを出して応対していると、応接間のドアが乱暴に開いて髪をもしゃもしゃに乱れさせたフレディがくまの濃い目をぎょろつかせて入ってきた。
「終わったぞッ持ってけこの野郎!」
原稿でぱんぱんにふくれあがった紙入れを投げつける。編集員は跳び上がって喜んだ。フレディは僕に指を突きつけてくる。
「さあヴォルフィ、今日中に終わらせたぞ! 約束どおり温泉! カールスバートの豪華ホテルを予約してくれ、豪遊するからな!」
「あー……ほんとにいくの?」
まさか僕の言葉を真に受けて今日中に片づけてしまうとは思ってなかったので、軽い気持ちで言ったことを後悔していた。
「温泉ですか。いいじゃないですか、我が社の原稿はひとまずいただいたわけですからゆっくりなさったら?」編集員もにやけた顔で軽口を
「腰痛で温泉とかそんなおっさんくさい……」と僕はぼやいてしまう。
「おっさんだよ、悪かったな!」フレディが
僕は首をすくめる。手に入れたもなにも、これはもともと僕の身体だ。
「いやいやゲーテ先生、
僕はむっとして
「そうだ。そろそろオリジナル書けヴォルフィ。おまえここ十何年も評論と政治しかやってねえじゃねえか。劇場からのオファーがどんだけたまってると思ってんだ。俺にばっかりやらせんな」
「ん……そのうちね……」
僕は



