楽聖少女

第一幕 ⑤

 出発前の夜、暗い部屋でかばんに腰を下ろし、窓から月を見上げながら、温泉か、と思う。

 ゲーテは温泉が大好きだったらしい。各地の温泉の詳細なレポートをファイリングしたものが書斎の棚の一角を占めていて、ぱら読みしていると、おくがじわりとにじみ出てくる。僕自身があちこちの温泉地を巡ってレポートにしたためたのだという気がしてくるのだ。

 たしかに、僕の中にはゲーテである部分が沈んでいる。ひどく中途はんな形で。

 要するに僕は、たぶん、ゲーテになりそこなったのだ。ゲーテ本人が失敗したのか、メフィがしくじったのか。おかげで、なんとかこの十九世紀になじんで生活できてしまっているけれど、日本に帰りたい気持ちはうすらがなかった。帰れるならそりゃ帰りたい。

 あてがまるでないわけでもなかった。僕をこの時代にび寄せたのは他ならぬゲーテなのだ。喚べるなら戻せるんじゃないのか。ゲーテがなぜ僕を選び、どうやって喚び寄せたのかを思い出すことができたら、日本に戻る手がかりになるんじゃないのか。

 でも、望む記憶はちっとも出てこなかった。

 たぶん、とっかかりがないからだろう。フレディにあれこれ確認の質問をされたときみたいに、他人になにかをかれると思い出せる。僕ひとりでうんうんうなっていてもだめだ。どこの引き出しにしまったかがわからないからだろう。

 温泉にかっていたら記憶が戻ったりしないだろうか。ゲーテの愛したカールスバートの街で、彼の足跡をたどり、彼の望みに沿い、彼にもっと近づいたなら……


    †


 カールスバートは、チェコの西のはしに位置する温泉地である。

 神聖ローマ帝国の巨大な版図のちょうど真ん中あたり、ベルリンとウィーンの中間地点にあって、交通の便がいいので昔からたいへん人気のある観光地だったらしい。


「うっひょー! ヤギ! ヤギすっげえいっぱいいるぞヴォルフィ、ほら! あ、あっち風車がある、でけええええええ!」


 列車の向かいの席に座ったフレディは、道中ずっとこうふんしっぱなしで、僕は個室にしておいてよかったと心底思った。列車が山間に入り、豊かな緑のうねりが視界をさえぎりはじめると、フレディは浮かれてビールを注文しだした。


「チェコビール最高! チェコはいい水の出る修道院が多いからなあ! 毎日でも飲みたい」

「フレディも修道院に入れば」

あまでらなら行くぜ! って、シェイクスピアのパクリじゃねえか! 俺たちドイツ文学を支えてるんだからオリジナルで勝負しなきゃな! うはははは! ういー」


 列車が駅にすべり込むころにはフレディはっ払ってふらふらだった。駅員に切符と間違えて自分の詩集を差し出すくらいである。


「シラー先生! まあ、シラー先生よ!」

「あら、ほんとうに!」「ゲーテ先生もいつしよじゃない?」


 荷下ろしを待っていた貴族の娘たちの一団が僕たちに気づいてさわぎ出した。


「若返ったってうわさはほんとうだったのね!」「ああ、エキゾチックな少年のお姿に!」


 彼女たちはスカートのはしをつまみ上げてこっちに走ってくる。


「ゲーテ先生、『若きヴェルテルの悩み』もう五十回読みました! サインしてください!」

「シラー先生もご一緒に、あたしたちの宿に遊びにきてくださいな!」

「いいぜ俺のわいい子猫ちゃんたち!」


 真っ赤な顔のフレディが調子づいて身をくねらせながら言う。


「夜通し飲み明かし、踊り、歌い、愛の詩を交わそう。というか愛を交わそう。詩はどうでもいいや、めんどくさいし」

「それでも詩人かよ! ドイツ文学支えるんじゃなかったのかよ!」


 僕はれつのあやしくなってきたフレディのえりくびをつかんで引きずり、娘たちから逃げた。


「ああん、ゲーテ先生ってば!」

「いつまで滞在されるんですか?」

「あたしたちにお世話させてくださいな!」

「休養で来たんだからそっとしといてください!」僕はフレディのしりを馬車に押し込みながら娘たちに叫んだ。急いで自分も乗り込む。


「きっとシラー先生と二人きりで」「まあ、お二人とも男にしか興味が……」「それはそれでき立てられますわ」「新聞記者にも教えてあげましょう」おいちょっと待ておまえら! 僕が馬車の窓を跳ね上げて、根も葉もない噂話に花を咲かせる女どもに文句を言おうとしたとき、ぎよしやが「はいよぅっ」と馬を走らせはじめた。



 この当時のヨーロッパの温泉地は日本のそれとはだいぶちがっている。

 温泉というものはりようようだと考えられていて、利用法は第一に「飲む」ことだった。万病に効く薬という認識だったらしい。入浴に対する考え方も日本とはかけはなれていて、大浴場でわいわいがやがやという風景は見られない。ローマ風の華美な彫刻がほどこされたドームの下、上品なサウナで静かに汗をかいたり、シャワーを浴びたり、マッサージを受けたりと、たいへん貴族的。そもそも全裸にならないしね。

 でも僕は日本人なので、こんな寒い季節に温泉にきたら、ざぶんと湯の中にかりたい。さいわい、フレディは宿に着いてすぐにワインを一本空けて眠ってしまったので、僕はホテルに併設された浴場にひとりで行った。白いだいせき造りの派手な個人用よくそうに裸で飛び込み、思う存分手足を伸ばす。思わず「ふううううう」と声が出てしまう。フレディのわがままにつきあうために僕も昨日はてつで原稿を終わらせたのだ。眠くなってきた。

 浴槽の縁石に頭を預ける。ひんやりした感触がほおにあたって、心地よい。

 どうだゲーテ、と僕は湯気に向かってつぶやいた。あんたの大好きなカールスバートの温泉だぞ。ありがたく思えよ。あったまって良い気分になったなら、出てきて教えてくれよ。なんで僕なんかをび出したんだ? どうやったら帰れるんだ。

 問いは、白い湯煙をむなしく揺らしただけだった。僕は息をつき、目を閉じる。


「入浴中に眠るとを引きますよ」


 いきなりそばで女の声がして僕は跳びあがった。すぐとなりうすい湯煙の向こうに、いつの間にか黒い人影がある。長い黒髪が水面に広がっている。湯気の中で大きな三角形の黒い耳が何度かぱたぱた動く。メフィストフェレスだった。しかも、首、肩、こつ、胸元──と視線で下へたどっていっても布地にいっこうにぶつからないっていうか裸じゃねえか!


「な、なんでいるんだよメフィっ!」


 僕は湯の中に肩までかって背を向ける。カールスバートの白くにごった泉質に、このときばかりは深く感謝した。


あくだって温泉にきたらかりたくなるのです。わたしの故郷──というのはまあ地獄なんですが、あそこの温泉はおうくさいわ何千度もあるわで全然リラックスできませんし。それに」


 湯が大きく揺れた。メフィが近づいてきたのだとわかって僕は身をこわばらせる。となりにやってきた彼女は、裸の二の腕をぴったり触れあわせた。僕はあごまで湯に沈む。


「こうすればユキ様もまたべつの欲望に目覚めてくださるかと」

「い、い、いいから出てけッ、だれかに見られたらどうするんだよ!」

「わたしは悪魔ですから、ユキ様にしか見えないようにできます。今のユキ様はだれもいないのに真っ赤になってわめいている危ない人です」


 僕はだまり込む。のぼせて頭がぼんやりしてきた。

 メフィは湯船のふちにりようひじをのせ、ふうと気持ちよさそうに息をついた。そのポーズはやめてくれないだろうか。つまり、その、胸が水面より上に、いやもちろんそっちを見なきゃいいんだけど……


「欲がたかぶってきましたか?」

「そういうやらしい直接表現をっ」

「あら。性欲とは言ってませんけど、ユキ様ってばやーらしい」「なんだとっ」「創作意欲のことです。シラー様もおっしゃっていたでしょう。どうです、きよくや小説を書く気になってきましたか?」


 僕もよくそうの外に両腕を投げ出し、そっぽを向く。


「フレディとか編集者とかならともかく、なんでメフィにそんなこと言われなきゃいけないんだよ。関係ないだろ」

「いいえ、関係大ありです」


 メフィは水面を揺らして身を寄せてくる。声が甘くなる。


「ユキ様は、心を動かしたくないのでしょう?」



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