楽聖少女

第一幕 ④

「あー、そういえば……あの、ゲーテのおくもいくらか移されたんじゃないかって」

「俺のお気に入りのビール憶えてるか?」

「……ラオホビア」

「あたり。お手伝いさんの給料は? 俺おぼえてねえんだけど」

「……8グルデン4グロッシェン」なぜか思い出せてしまう。自分でも気色悪い。


「俺より詳しいじゃん。おまえ、ちゃんとヴォルフガング・ゲーテだよ。安心しろよ」

「いやだから僕はね! ついさっきまで二十一世紀の日本にっ」

「へえ、そっちのこともちゃんと憶えてんのか。うらやましいなあ。二人分の人生味わえるなんて作家にとっちゃよだれもんだぜ」

「あ、あの、シラーさん」「フレディって呼べ、気持ち悪いだろうが」「フレディさん」「おまえの方が年上なの、年下の俺が呼び捨てなんだからおまえも呼び捨てろ」「フレディ! そんなのはどうでもいいから、あの、ゲーテから、つまり僕じゃなくて若返る前のゲーテから、なにか聞いてない? 若返る方法とか、僕をここにび出した方法とか」


 喚び出したやり方がわかれば戻す方法もわかるんじゃないのか、僕はそう思って、わらにもすがる思いでたずねた。


「いやさっぱり」とフレディは肩をすくめた。「おまえはじゆつ大好きだったけど、俺そういうの全然だし。なに? 日本に戻りたいの?」

「当たり前だろッ」

「いいなあ日本、俺もいっぺん行ってみたいわ、ヴォルフィ、ひまができたらいつしよに行くか」


 身体からだも服装も頭の中身も、なにからなにまで日本の高校生のままの僕を、フレディはまったく気にせずにどうりようゲーテとして扱うのである。彼はまるで旅の土産みやげばなしでもせがむみたいに、日本にいたころの僕のことを聞きたがった。僕がたのみに応じて自分の身の上を話すことにしたのは、気持ちを落ち着かせて、状況をみ込むためでもあった。


「住んでたのは東京……あー、今だとまだ江戸?」

「いや、どっちも知らん」とフレディは三杯目のビールを空ける。「そっちでも金持ちの生まれだったのか? 身なり良いじゃんか」


 僕は自分の服装を見下ろす。制服のブレザーだ。べつに高いものじゃない。

 僕の父は音楽プロデューサー、母はピアニストだ。さらには母方の祖父も指揮者という音楽一家である。父はあまり表舞台に立つ仕事をしていなかったのでどうかわからないけど、母はわりと名の知れた演奏家だったので、金には不自由していなかったと思う。僕自身も小さい頃から、まるで水鳥が泳ぎを憶えるみたいに自然に音楽に浸っていた。


「じゃあ、おまえも音楽るのか。楽器はなんだ? クラヴィア? 弦?」

「いや、僕はなんにも。くの専門で」と答えると、フレディは実に意外そうな顔をした。そういえばこの時代は、音楽家の子供はやはり音楽家になるのが当たり前だったのだ。

 楽器を手足同然に使いこなす両親の姿を見て育ちながら、不思議と僕は、自分でなにか楽器を弾いてみようという考えがまったくかなかった。僕がいちばんかれたのは、音楽評論家をやっていた父方の祖父だった。もういいとしこいたじいさんのくせに酔っ払って駅前で半裸でオペラのアリアを歌って交番に連れていかれるようなろくでなしで、けれど文章はじようなくらいウィットとけれん味に富んでいてりよくてきだった。よく両親が家を空けてひとりで留守番することが多かった僕は、色んなクラシックのCDを聴きながら、それにまつわる祖父の書いた記事を読むのが好きだった。そのせいかどうかわからないけれど、学校でも図書室に入り浸ってばかりになった。


「ふうん。それじゃゆくゆくはじいさんの跡継いで物書きになってたかもしれないのか。さすが新しいヴォルフィになっただけあるな!」

「いや、跡継ぐような仕事じゃないでしょ……」あと、さんはふんがちょっとフレディに似ている。主に悪い意味で。

 それにしても、と僕はフレディの言葉の意味を考える。

 僕が本を読んでばっかりの子供だったからゲーテの新しい身体からだに選ばれた? まさか。そんな理由なら、もっと適任がいくらでもいるだろう。なにせ僕はゲーテの本なんて一冊も読んだことがない。詩もきよくもからっきしだ。なんで僕なんだよ。いかりがまたにじみ出てくる。それは舌の裏側あたりで苦い絶望に変わる。

 ひょっとして、もう戻れないのか。僕はここでゲーテとして生きてくしかないんじゃないだろうか。ため息を三回くらいき出すと、その絶望は身にみ込んでいく。


「音楽家の息子の人生経験か。しかも二百年後の日本とか、すげえな。ヴォルフィ得したな、次回作にさっそく生かそうぜ」


 フレディはいが回ってきたのかのんきなことを言い出す。


「戯曲をオペラにするときとか、おまえ自分であれこれ口出せるんじゃないの? 音楽にも詳しいってことだろ? あれ? 二百年後の音楽だから関係ねえのか」

「いや、古い音楽はまだちゃんと残ってるけど。よく聴いてた」

「マジかよ二百年だぜ? 俺、二百年前の音楽なんて想像もつかないぜ? たとえばどんなやつの曲が残ってんのよ」


 僕はためしに好きな作曲家の名前を何人か並べてみた。グルック、クレメンティ、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン……。

 フレディはこうふんしてをがたつかせる。


「知ってる知ってる! 全員知ってるよ、現役のもいるぜ」

「え……」


 ああ、そうか。一八〇四年って、そういう時代なのか。しかもここはドイツだ。ひょっとしてあの作曲家やあの作曲家に──実物に、えちゃうのか。

 いやいや。喜んでどうするんだ。それどころじゃない状況なのに。もう帰れないかもしれないのに。

 また気分が沈んでしまい、だまりこくった僕を心配したのか、フレディは食べ物をどんどん注文してテーブルにずらりと並べてくれた。


「とにかく若返り祝いだ、ガンガン食って飲もう。そんで次のけつさくの構想を練ろうぜ! オペラになってヨーロッパじゅうで上演されたらまたがっぽがっぽおおもうけだ。楽しみだな」

「……いや、僕、お酒飲めない……」って言ってるのに無理矢理飲まされ、死ぬほどむせる。


「なんだ若返りボケか。酒の飲み方も忘れたか。まあ心配すんなヴォルフィ、新しい身体からだにまだ慣れてなくて調子出なくても、俺が面倒見てやっから」



 しかし実際のところ、面倒を見るのは僕の方だった。なんでだよ。

 同じ事務所で毎日顔を合わせるようになって、フレディが評論家の祖父に輪をかけてろくでなしであることが判明した。約束にもルーズだし、とうかいに顔を出しては人妻をナンパするし、財布も持たずに飲みに出かけてはいつぶれて、僕が迎えにいくはめになった。


「いやあゲーテ先生、若返ってよかったですなあ。以前はそうやってシラー先生をかついで帰ると腰にひびくとおっしゃってましたが、今は軽々ですな!」


 酒場の主人にそんなことまで言われてしまう。全然うれしくない。

 二日酔いで事務所にやってくるフレディに水を飲ませたりパンがゆを食べさせたりするのも僕だった。


「おまえ若返ってから料理できるようになったのかよ。俺、今度から飯も事務所で食うわ」


 フレディはそんなことを言い出す。どうやら、しめきりがやばくなってくると食事もろくにしなくなるらしかった。そして新聞や雑誌の仕事を抱えていると、そういったやばい事態はひんぱんにやってくる。ほんとうに生活力かいのやつなのだ。電話のかけ方も知らないと言われたときにはかなりおどろいた。たしかに旧式の電話機はそれはそれは面倒な手順が必要なのだけれど、それにしたって僕はすぐにおぼえたのに。

 そうやって僕は徐々に十九世紀ドイツの空気に慣れていった。というよりも、まったくえんりよなく原稿の仕事や面倒ごとを持ち込んでくるフレディのせいで、慣れるしかなかったのだ。もう日本には戻れないかもしれない、というかなしい可能性を考えると、できることをぼちぼちやっていこうかという気にもなる。たとえそれがフレディの寝ゲロの後始末でもね。



 そんなわけで、温泉旅行の手配は宿も列車も僕が電話予約し、フレディのぶんの荷造りまで僕がやった。メフィのやつ、連絡先を調べてくれただけで、あとはびたいち手伝おうとしなかった。どいつもこいつも。


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