楽聖少女

第一幕 ③

「僕はゲーテになるんじゃなかったの? 身も心も日本人で高校生のままなんだけど? おかげで街のこともよくわからないし風習も知らないし飯はいし!」

「あら。ユキ様としての人格をすべて消し飛ばされた方がよかったとおっしゃいます?」

「い、いや、そんなことはないけど」


 そっちの方がましだった、と思ってしまうことはたまにあるが、本心ではない。それって死んだら苦しまなくて済むっていってるのと同じだ。ともかく僕はありがたいことに、自分の名前を思い出せない以外はいたって無事で生きている。しかし、なにしろ不便なのだ。


「ドイツ語はできますでしょう?」

「できるけど」今、しやべってるし。


「文芸評論もすらすら書けますよね。古典の知識もあるはずですし、いんぶんもよどみなく思い浮かばれるでしょう。仕事はとどこおりないのですよね」

「う、うん、まあ……」

「だからあなた様は間違いなくヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ様です。自意識の上でご自分をまだ二十一世紀の日本に生きていた高校生だと思われているのは、混ぜ合わされたたましいの残留おくです。この時代の細かいことを思い出せないのは若返りの後遺症です。心配なさることはありません」


 僕は口ごもり、奇妙な味のするえきを舌で転がす。

 ゲーテとして生きてきた記憶はたしかにある。でもそれはずらりと並ぶ棚の引き出しにしまってあるのだ。残っているのは確実だけれど、なにがどこにあるのかはよくわからない。だれかに話を振られて、ああそういえば──と思い出すことはできても、自分の積み重ねてきた体験として能動的に活用できないのだ。だから僕はこのヴァイマールで、故郷さえもない異邦人のままだ。

 頭を抱える僕に、メフィは深刻さのかけらもない口調で言う。


「まわりの方々もゲーテとして接しているのですから、なにも困ることはないのでは」

「そこもおかしいだろ!」


 僕は顔を上げた。


「なんでみんなあっさり納得してんの? ゲーテなら若返って当たり前みたいな反応なんだけど! フレディもそうだし、お手伝いさんも新聞記者も遊びにくる貴族連中も」

「ゲーテは七十歳過ぎてからも十代の少女と結婚しようとするくらい真性のロリコンでしたから若返っても当たり前」「どんな理屈だよ!」あとロリコンっていうな。ナボコフもユングもまだ生まれてもいねえだろ。


「世間のみなさまも『ゲーテ大先生ほどのどくと性欲があれば若返りなどぞうもないこと』と思ってらっしゃいます」


 ちがう理由で日本に帰りたくなってきた……。


「あのさ、人間が若返ったんだよ? 若返ったっていうか全然ちがう身体からだになっちゃったんだよ、なんでもっとみんな深刻に受け止めないの?」

「わたしたちあくかつやくで、それくらいはよくあることですから」


 僕は壁に背中をこすりつけて床にへたり込んだ。よくあるのか。そうか。


「とはいえ、悪魔のわざだと公言してはいけませんよ。あくまで功徳と性欲の力で若返ったということにしておいてください」メフィがまるできんちようかんのない口調で言う。「この時代の魔女狩りは怖いですからね。マシンガンでの武装が当たり前ですから、はちの巣にされます」


 どの時代だよ。マシンガンて。

 ヴァイマールの街に連れてこられてからの一ヶ月、『ひょっとして』から『たぶんそうなんだろうな』に変わりつつあるその推測を、僕はメフィに確かめた。


「ここ、僕の知ってる十九世紀じゃないよね?」


 メフィは首をかしげた。「はて?」


 なぜとぼける。僕はさらに続けた。


「僕の生きてた二十一世紀につながってないだろ、この時代。なんかだいぶちがうだろ」


 メフィは肩をすくめて言う。「なにを根拠にそんなことをおっしゃる」

「一八〇四年に電話があるわけないだろ!」


 とぼけ方に腹が立った僕は立ち上がって電話台を指さした。


「あと列車とか! 挙げ句の果てに飛行船とか! 写真も新聞に平気で載ってるし」

「細かいことはお気になさらず、若々しい身体からだで第二の人生を存分にお楽しみください」

「細かいことじゃねえだろフランス軍なんて戦車使ってんじゃんか!」


 僕はテーブルに広げてあった新聞をばんばんたたく。ライン川の河口に上陸したばかりの英国軍をつぶすフランス共和国軍の戦車隊のまがまがしい写真が一面トップに大写しになっている。僕の知っている、キャタピラで走る装甲がちがちのあれとはだいぶ形がちがうけれど、巨大なせんかいほうとうを備えたその車両は間違いなく戦車だ。十九世紀にそんなもんあるわけがない。

 メフィは嘆息してベッドに座り直した。


「たしかにユキ様のおっしゃる通り、ご存じの十九世紀ヨーロッパよりも文明が進みすぎています。……が、歴史はひとつながりです。いくつの支流に枝分かれしようと、また集束しようと、流れているのは同じ水です。べつの河に飛び込んだわけではありません」

「……どういうこと?」

「ご自分だけだとお思いですか?」

「え?」

「時間をさかのぼって連れてこられた人間が、ご自分だけだとお思いですか?」


 僕は口をつぐむ。

 未来からやってきた人間が、僕以外にもいる?

 だとすれば、まだ存在しないはずの知識を持ち込んで、技術革新を早めてしまった可能性がある。


「だれだよ、それ」

「さあ。可能性の問題です。わたしは知りません。わたしが未来から若い肉体を連れてくるなどという手間のかかる仕事をしたのは、今回のゲーテ様のご契約がはじめてです」

「……あくってメフィの他にもいるの?」

「もちろん。わたしほどうるわしくも強くもないぞうぞうが、ヨーロッパ中にごまんといます」


 僕は鼻から息をいた。とんでもねえ世の中だ。


「けれど、そう深く考えることではありません」


 メフィはすうっと目を細め、鈍いエメラルド色の光をひとみの奥にともして笑った。

 あくほほみだ。


「人間が悪魔の力を引き出してなにをどうしようと、歴史はさして変わりません。だれもが、死ぬべきときには死ぬのです。そのさだめをねじ曲げられるのは──」


 彼女が窓の外に視線を遠く投げる。

 聖ペーター&パウル市教会の高いせんとうが、夕映えの中でけている。


「いと高きあのお方だけです」


 それは僕がこのヴァイマールにやってきた日に見たのと同じ、そしてゲーテが何十年間もここから見てきたのと同じ景色だ。僕の生まれた場所ではないし育った街でもないし長く過ごした家でもないけれど、焼けつくようになつかしい窓辺だった。


    †


 十九世紀ドイツに放り出されて右も左もわからない僕が、なんとかゲーテとして生活できたのは、ある意味ではフレディのおかげだった。


「めでたいめでたい。飲もうヴォルフィ。いやあ、おまえのよぼよぼの身体からだが変な泡に包まれて消えちまったときはどうしようかと思ったが、よかったよかった」


 ビールの入った陶製のジョッキを持ち上げ、フレディは笑う。僕が悪魔の手によってヴァイマールに連れてこられたその夜のことだ。まだ自分の身に起きたことを事実として受け入れられないでいるぼうぜんしつの僕を、フレディは酒場に引っぱっていったのだ。

 僕は奇異の視線を集めているのではないかとびくびくしながらまわりのテーブルのすいきやくたちを見回し、それからフレディに小声で言った。


「あのう、シラーさん?」

「なんだよ。変な呼び方すんなよ他人ぎような。俺たち十年来のつきあいだし、おまえの方が十も年上なんだぞ」

「いや、だってそのう、フレディって呼ぶのもなれなれしいかなって……あの、僕、ゲーテなんかじゃないんです別人です、無理矢理連れてこられただけで」


 泣きそうになりながら必死に説明したが、フレディの返答はこうだった。


「だから、日本から? だっけ? び寄せて、ヴォルフィになったんだろ? 泡ん中からぞぶぞぶぞぶって出てきたところ、ちゃんと見たぞ」

「ゲーテになんかなってないです、どこもかしこも日本人のままなんです!」

「だってドイツ語べらべらしやべってるじゃん」

「いや、これは、たぶんそういうふうにいじくられただけで」

「俺のことフレディって呼んでたこともちゃんとおぼえてたじゃん」


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