楽聖少女

第一幕 ⑥

 熱い湯の中なのに、僕はぞっと寒気をおぼえた。


「戯曲も小説も書かないどころか、読むのはだれかの評論だけ。それに批評をくっつけて雑誌に載せるだけ。そんな仕事ばかりなさっているのは、すばらしいものにって心を動かされるのがこわいからでしょう?」


 なに言ってんだ。めんどくさいからやらないだけだよ。戯曲だの小説だの新しくゼロからつくり出すなんて、どんだけの労力だか考えたくもない。細かい執筆仕事でやってけるんだから、べつにいいじゃないか。

 背中にぴったりと柔らかいものが触れる。メフィが身体からだを押しつけてきたのだ。身体も意識も熱の中にいつしゆんにして引き戻される。


「ちょっ、やっ、やめっ」

「若返りで文才が消えたわけではありません。文学の火はいまだにこの」メフィの腕が僕の身体からだに巻きつき、みぞおちに指がう。「胸で燃えさかっているはず。それなのにペンもとらず目を閉じ耳をふさいだままでいられるのは、世界のすばらしさを味わうのがこわいから、満たされてしまうそのしゆんかんを迎えたくないから、でしょう?」

「はなせよッ」


 僕はメフィの腕をふりほどいて突き飛ばした。水中に深く身を沈める。かおり高い湯がしたくちびるらした。鉱泉水は血と汗と鉄の味がする。


「だとしてもなんなんだよ。僕の知ったことじゃない」


 ゲーテのこれからの作品が歴史から消えるとしても、どうでもよかった。僕は日本からむりやり連れてこられた高校生なのだ。ドイツ文学はフレディがしやくり虫のポーズでもしながらひとりで必死に支えればいい。

 不意に分厚くなった湯煙の向こうで、メフィが笑う。


「いいえ。あなた様はきっと、またペンをとられるはずです。あなた様はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテでもある。その事実を、渇望を、熱を、炎を、消せはしない。芸術家はけっしてもくしてはいられない。たとえご自分でき出されなくとも、生きていれば、必ずこの世界の美しさに触れ、心動かされるはず」

「うるさい!」


 僕は熱い湯を跳ね上げた。しぶきが白いだいせきにあたって流れ落ちた。

 メフィの姿は消えていた。

 ただ、その最後の言葉だけが湯気の間に漂う。

 感じてください。

 心動かされてください。

 満たされてください。

 そして、その絶頂で叫んでください。《時よ止まれフアーヴアイル・ドホ汝はいかにも美しいドウ・ビスト・ゾ・シエーン》と。

 そのときユキ様はわたしのものになる。

 わたしのものに。

 わたしのものに……

 湯の中で両手を広げ、確かめる。

 僕の身体だ。名前はもう最後の二音を除いて思い出せないけれど、たしかにほんの一ヶ月前まで二十一世紀の日本で生活していた十六歳の肉体なのだ。たとえドイツ語でよどみなく散文もいんぶんも書き連ねられるとしても──

 僕は、ゲーテじゃない。なりそこないだ。

 芸術だとか文学なんてどうだっていい。ただ日本に帰りたいだけだ。それがかなわないなら、てきとうに文筆業のごとしてだましだまし生活するだけ。日本に帰してくれないなら、もうほっといてくれよ。こっちはあくに用なんてない。

 だいたい、なんだよ世界の美しさって? 必ず心動かされるって? 鹿じゃないのか。じっと無感動でいようって決めてればいいだけじゃないか。いや、そもそも、その変な合い言葉を口にしなけりゃいいだけじゃないか。それとも、そんな簡単な決意さえ頭から吹っ飛ぶくらい感動するようなことが世の中にあるってのかよ? んなわけないだろ。



 でも、僕は間違っていた。メフィストフェレスの言う通りだった。明くる朝、僕は宿命的に巡りうことになる。あの少女に──それから、あの音楽に。


    †


 翌朝、ひと浴びた後、い覚ましのためにフレディを散歩に連れ出した。

 朝のカールスバートの街は、きりに埋もれている。緑深い山間をひらいてつくられた街なので、谷底にもやや温泉の湯気がまるのだ。入浴でった身体からだは、秋空の下を歩いているとすぐに冷えてくる。

 フレディはコートのポケットに手を突っ込んで、歩道の縁石の上をまだ危うい足取りで歩いていた。早朝で、街路に僕ら以外の人影はない。聞こえてくるのも、ヒワたちのさえずりと、どこかの宿でみしているらしきかすかな水音だけだ。


「で、俺が寝こけてる間ヴォルフィはおじようさんを何人連れ込んだわけ」


 どろっとした目つきでフレディが言う。


「あっちのやる気はないくせにそっちのやる気は満々ですか。へっ、若返ってけっこうなことばかりですな!」

「まだ酔っ払ってんならのどに指突っ込んでかせるよ」


 僕がそう言うと、フレディは青い顔になって言葉をみ込んだ。それから神妙な表情に戻って言い直す。


「温泉街を舞台にした物語でも思いつかねえの? カールスバートにもマリエンバートにも何度も来てるだろ」

「ううん……まだそんな気にならなくて」

「あーあ。おまえがいつまでもそんなだと俺もえるわ……」


 フレディは固く凍りついた青空に向かってため息を吐き出す。僕はちょっと罪悪感をおぼえた。シラーはゲーテのどうりようであると同時に第一の読者であり大ファンでもあるのだ。昨日はメフィに対して文学なんざ知ったことじゃないとたんを切ってしまったけれど、ゲーテのふりを続けるからには、やっぱりいつかは新作の一本も書かないとだめなのかな、と思う。なによりもフレディに申し訳ない。


「おまえがまたきよくを一発当てればうちの事務所もうるおって、しばらく遊んで暮らせるのに」

「そんな理由かよ!」僕の申し訳ない気分を返せよ。

 そのとき、背後で土をむ無数の音が聞こえた。

 振り向くと、宿の並びの間に立ちこめるきりをかきわけて、ものものしい一団がこちらにやってくるのが見えた。モール付きの軍服と羽根をあしらった高い軍帽で着飾った近衛このえへいたちの、一糸乱れぬ二列縦隊だ。その後ろにが何組か続き、そのさらに後から目もくらむほどに飾り立てられた大きな馬車が現れる。


「お、おい、あれ」


 フレディはつばを飲み込んで道のわき退いた。僕もそれにならう。やがて馬車の側面の扉に描かれた紋章が見えてくる。

 王冠をいただき、無数のたてに囲まれた黒い双頭のわし

 ヨーロッパの王家の中の王家、ハプスブルク家──神聖ローマ皇帝のしるしだ。


「なんで陛下がこんなとこに……」


 フレディはつぶやきながら道からさらにはなれ、帽子を取って胸にあて、腰を折って礼する。僕もあわててをした。僕ら二人の前を、ぎようぎようしい一行が通り過ぎていく。通過しきるまでこうやってたら腰も首も痛くなってしまいそうだな、と思うくらいの長い行列だ。


「──止まれ! 止まれ!」


 不意に声がした。ちらと目を上げると、侍従らしきよそおいの男が駆け寄ってくるのが見えた。


「ゲーテどの、シラーどのとお見受けするが!」


 僕とフレディは顔を見合わせた。


「……そうですけど」

「陛下がお呼びです、どうぞ馬車へ」



ちんけいらの大大大ファンなのだ! サインをたのむ!」


 馬車の中、僕らの向かいの天鵞絨ビロード張りの席に座ったフランツ二世陛下は、目をかがやかせて身を乗り出してきてそう言った。おんとし三十五、色白でほそおもてのなよっとした青年であるが、これでもハプスブルクの家長にしてオーストリア君主、さらには神聖ローマ皇帝だ。『若きヴェルテルの悩み』と『ドン・カルロス』の二冊をうきうき顔で差し出してくるその様子は王族の威厳などかいで、僕もフレディも当たり前みたいに受け取ってサインしてしまう。


「そもそも朕が温泉のすばらしさに目覚めたのもゲーテきようが新聞に書いていた温泉紀行を読んだからなのだ! まさかこうしてカールスバートでうとは思ってもみなかった」

「はあ。読んでくださってありがとうございます……」



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