ブギーポップ・ナイトメア 悪夢と踊るな子供たち
1,愚を欺き、悪に迷い…… ②
そこに法則性はない。誰かが判断して会えるようにしている、という計算はない。ただ、三兄妹の気まぐれで会えるかどうかが決まってしまう。金銭の要求もあったりなかったり、その中間の者が請求してきたかと思えば、次の者がその分を返還してくれたりもする。それどころか援助しようかと提案してくる者さえいることもある。それらの様々な障壁を乗り越えて、いざ本人たちの前に来ると──そこにいるのはまだ子供にしか見えない奇妙な者たちなのだ。
その圧倒的なとまどいを、彼らの不思議な言葉の数々がさらに増幅させる。絶望に包まれて、少しの未来さえも見いだせなくて、その打開策を求めに来たのに、この子供たちはその〝未来〟を捨ててしまえ、と言う──。
「別に、強制するつもりはない。君たちが気が進まないのならば、今までのように役に立たない〝未来〟を抱え込んだまま生きていけばいい。どんどん重荷が増えていくことになるけどね──」
北斗の声は歌声のようだ。その穏やかさと明瞭さが同居している響きは耳にとても心地良い。
「あ、あの──どうなるんですか? その──〝未来〟を盗られると?」
「その言い方は聞こえが悪いなあ。ただ君たちが身軽になるだけだよ。そうだな──僕らは酒とか飲まないけれど、二日酔いっていうのがあるんだろう? それを一瞬で消し去るような感覚らしいよ、経験者によると」
「それまで重ねてきた愚かな行為の、その責任を捨てられるってわけ──ふふっ」
南砂の微笑みは二人に向けられているようで、どこにも向いていない。なんで笑っているかさえよくわからない。
「う、うう──」
二人が唸っていると、西風が適当な調子で、
「あのさあ──そもそもあなた方の希望する〝未来〟ってどんなものなのかな? 何を夢見て、これまで生きてきたんだい?」
「え?」
きょとんとする二人に、北斗が問いを重ねてくる。
「成功したいとか? それはどういう基準で判断していたんだろうね。ほんとうにあなた方の願望だったのかい。それとも、みんながそう言っているから、というだけの話じゃなかったのかな。そんなものに価値はなかったんじゃないのかな、ほんとうは。少なくとも、そのせいで今、死ぬほど追い詰められている気持ちにさせられているわけで、それはあなた方の目指していた〝未来〟が間違っていたという証明になると思うけどね──」
「人間が目指すべき未来なんて、実はたったひとつしかない。それ以外は全部、不純──」
南砂がどこも向いていない視線を宙にさまよわせながら、陶然としつつ言う。
「そう──それは〝人生の美しさの頂点にあるときに殺してくれる〟死神に最期を看取ってもらうこと──」
「それ以外に意味なんてないのさ。他の〝未来〟なんて目指したって何にもならない」
西風もくすくすと笑い出す。
「え、えと──」
戸惑っている二人に、北斗がやや突き放したように、
「まあ、あなた方はそんなことを考えられるレベルにはないから、気にしてもしょうがないだろう。現在の問題は、あなた方の感じている、その圧倒的なストレスをどうするのか、十億の負債をやり過ごすための道筋を冷静に立てられるのか──という話だからね。そんなくだらないことに、僕らのブギーポップは関与しない」
「ぶ、ぶぎ……?」
「その名前を君たちが口にするのも、本来はとんでもなく無礼で身の程を知らないことなんだが、まあ、見逃すよ。追い詰められているのは間違いないんだろうから」
北斗の調子は、どんどん冷ややかになっていく。
「さて──そろそろ時間だけど。結局どうするんだい? このまま帰ってもらっても、こっちとしてはかまわないんだが──」
そう言われて、二人の顔色が変わった。焦った表情になり、男の方があわてて、
「や──やります! やってください! このままじゃどうにもならないんです!」
と声を張り上げた。北斗が眼を細めて、
「では、あなたから?」
「い、いやそれは──か、彼女からにしてください」
と女の方を押し出してきた。
「え、ええ? なんで私?」
女は動揺しているが、男は強硬に、
「大丈夫だ。問題ないって。すぐに俺もやってもらうから」
「で、でも──」
「いいから! ほら!」
男は女を北斗の方に押し出してくる。女は震えながら少年を見上げる。
すると彼は、彼女に向かってウインクしてきて、
「要望を受け付けるのは一度だけ──君は、その後だよ」
と言った。え、と女が訊き返す間もなく、彼女の後ろから、
「あぃあああおっ、あへっ──」
という奇怪な呻き声が響いてきた。
振り向くと、そこでは男があらぬ方角を向きながら、身体をぐりぐりとねじって悶えていた。
その首筋に──南砂が細い指先を添えている。
力を込めているようには見えないし、現に掴んでもいないのだが、男はその指先に吸い付けられるようにして離れることができない。その一点を中心にして、身体の方は野放図にでたらめにばたばた暴れている。そして何よりも異様なのは──
(な、なに──あれ?)
女の眼にも、それがちらりと見えた……男の周囲に、どす黒い紫の影のような物がまとわりついている。
それはなんだか、お面というか、顔のようでもある……光を映さない眼球がぎょろぎょろと動いていて、ぽっかりと開いた口のようなところから、あぃあいああー、という奇声が発せられている。人面疽、というイメージが頭に浮かんだ。それが取り憑いているような……
「え、ええ……?」
唖然とする女の前で、男は少しの間その紫の顔にへばりつかれて、がくがくと痙攣していたが……やがてそれは薄れていって、蒸発するように消えてしまった。
すぽん、と引き抜くように南砂が指を男の首から離した。彼の身体はくたくたとその場に崩れ落ちた。
「…………」
女が茫然としている間に、男は首を振りながら、
「ううん……」
と身を起こした。顔を上げて、女の方を見る。
「い──?」
女は絶句した。男の表情が一変していた。まるで爽やかな寝起きの後のように、たっぷりと睡眠を取ってリフレッシュしきったときのような顔をしていた。そして、
「ああ──なるほど」
と納得した調子で呟く。
「たしかに──二日酔いが一瞬で治ったようですね──そういうことか」
その声も実に穏やかで、落ち着いていて、ほんの数十秒前まであった動揺など欠片も残っていない。
「どうだい──〝未来〟を捨てた気分は」
北斗が問うと、男はうなずいて、
「いや──今までどうやって過ごしてきたのか思い出せないくらいです。とても軽やかな気分だ──なんであんな重たいものを後生大事に抱え込んでいたのか──馬鹿馬鹿しいことでしたね」
と返した。
「十億の負債はどうする?」
「え? ああ──まあ、なんとかなるでしょう。どうでもいいことですね。てきとうに誤魔化す方法を探しますよ。まったく、何故あんなにクヨクヨしていたのか──」
「それは結構」
北斗の声は、相変わらずどこか冷ややかなままであるが、対する男の方にはもう焦りがまったくない。
「え、ええ──?」
動揺している女に、いつのまにか彼女の横に立っていた西風が、
「で──あなたはどうする?」
と訊いてきた。ひっ、と女は思わず悲鳴を上げて身を引いてしまう。ちら、と男の方を見ると、彼はうなずいて、
「ああ──さっきはすまなかった。君に無理強いするようなことを言ってしまって。もちろん、どうするかは君に任せるよ。別に俺についてこなくてもいいんだからね」
と優しい声で言う。そんな柔らかな話し方を、彼女は男からされたことはなかった。
「う──」
彼女は、ごくり、と唾を呑み込んだ。かすかに身体が震えている。
北斗が静かに、
「いいかい、要望を受け付けるのは一度だけだ──変更はできないよ。やめるなら今のうちだ。どうする、君は〝未来〟を捨てるか、それとも今の不安と焦燥を抱え込んだまま行き続けるかい?」
と告げた。



