熱い湯の中なのに、僕はぞっと寒気をおぼえた。
「戯曲も小説も書かないどころか、読むのはだれかの評論だけ。それに批評をくっつけて雑誌に載せるだけ。そんな仕事ばかりなさっているのは、すばらしいものに出逢って心を動かされるのが恐いからでしょう?」
なに言ってんだ。めんどくさいからやらないだけだよ。戯曲だの小説だの新しくゼロから創り出すなんて、どんだけの労力だか考えたくもない。細かい執筆仕事でやってけるんだから、べつにいいじゃないか。
背中にぴったりと柔らかいものが触れる。メフィが身体を押しつけてきたのだ。身体も意識も熱の中に一瞬にして引き戻される。
「ちょっ、やっ、やめっ」
「若返りで文才が消えたわけではありません。文学の火はいまだにこの」メフィの腕が僕の身体に巻きつき、みぞおちに指が這う。「胸で燃えさかっているはず。それなのにペンもとらず目を閉じ耳をふさいだままでいられるのは、世界のすばらしさを味わうのが恐いから、満たされてしまうその瞬間を迎えたくないから、でしょう?」
「はなせよッ」
僕はメフィの腕をふりほどいて突き飛ばした。水中に深く身を沈める。薫り高い湯が下唇を濡らした。鉱泉水は血と汗と鉄の味がする。
「だとしてもなんなんだよ。僕の知ったことじゃない」
ゲーテのこれからの作品が歴史から消えるとしても、どうでもよかった。僕は日本からむりやり連れてこられた高校生なのだ。ドイツ文学はフレディが尺取り虫のポーズでもしながらひとりで必死に支えればいい。
不意に分厚くなった湯煙の向こうで、メフィが笑う。
「いいえ。あなた様はきっと、またペンをとられるはずです。あなた様はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテでもある。その事実を、渇望を、熱を、炎を、消せはしない。芸術家はけっして黙してはいられない。たとえご自分で吐き出されなくとも、生きていれば、必ずこの世界の美しさに触れ、心動かされるはず」
「うるさい!」
僕は熱い湯を跳ね上げた。しぶきが白い大理石にあたって流れ落ちた。
メフィの姿は消えていた。
ただ、その最後の言葉だけが湯気の間に漂う。
感じてください。
心動かされてください。
満たされてください。
そして、その絶頂で叫んでください。《時よ止まれ、汝はいかにも美しい》と。
そのときユキ様はわたしのものになる。
わたしのものに。
わたしのものに……
湯の中で両手を広げ、確かめる。
僕の身体だ。名前はもう最後の二音を除いて思い出せないけれど、たしかにほんの一ヶ月前まで二十一世紀の日本で生活していた十六歳の肉体なのだ。たとえドイツ語でよどみなく散文も韻文も書き連ねられるとしても──
僕は、ゲーテじゃない。なりそこないだ。
芸術だとか文学なんてどうだっていい。ただ日本に帰りたいだけだ。それが叶わないなら、てきとうに文筆業の真似事してだましだまし生活するだけ。日本に帰してくれないなら、もうほっといてくれよ。こっちは悪魔に用なんてない。
だいたい、なんだよ世界の美しさって? 必ず心動かされるって? 馬鹿じゃないのか。じっと無感動でいようって決めてればいいだけじゃないか。いや、そもそも、その変な合い言葉を口にしなけりゃいいだけじゃないか。それとも、そんな簡単な決意さえ頭から吹っ飛ぶくらい感動するようなことが世の中にあるってのかよ? んなわけないだろ。
でも、僕は間違っていた。メフィストフェレスの言う通りだった。明くる朝、僕は宿命的に巡り逢うことになる。あの少女に──それから、あの音楽に。
†
翌朝、一風呂浴びた後、酔い覚ましのためにフレディを散歩に連れ出した。
朝のカールスバートの街は、霧に埋もれている。緑深い山間を拓いてつくられた街なので、谷底に靄や温泉の湯気が溜まるのだ。入浴で火照った身体は、秋空の下を歩いているとすぐに冷えてくる。
フレディはコートのポケットに手を突っ込んで、歩道の縁石の上をまだ危うい足取りで歩いていた。早朝で、街路に僕ら以外の人影はない。聞こえてくるのも、ヒワたちのさえずりと、どこかの宿で湯揉みしているらしきかすかな水音だけだ。
「で、俺が寝こけてる間ヴォルフィはお嬢さんを何人連れ込んだわけ」
どろっとした目つきでフレディが言う。
「あっちのやる気はないくせにそっちのやる気は満々ですか。へっ、若返ってけっこうなことばかりですな!」
「まだ酔っ払ってんなら喉に指突っ込んで吐かせるよ」
僕がそう言うと、フレディは青い顔になって言葉を吞み込んだ。それから神妙な表情に戻って言い直す。
「温泉街を舞台にした物語でも思いつかねえの? カールスバートにもマリエンバートにも何度も来てるだろ」
「ううん……まだそんな気にならなくて」
「あーあ。おまえがいつまでもそんなだと俺も萎えるわ……」
フレディは固く凍りついた青空に向かってため息を吐き出す。僕はちょっと罪悪感をおぼえた。シラーはゲーテの同僚であると同時に第一の読者であり大ファンでもあるのだ。昨日はメフィに対して文学なんざ知ったことじゃないと啖呵を切ってしまったけれど、ゲーテのふりを続けるからには、やっぱりいつかは新作の一本も書かないとだめなのかな、と思う。なによりもフレディに申し訳ない。
「おまえがまた戯曲を一発当てればうちの事務所も潤って、しばらく遊んで暮らせるのに」
「そんな理由かよ!」僕の申し訳ない気分を返せよ。
そのとき、背後で土を踏む無数の音が聞こえた。
振り向くと、宿の並びの間に立ちこめる霧をかきわけて、ものものしい一団がこちらにやってくるのが見えた。モール付きの軍服と羽根をあしらった高い軍帽で着飾った近衛兵たちの、一糸乱れぬ二列縦隊だ。その後ろに騎馬が何組か続き、そのさらに後から目もくらむほどに飾り立てられた大きな馬車が現れる。
「お、おい、あれ」
フレディは唾を飲み込んで道の脇に退いた。僕もそれにならう。やがて馬車の側面の扉に描かれた紋章が見えてくる。
王冠を戴き、無数の盾に囲まれた黒い双頭の鷲。
ヨーロッパの王家の中の王家、ハプスブルク家──神聖ローマ皇帝のしるしだ。
「なんで陛下がこんなとこに……」
フレディはつぶやきながら道からさらに離れ、帽子を取って胸にあて、腰を折って礼する。僕もあわてて真似をした。僕ら二人の前を、仰々しい一行が通り過ぎていく。通過しきるまでこうやってたら腰も首も痛くなってしまいそうだな、と思うくらいの長い行列だ。
「──止まれ! 止まれ!」
不意に声がした。ちらと目を上げると、侍従らしき装いの男が駆け寄ってくるのが見えた。
「ゲーテどの、シラーどのとお見受けするが!」
僕とフレディは顔を見合わせた。
「……そうですけど」
「陛下がお呼びです、どうぞ馬車へ」
「朕は貴卿らの大大大ファンなのだ! サインを頼む!」
馬車の中、僕らの向かいの天鵞絨張りの席に座ったフランツ二世陛下は、目を輝かせて身を乗り出してきてそう言った。御年三十五、色白で細面のなよっとした青年であるが、これでもハプスブルクの家長にしてオーストリア君主、さらには神聖ローマ皇帝だ。『若きヴェルテルの悩み』と『ドン・カルロス』の二冊をうきうき顔で差し出してくるその様子は王族の威厳など皆無で、僕もフレディも当たり前みたいに受け取ってサインしてしまう。
「そもそも朕が温泉のすばらしさに目覚めたのもゲーテ卿が新聞に書いていた温泉紀行を読んだからなのだ! まさかこうしてカールスバートで逢うとは思ってもみなかった」
「はあ。読んでくださってありがとうございます……」