楽聖少女

第一幕 ⑦

 まさか逢うとは、はこっちのせりふである。フランツ二世陛下をこんな間近で見るのははじめてだった。なにかのもよおし物のときに遠くから眺めたことはあったと思うけど。僕じゃなかったころのゲーテがね。

 陛下は僕を頭のてっぺんからつまさきまで眺め回して嘆息する。


「それにしてもすさまじい温泉の効用、ここまで若返るとは……」


 んなわけねえだろ、とつっこみかけたけど、温泉のおかげだと思ってくれるならその方が都合がいいので僕は苦笑いだけ返す。


ちんもゲーテきようのようにいつまでも青春をおうしたい! これからカールスバートの秘湯を巡るのだ。けいらもいつしよにどうだ」


 皇帝陛下と同道なんて気を遣うからかんべん願いたかった。しかしフレディはのりのりでこんなことを言い出す。


「陛下、ヴォルフィのやつめは若返ってから、老骨にみこむ温泉のすばらしさを忘れてしまったようです。かわりに俺がいい湯をご案内しますよ」

「シラー卿も温泉に詳しかったのか。どうりで朕より十も年上のわりに若々しい!」

「陛下はもちろん温泉であれこれ世話をする上玉の女官を大勢お連れでしょうな! ご一緒させていただきますよ、むきたてのゆで卵のように若返りましょう!」


 おまえはこれ以上若々しくならなくていいよ、世間の女性の迷惑だから。


「あのう、だいじようなんですか、戦時中だってのに陛下が温泉に来てたりして」


 僕はちょっと心配になって、一応いてみる。


「大丈夫だ」


 陛下は鼻息荒く答えた。


「護衛は四百人しか連れてないし、軍楽隊はトランペットを三十人にまで減らしたし、ハプスブルクの紋章も扉一枚分の大きさしかないし、出発前の記者会見でも『朕は温泉大好き! だがカールスバートなどに行くわけではないからな!』と答えておいた。だれも皇帝がこんな場所にいるとは思うまい」「ばればれですよ!」


 勢いでつっこんでしまった。陛下は不安そうな顔になってカーテンを持ち上げ、馬車の外の侍従に「ばればれなのか?」とたずねる。


「ばればれでございます」

「なんたることだ……」それもこっちのせりふだ。「ああ、まずい、まずいぞ。ゲーテ卿はともかく、シラー卿と馬車に同乗しているところなどを新聞にすっぱ抜かれたら」

「ああ、そいつはちょっくらまずいですなあ」


 フレディが言う。なんで? と僕は彼の顔を見た。


「この俺、フリードリヒ・シラーといえば、なんかもう自由主義のごんってことになっちまってるだろ。二言目には自由自由っつってると思われてる」実際言ってるじゃん。「フランス革命政府からは名誉市民なんつうもんに選ばれちゃうし。いい迷惑ですよ。俺の言ってる自由はだれかれかまわずギロチンにかける自由じゃねえっつうの」

「そう、そう、そうなのだ」陛下も何度もうなずいた。「シラーきように罪はないが、皇帝が自由主義にかぶれているみたいな風評が立つと困る」


 僕は陛下とフレディの顔を見比べる。ちょうど世界史の授業で習っていたあたりだから、言ってる意味はわかるけど、含まれている切迫感はまったく実感できない。

 この時代のヨーロッパは、フランス革命の余波に揺れ続けていた。ていにいえばフランス国内も国外もみんな、なにが起きているのか、どうすればいいのか、よくわからないまましっちゃかめっちゃかに戦争していたのである。その混乱の中、各国の過激派の若者たちの間でもてはやされていたのが、フレディの書いた『自由さん』という詩だった。


「なんで俺が教祖様みたいになってんだよ!」


 フレディは皇帝陛下のぜんであることも忘れてげつこうする。


「俺の言ってる自由はそうじゃねえよ! 酒があったら飲む! 肉があったらう! 女がいたらく! 仕事があったら寝る! 本当の自由主義ってそういうもんでしょう陛下!」


 全然ちがうと思うけど。ていうか仕事はしろよ。陛下も目を白黒させている。


ちんは正直、革命とか自由主義とかのことはよくわからんが、フランスの血なまぐさい連中は気に喰わん、だってあいつらはマリー様を殺したんだぞ!」


 陛下はいまいましげにひざなぐる。陛下の言葉が、このころのフランスを取り囲む諸国の王侯貴族の気持ちをだいたい代弁してるんじゃないかと僕は思う。あの名高いマリー・アントワネットはフランツ二世陛下のお父さんの妹、つまりハプスブルク家の一員だ。ハプスブルク家は革命後に真っ先にフランスに対して敵対宣言したのだけれど、政治に口を挟むつもりではなく、あくまでも、フランスによめに出したわいいマリー・アントワネットの身が心配だっただけなのだ。ところが革命軍の方は内政干渉されたと思って反発し、戦争が始まる。やがて国王ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットはオーストリアに内通していた容疑で処刑され、フランスはヨーロッパじゅうを敵に回すことになる。

 普通、これでフランスはぼっこぼこにされてつぶれる。でもそうはならなかった。

 フランス軍に、あの男がいたからだ。


「朕は、恐ろしいのだ」


 陛下が声を落として言う。


「あの、ナポレオン・ボナパルトという男が……」


 ナポレオン。

 一介の砲兵長から、全欧のしやの一歩手前まで登り詰めた男。十八世紀末から十九世紀はじめにかけて、ヨーロッパは吹き荒れるナポレオンという名のあらしおおい尽くされていたのだ。


「あれはもう人とは思えん」と陛下がつぶやく。


「ジェノヴァの戦いじゃあ、オーストリア軍二万四千をたったひとりでげきしたそうですからなあ」とフレディ。「しかも素手でな」と陛下。僕は耳を疑う。

 ひとりで二万四千に勝った?

 え、それは自分で指揮する一部隊で、って意味だよね? と思ったら、フレディと陛下はナポレオンがこぶしの一振りで何千人を吹き飛ばしただのぐんかんなんせきも沈めただのという話をしている。いや、ちょっと待ってくれ。そんなの授業で習ってない。というかそれって──


「あの男はもはや、あくと呼ぶしかない」


 悪魔、と僕は思った。僕の習ったナポレオンじゃない。天才的な軍人ではあったけれど、ごくごく現実的に兵を率いて戦ったはずだ。万の軍を単身素手で退けるなんて化け物じみた戦い方は僕の知っている歴史には残っていない。


「ゲーテきようは新聞などは読まないのか?」


 僕のおどろきぶりに気づいたのか、陛下が言った。


「あ、はあ、……戦争の記事はあまり」


 陛下はふところから一束の紙を取り出した。新聞の写真の切り抜きらしい。


「見よ。身の毛もよだつ魔人の所業ぞ」


 白黒の粗い写真で、かなり見づらかったけれど、写っているのが横倒しになった装甲列車だとかろうじてわかる。真っ二つになった車体は、なにか巨大な手につかまれてねじ切られたかのようだ。その裂け目に足をかけて立つ人影がある。

 髪をざんばらに伸ばし放題にした、屈強な男だ。えりの高い黒のぴったりした軍服に身を包み、三色旗をタバードがわりに巻いて風をはらませている。

 次の写真は、しかばねの山をみしだくその男。折れた銃剣や、破れて血まみれになったオーストリアの旗が足下に見える。

 僕はふるえる手で写真をめくる。焼け野原や、油の流れ出したジェノヴァの海辺。そのどれもに、男が写っている。たしかに、ひとりだ。おまけに武装していない。

 これが──ナポレオン?

 魔人、という陛下の言葉が、ぞくりとすじのあたりに張りつく。

 あり得るのだ。よくあることなのだ。悪魔は、実在するのだから。


「なぜに陛下はこのような写真をわざわざ切り抜いて……しかも穴だらけですが」


 横からフレディがのぞき込んできて言った。


「戦場でナポレオンにったら勝ち目はないからな! 毎日針で突き刺してのろいをかけておるのだ!」「俺ならくぎでやりますねナポレオン大きらいだから!」


 こんな王様の治めてるオーストリアじゃあ永遠に勝ち目ないだろ……。


「ゲーテ卿」


 陛下が身を乗り出してくる。


「あ、は、はい?」

けいは、予言もすると聞いた」

「……あー……いや、はあ」



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