楽聖少女

第一幕 ②

「なあヴォルフィ、けっきょく小説か戯曲だよ! もうけようと思ったら小説か戯曲! 俺もけっこう色々手ぇ出したけど儲かったのは『群盗』とか『オルレアンの少女』とかの劇だね! ヨーロッパじゅうで上演されてガキどもがリピーターになってくれて、うはうはだったぜ。おかげで年単位で遊んで暮らせたわ。また一発当ててぇなあ」


 こんなしゆせんな文豪シラーは見たくなかった……。いや、べつにドイツ文学なんて全然読んでなかったから幻滅するわけでもないんだけど。


「ヴォルフィ、おまえもまた戯曲書けよ。『タッソー』書いてからもう十年以上なんにも書いてないだろ? 小説もごだよな? 政治家も雑誌も儲からなかったじゃんか」

「あー、ううん」僕はさらに言葉をにごす。「ほら、若返ってからどうも身体が本調子じゃなくてさ。オリジナルのでっかい仕事が始められる気分じゃないんだよ……」


 それは半分くらいうそだった。ほんとうはめんどくさいだけだ。評論もコラムも書けるんだから、たぶん新作の物語も書こうと思えば書けるのだろう。でも、いくら僕の中のゲーテのおくと知識で書いてるとはいっても、寝て起きたら原稿が仕上がってるわけじゃない。使うのは僕ののうと僕の手で、くたびれるのも僕だ。小説一本書き上げるなんてたぶん評論の一万倍くらい疲れるだろうし。体調不良でごまかし続けよう。

 フレディは渋い顔をして、すぐにまゆしわを解いて言った。


「んじゃますます温泉行かなきゃな!」


 あれ。うまいこと話を戻されてしまった。


「明日すぐ出発したいから列車のチケットもとっといてくれ、もちろん食事つきで。いや、この季節なら飛行船もいいな」

「予約も僕がやんの?」

「俺はまんじゃないが切符の買い方も電話のかけ方も知らん!」


 ほんとに自慢になってないんだから胸張って言うな。

 僕はため息をついて二階の寝室に行った。カーテンを開き、ヴァイマールの街を見渡す。いくすじわだちの刻まれたゆるい坂道の左右に鮮やかな白壁の家々が続き、木立の多い街の中央広場にはギリシャ風の国民劇場と牧歌的な造りのアンナ・アマーリア妃の宮殿が向かい合って建っている。たしかそのうち、あそこの広場に僕とフレディの銅像が建つんだよな、と思うとなんだかうすら寒い。銅像の片っぽは十代の日本人の姿にされちゃうのだろうか。

 さて、自慢じゃないが僕もホテルや交通機関の予約の手配となるとさっぱりわからない。なにせ先月まで日本で高校生やってたのだ。おいゲーテ。ゲーテさん。いつも原稿やってくれてるみたいに、電話予約のしかたも思い出してくれよ。

 なんの反応もない。

 僕はいらだって髪の毛を乱暴にかきまぜる。呼びかけるとすぐになんでも思い出してくれるわけではない。そんなに便利なら、評論の原稿だの温泉の予約だのよりも日本に戻る方法をさっさと思い出させている。

 しょうがない、だめもとで、あいつにたのんでみるか。


「……メフィ、出てこい」


 夕空に向かってつぶやいた。

 しばらく、なにも起きなかった。窓から流れ込んだ夕風が机の上の書きかけの原稿用紙をさらと鳴らしただけだ。

 やっぱり出てこないか。あの女、僕をこの十九世紀ドイツに連れてきてから完全放置じゃないか。なんでも命令聞きますみたいなこと言ってたのはなんだったんだよ? ああ、いやその、やらしい奉仕をしてほしいわけじゃなくてね? 温泉にはちょっと行こうかなという気分になってきたけど、べつにメフィについてきてほしいわけじゃないからね?

 だれに述べ立てているのかよくわからない言い訳を胸の中でさんざん並べてから、窓を閉めようとしたとき、鋭く風を切る音が僕の耳のすぐ横を通り過ぎた。なにか小さい黒い影が寝室に飛び込んできたのだ。振り向くと、ベッドのまくらもとに一羽のからすがとまっていた。と、僕の見ている前でその小さな身体からだがねじくれながら伸び、ふくれ、黒い羽根がつややかな髪と布地に変化し、その間に肌が現れる。


「──お呼びでしたか、ユキ様」


 すっかり人間の女性の姿になったメフィ──あくメフィストフェレスは、そう言ってから、ごていねいに頭の毛をぱっぱっと払って犬の耳を生やした。

 僕は口を半開きにして、その変身の一部始終を見つめていた。まさかこんな用事で出てきてくれるとは思ってなかったからだ。彼女の視線に気づき、半ば照れ隠しのぶっきらぼうな口調で言う。


「……これまで何回呼んだと思ってるんだ」


 ほんとうはいかりよりもあんの方が大きかったが、悟られるわけにはいかない。なにを言われるかわかったものではない。


「おや。契約内容をご確認いただけていませんか?」とメフィは小首をかしげる。


「僕の命令を聞くんじゃなかったのかよ?」

「なんでも、ではありません。あなた様の欲望のために、だけです」


 今度は僕が首を傾げる番だった。


「いや、だから、僕のしてほしいことを」


 メフィは歩み寄ってきて僕のほおに手を添える。僕はおどろいて後ずさり、窓枠に腰をぶつける。


「わたしの力は、あなた様の、世界すべてを味わい尽くしたいという強い渇望によってのみ引き出されるのです。ただしてほしいと思っただけではぴくりとも動きません」


 なにその後付けっぽい条件。アメリカの保険会社かよ……。


「なら、僕の最初の願い事はどうして無視して消えやがったんだよ」

「はて?」

「とぼけんな! 日本に帰りたいんだよ僕は!」

「この時代ですと日本は鎖国中ですからオランダから」

「この時代の話はしてない! 二十一世紀の日本に帰りたいの!」

「かしこまりました。二百年ほどかかりますが」

「ふざけんなっていうか帰す気ないだろッ?」

ていに申しましてその通りです」


 僕は肩を上下させ、息を落ち着かせ、おこってもしょうがない、と自分に言い聞かせる。


「帰したらたましいをいただけなくなっちゃうではないですか。その願い事は契約外です」


 メフィはそんなことを言うが、なにせ契約したのは僕じゃなくゲーテだ。書面を交わしたのかどうかもわからないし、内容なんて確認できない。どう言い訳されても僕には反論できないのだ。


「……で、それなら今はどうして出てきたんだよ」

「今回はそれなりに強い欲を感じたからです。さて、どのような欲なのか読み取らせていただきます」

「え」


 メフィは僕の頭を両手でがっちりつかんで、顔をよせてくると、そのへびみたいに長い舌を伸ばして額をちろりとなめた。


「わ、わっ」


 逃げようとしても、あくの腕力は人間の手でふりほどけるものではない。メフィは舌を引っ込めるとようやく手をはなしてくれる。


「……ユキ様。残念ですが」暗い顔になって言う。「この時代のヨーロッパの温泉は混浴ではありません」「なにをどう読み取ったんだよッ」


 僕はメフィを突き飛ばした。彼女はくちびるをぺろりと舌でぬぐうと、ベッドに腰を下ろした。


「ようやくわたしがび出されるにふさわしい欲望のにおいがしたと思ったら、温泉旅行の手配だったなんて……」

「べつにいいだろ。どこに電話すればいいのかもわからないんだから。あと、せっかく出てきたんだからこの際メフィにはきたいことが山ほどある!」

「ちょうどよかった。わたしもユキ様に訊きたいことがあります」

「……なに?」

「わたしはそんなに女としてのりよくがないのでしょうか?」


 いきなり言われ、気づくとメフィの顔が至近きよにある。僕の両脚の間に彼女のひざが割り入れられる。僕はのけぞって、開けっ放しの窓から落っこちそうになった。


「な、な、なにっ? なんでそんなこと」

「ユキ様は十六歳の高校二年生でお盛んな時期ですから、きっとばかりわたしに言いつけて、あっという間に満足されて契約満了、楽な仕事だともくろんでいたのですが」


 僕はメフィのセクハラから逃げ出し、部屋の隅に後ずさる。


「高校生って言ったな? や、やっぱり僕は高校生のままなんだな?」


 メフィはほおに指を一本あてるわいくつくった仕草をする。


「それはもう、見ての通りですが」

「そこだよ、まずそこが変だろ!」


 僕は胸をばんとたたく。



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