出発前の夜、暗い部屋で鞄に腰を下ろし、窓から月を見上げながら、温泉か、と思う。
ゲーテは温泉が大好きだったらしい。各地の温泉の詳細なレポートをファイリングしたものが書斎の棚の一角を占めていて、ぱら読みしていると、記憶がじわりとにじみ出てくる。僕自身があちこちの温泉地を巡ってレポートにしたためたのだという気がしてくるのだ。
たしかに、僕の中にはゲーテである部分が沈んでいる。ひどく中途半端な形で。
要するに僕は、たぶん、ゲーテになりそこなったのだ。ゲーテ本人が失敗したのか、メフィがしくじったのか。おかげで、なんとかこの十九世紀になじんで生活できてしまっているけれど、日本に帰りたい気持ちは薄らがなかった。帰れるならそりゃ帰りたい。
あてがまるでないわけでもなかった。僕をこの時代に喚び寄せたのは他ならぬ僕なのだ。喚べるなら戻せるんじゃないのか。ゲーテがなぜ僕を選び、どうやって喚び寄せたのかを思い出すことができたら、日本に戻る手がかりになるんじゃないのか。
でも、望む記憶はちっとも出てこなかった。
たぶん、とっかかりがないからだろう。フレディにあれこれ確認の質問をされたときみたいに、他人になにかを訊かれると思い出せる。僕ひとりでうんうん唸っていてもだめだ。どこの引き出しにしまったかがわからないからだろう。
温泉に浸かっていたら記憶が戻ったりしないだろうか。ゲーテの愛したカールスバートの街で、彼の足跡をたどり、彼の望みに沿い、彼にもっと近づいたなら……
†
カールスバートは、チェコの西の端に位置する温泉地である。
神聖ローマ帝国の巨大な版図のちょうど真ん中あたり、ベルリンとウィーンの中間地点にあって、交通の便がいいので昔からたいへん人気のある観光地だったらしい。
「うっひょー! ヤギ! ヤギすっげえいっぱいいるぞヴォルフィ、ほら! あ、あっち風車がある、でけええええええ!」
列車の向かいの席に座ったフレディは、道中ずっと興奮しっぱなしで、僕は個室にしておいてよかったと心底思った。列車が山間に入り、豊かな緑のうねりが視界を遮りはじめると、フレディは浮かれてビールを注文しだした。
「チェコビール最高! チェコはいい水の出る修道院が多いからなあ! 毎日でも飲みたい」
「フレディも修道院に入れば」
「尼寺なら行くぜ! って、シェイクスピアのパクリじゃねえか! 俺たちドイツ文学を支えてるんだからオリジナルで勝負しなきゃな! うはははは! ういー」
列車が駅に滑り込む頃にはフレディは酔っ払ってふらふらだった。駅員に切符と間違えて自分の詩集を差し出すくらいである。
「シラー先生! まあ、シラー先生よ!」
「あら、ほんとうに!」「ゲーテ先生も一緒じゃない?」
荷下ろしを待っていた貴族の娘たちの一団が僕たちに気づいて騒ぎ出した。
「若返ったって噂はほんとうだったのね!」「ああ、エキゾチックな少年のお姿に!」
彼女たちはスカートの端をつまみ上げてこっちに走ってくる。
「ゲーテ先生、『若きヴェルテルの悩み』もう五十回読みました! サインしてください!」
「シラー先生もご一緒に、あたしたちの宿に遊びにきてくださいな!」
「いいぜ俺の可愛い子猫ちゃんたち!」
真っ赤な顔のフレディが調子づいて身をくねらせながら言う。
「夜通し飲み明かし、踊り、歌い、愛の詩を交わそう。というか愛を交わそう。詩はどうでもいいや、めんどくさいし」
「それでも詩人かよ! ドイツ文学支えるんじゃなかったのかよ!」
僕は呂律のあやしくなってきたフレディの襟首をつかんで引きずり、娘たちから逃げた。
「ああん、ゲーテ先生ってば!」
「いつまで滞在されるんですか?」
「あたしたちにお世話させてくださいな!」
「休養で来たんだからそっとしといてください!」僕はフレディの尻を馬車に押し込みながら娘たちに叫んだ。急いで自分も乗り込む。
「きっとシラー先生と二人きりで」「まあ、お二人とも男にしか興味が……」「それはそれで搔き立てられますわ」「新聞記者にも教えてあげましょう」おいちょっと待ておまえら! 僕が馬車の窓を跳ね上げて、根も葉もない噂話に花を咲かせる女どもに文句を言おうとしたとき、御者が「はいよぅっ」と馬を走らせはじめた。
この当時のヨーロッパの温泉地は日本のそれとはだいぶちがっている。
温泉というものは医療用だと考えられていて、利用法は第一に「飲む」ことだった。万病に効く薬という認識だったらしい。入浴に対する考え方も日本とはかけ離れていて、大浴場でわいわいがやがやという風景は見られない。ローマ風の華美な彫刻が施されたドームの下、上品なサウナで静かに汗をかいたり、シャワーを浴びたり、マッサージを受けたりと、たいへん貴族的。そもそも全裸にならないしね。
でも僕は日本人なので、こんな寒い季節に温泉にきたら、ざぶんと湯の中に浸かりたい。さいわい、フレディは宿に着いてすぐにワインを一本空けて眠ってしまったので、僕はホテルに併設された浴場にひとりで行った。白い大理石造りの派手な個人用浴槽に裸で飛び込み、思う存分手足を伸ばす。思わず「ふううううう」と声が出てしまう。フレディのわがままにつきあうために僕も昨日は徹夜で原稿を終わらせたのだ。眠くなってきた。
浴槽の縁石に頭を預ける。ひんやりした感触が頰にあたって、心地よい。
どうだゲーテ、と僕は湯気に向かってつぶやいた。あんたの大好きなカールスバートの温泉だぞ。ありがたく思えよ。あったまって良い気分になったなら、出てきて教えてくれよ。なんで僕なんかを喚び出したんだ? どうやったら帰れるんだ。
問いは、白い湯煙をむなしく揺らしただけだった。僕は息をつき、目を閉じる。
「入浴中に眠ると風邪を引きますよ」
いきなりそばで女の声がして僕は跳びあがった。すぐ隣、薄い湯煙の向こうに、いつの間にか黒い人影がある。長い黒髪が水面に広がっている。湯気の中で大きな三角形の黒い耳が何度かぱたぱた動く。メフィストフェレスだった。しかも、首、肩、鎖骨、胸元──と視線で下へたどっていっても布地にいっこうにぶつからないっていうか裸じゃねえか!
「な、なんでいるんだよメフィっ!」
僕は湯の中に肩まで浸かって背を向ける。カールスバートの白く濁った泉質に、このときばかりは深く感謝した。
「悪魔だって温泉にきたら浸かりたくなるのです。わたしの故郷──というのはまあ地獄なんですが、あそこの温泉は硫黄臭いわ何千度もあるわで全然リラックスできませんし。それに」
湯が大きく揺れた。メフィが近づいてきたのだとわかって僕は身をこわばらせる。隣にやってきた彼女は、裸の二の腕をぴったり触れあわせた。僕はあごまで湯に沈む。
「こうすればユキ様もまたべつの欲望に目覚めてくださるかと」
「い、い、いいから出てけッ、だれかに見られたらどうするんだよ!」
「わたしは悪魔ですから、ユキ様にしか見えないようにできます。今のユキ様はだれもいないのに真っ赤になってわめいている危ない人です」
僕は黙り込む。のぼせて頭がぼんやりしてきた。
メフィは湯船のふちに両肘をのせ、ふうと気持ちよさそうに息をついた。そのポーズはやめてくれないだろうか。つまり、その、胸が水面より上に、いやもちろんそっちを見なきゃいいんだけど……
「欲が昂ぶってきましたか?」
「そういうやらしい直接表現をっ」
「あら。性欲とは言ってませんけど、ユキ様ってばやーらしい」「なんだとっ」「創作意欲のことです。シラー様もおっしゃっていたでしょう。どうです、戯曲や小説を書く気になってきましたか?」
僕も浴槽の外に両腕を投げ出し、そっぽを向く。
「フレディとか編集者とかならともかく、なんでメフィにそんなこと言われなきゃいけないんだよ。関係ないだろ」
「いいえ、関係大ありです」
メフィは水面を揺らして身を寄せてくる。声が甘くなる。
「ユキ様は、心を動かしたくないのでしょう?」