楽聖少女
第一幕 ⑦
まさか逢うとは、はこっちのせりふである。フランツ二世陛下をこんな間近で見るのははじめてだった。なにかの
陛下は僕を頭のてっぺんから
「それにしてもすさまじい温泉の効用、ここまで若返るとは……」
んなわけねえだろ、とつっこみかけたけど、温泉のおかげだと思ってくれるならその方が都合がいいので僕は苦笑いだけ返す。
「
皇帝陛下と同道なんて気を遣うから
「陛下、ヴォルフィのやつめは若返ってから、老骨に
「シラー卿も温泉に詳しかったのか。どうりで朕より十も年上のわりに若々しい!」
「陛下はもちろん温泉であれこれ世話をする上玉の女官を大勢お連れでしょうな! ご一緒させていただきますよ、むきたてのゆで卵のように若返りましょう!」
おまえはこれ以上若々しくならなくていいよ、世間の女性の迷惑だから。
「あのう、
僕はちょっと心配になって、一応
「大丈夫だ」
陛下は鼻息荒く答えた。
「護衛は四百人しか連れてないし、軍楽隊はトランペットを三十人にまで減らしたし、ハプスブルクの紋章も扉一枚分の大きさしかないし、出発前の記者会見でも『朕は温泉大好き! だがカールスバートなどに行くわけではないからな!』と答えておいた。だれも皇帝がこんな場所にいるとは思うまい」「ばればれですよ!」
勢いでつっこんでしまった。陛下は不安そうな顔になってカーテンを持ち上げ、馬車の外の侍従に「ばればれなのか?」と
「ばればれでございます」
「なんたることだ……」それもこっちのせりふだ。「ああ、まずい、まずいぞ。ゲーテ卿はともかく、シラー卿と馬車に同乗しているところなどを新聞にすっぱ抜かれたら」
「ああ、そいつはちょっくらまずいですなあ」
フレディが言う。なんで? と僕は彼の顔を見た。
「この俺、フリードリヒ・シラーといえば、なんかもう自由主義の
「そう、そう、そうなのだ」陛下も何度もうなずいた。「シラー
僕は陛下とフレディの顔を見比べる。ちょうど世界史の授業で習っていたあたりだから、言ってる意味はわかるけど、含まれている切迫感はまったく実感できない。
この時代のヨーロッパは、フランス革命の余波に揺れ続けていた。
「なんで俺が教祖様みたいになってんだよ!」
フレディは皇帝陛下の
「俺の言ってる自由はそうじゃねえよ! 酒があったら飲む! 肉があったら
全然ちがうと思うけど。ていうか仕事はしろよ。陛下も目を白黒させている。
「
陛下は
普通、これでフランスはぼっこぼこにされて
フランス軍に、あの男がいたからだ。
「朕は、恐ろしいのだ」
陛下が声を落として言う。
「あの、ナポレオン・ボナパルトという男が……」
ナポレオン。
一介の砲兵長から、全欧の
「あれはもう人とは思えん」と陛下がつぶやく。
「ジェノヴァの戦いじゃあ、オーストリア軍二万四千をたったひとりで
ひとりで二万四千に勝った?
え、それは自分で指揮する一部隊で、って意味だよね? と思ったら、フレディと陛下はナポレオンが
「あの男はもはや、
悪魔、と僕は思った。僕の習ったナポレオンじゃない。天才的な軍人ではあったけれど、ごくごく現実的に兵を率いて戦ったはずだ。万の軍を単身素手で退けるなんて化け物じみた戦い方は僕の知っている歴史には残っていない。
「ゲーテ
僕の
「あ、はあ、……戦争の記事はあまり」
陛下は
「見よ。身の毛もよだつ魔人の所業ぞ」
白黒の粗い写真で、かなり見づらかったけれど、写っているのが横倒しになった装甲列車だとかろうじてわかる。真っ二つになった車体は、なにか巨大な手につかまれてねじ切られたかのようだ。その裂け目に足をかけて立つ人影がある。
髪をざんばらに伸ばし放題にした、屈強な男だ。
次の写真は、
僕は
これが──ナポレオン?
魔人、という陛下の言葉が、ぞくりと
あり得るのだ。よくあることなのだ。悪魔は、実在するのだから。
「なぜに陛下はこのような写真をわざわざ切り抜いて……しかも穴だらけですが」
横からフレディがのぞき込んできて言った。
「戦場でナポレオンに
こんな王様の治めてるオーストリアじゃあ永遠に勝ち目ないだろ……。
「ゲーテ卿」
陛下が身を乗り出してくる。
「あ、は、はい?」
「
「……あー……いや、はあ」



