ブギーポップ・ナイトメア 悪夢と踊るな子供たち
1,愚を欺き、悪に迷い…… ④
ふわふわと頼りなく滑空して、それは靴の大きすぎる子供の後頭部に、こつん、と当たった。
変化は劇的だった。
赤信号で、横断歩道の前で待っていたその子供は紙飛行機に接触された瞬間、糸の切れた操り人形のように地面に崩れ落ちた。
「ちょっと、何して──」
母親が最初は不機嫌そうに言いかけて、しかしすぐに異変に気づいて、
「あ、ああ?」
と声を上げて、両手に持っていた荷物を放り出して我が子を抱き上げた。
子供は息をしていなかった。眼も動かず、全身から完全に力が抜けきっていた。そして、
「し、心臓が動いてない──」
母親が悲鳴を上げた。周囲の人間たちも騒ぎ出した。
信号が赤から青になったが、その場の人たちは誰もそれに気づかず、親子の周囲でなんだなんだと集まっていて──その瞬間だった。
赤信号を無視して、一台の過積載トラックが道路を突っ切っていって、横滑りして建物に突っ込んでいった。
どうやら運転手が数秒前から意識を失っていたようだった。だが横断歩道を誰も渡っていなかったので、トラックに轢かれた者は奇跡的に誰もいなかった。
そして──激しい衝突音が大通り中に響き渡った、そのタイミングで母親の腕の中の子供が、ぱちっ、と目を開けた。
「わっ、なになに!」
と驚いた声を上げる。ばたばたと手足を動かしてもがき始めた。
母親は泣き出して、我が子を抱きしめる。周囲の人たちは次々と起こった現象についていけずに、茫然と立ち尽くしている。
「…………」
その様子を、玖良々三兄妹は無言で眺めている。
やがて南砂が、はああああっ、と深い深い吐息をついて、
「いちいち気にしてたら、キリがないって──そういう〝未来〟なんだから。変えるのは危険なのはよく知ってるでしょ」
と西風を睨みつけた。彼は涼しい顔で、
「別に〝未来〟を変えたってほどじゃないだろ。ただ、あの子の靴は横断歩道の途中で脱げなかった、ただそれだけだよ」
そう答えながら、またパイを解体していく。口笛まで吹き始める。北斗は首を左右に振って、
「感心しないな、まったく──東梨はそれで破滅したんだぞ。世界の〝未来〟を変えられると信じて──」
と苦々しい口調でそう言った、そのときだった。
横から唐突に、
「結局……なるようにしかならない……そういうものだ……」
という陰気な声が聞こえてきた。
三人がびくっ、として、いっせいに声の方を向く。
そこには一人の男が、いつのまにか立っていた。
影の薄い男だった。
*
前髪が長く垂れていて、片眼を完全に覆い隠している。特徴はそれぐらいで、後はどう表現すればいいかわからなくなるほどに、空気のように印象の薄い男だった。
だが、その男の地味さに比して、彼を見た三兄妹の反応は晴れやかに弾けていた。三人ともぱっ、と笑顔になって、
「あーっ、柊さん!」
「もう、最近全然来てくれなかったじゃん!」
「お久しぶりです!」
と喜びを炸裂させながら、食事を放り出して立ち上がり、男の周囲に押し寄せた。
柊と呼ばれた陰気な男は、これにも気のない風にうなずいてみせるだけで、喜びを共有はしない。
「話を……しようか……」
と柊がテーブルを指すと、三人はすぐに席に戻って、
「どうぞ!」
と彼にも座るように両手で促した。その動作には子供っぽい素直さに溢れていて、ついさっきまでの奇妙なまでの落ち着きは消え失せている。
柊は無音で席について、三人に向かって、
「どうだ……最近は……」
と、またしてもぼそぼそ声で訊いてきた。
「いやあ、どうもこうもないよ。さっきも客が来たけど、まあ適当な感じの連中で──なんにも新しいことはなかったよ」
「代わり映えしないよね、人間って。同じような失敗を繰り返して、同じような破滅を招いてる気がするわ」
北斗と南砂がぼやくように言うと、西風が、
「柊さんはどうです、相変わらず世界を守っているんですか?」
と質問した。柊はうなずくでもなく、否定するでもなく、曖昧な相づちを打ってから、
「……世界は……誰かの意思でどうにかなるものではない……守るとか……変えるとか……そう考えるのは傲慢で、幻想だ……」
と言った。三人はちょっと眉をひそめて、
「でもさ、統和機構ってのは人類の守護者なんでしょ。柊さんもその一員のはずでしょ。だったらそれを誇ってもいいでしょ」
「僕らもかつて〈サンタ・クララの子供たち〉だった頃は、統和機構の管理下にあったんだし、その支配力はよく理解してたよ。まあ……正確に知ってたのは東梨だけどさ──」
三人に詰められても、柊は淡々と、
「一員、か……私のことは……ほとんど誰も知らないがな……」
と呟くだけだ。これに西風は、
「いや──統和機構の裏切り者である僕らを、柊さんが助けてくれたんじゃないか。あの恐ろしいフォルテッシモの追撃から逃がしてくれて──相当の立場でないと、そんなことは不可能なんじゃないの? 今だって、あなたのおかげで、僕らはのほほんと暮らしていけるんだし」
「そうよ。柊さんが只者じゃないことぐらいわかるよ。だって──」
と、南砂はテーブルの上の柊の手に、自分の手を乗せた。そしてぎゅっ、と指先に力を込める。
柊は反応せず、掴まれるままに任せる。すると北斗と西風も柊の手首を掴んだ。
数秒が過ぎ──そして、何も起こらない。
柊は平然と、どこか茫洋とした無表情のままで、三人の方にも変化は生じない。
やがて、はあっ、と息を吐きながら三人の手が離れる。
「ほら──やっぱり」
「僕らの能力が、柊さんには全然効かないんだもんな」
「あなたからは、何の〝未来〟も読み取れない。完全に僕らよりもずっとずっと上だ。正直な感覚だと、フォルテッシモは〝超巨大〟だったけど、柊さんは──そう〝底なし〟って感じだよ。次元が違う──あなたなら、最強とか自惚れているアイツにも勝てるんじゃない?」
三人の柊を見る眼は、憧れのヒーローを前にした子供そのものだった。そんな彼らに、柊は陰気な調子のまま、
「ないものは……感知できないだけだ……底もなにも……そもそも最初から……私に〝未来〟などないのだから……」
と不思議なことを言った。三人が意味がわからず眉をひそめても、柊はそれ以上は言わずに、代わりに、
「今日は……頼みがあって来た……君たちに会ってもらいたい者たちがいる……」
と切り出してきた。
「え?」
と目を丸くする三人に、柊は懐から一枚のプリント写真を出してきた。
そこには二人の若い男女が写っていた。成人前のまだ少女と少年、という風である。
「なんだい、この人たちは」
「……最近、統和機構に加わった者たちだ……正確には、少女の方だけで……少年はただの友人で一般人だが……」
「ふうん? 友人?」
南砂が写真を手に取って、しげしげと眺めて、
「いやこいつら、どう見ても付き合ってるでしょ。なにこの、妙に気まずい雰囲気は」
と笑った。
その写真の中では少年と少女が喫茶店らしき場所で向かい合っている。彼女たちは互いに視線を落として、相手の発言を待っているようでもある。しかしどちらも決定的なことを言い出せずに、焦っている──だが不思議とそこに不快感は薄く、ただじれったさだけがある。
「少女は〝織機綺〟で……少年は〝谷口正樹〟という……」
柊がそう説明すると、北斗はやや顔をしかめて、
「なんかすごくふつうの連中に見えるけど……なにか特別なことでもあるの?」
と訊くと、柊はそれに応えず、ただ無言である。北斗はすぐに表情を変えて、
「いや、別に不満があるわけでもないけどさ。あなたに頼まれればなんでもやるけど──こいつらの〝未来〟を調べても、期待しているようなことが何もなかったらどうするんだろうな、って──ちょっと考えただけだよ」
と弁解した。これに柊はやはり淡々と、
「特別な者など……この世のどこにもいない……誰もが凡庸であり……一人残らず異端でもある……期待も……失望も無意味だ……」
と突き放したように言うだけだった。
そして西風は、写真を渡されて、それをしげしげと眺めながら、ぽつりと、
「なんかさ……似てるな」
と呟いた。え、と北斗と南砂がその顔を覗き込むと、彼は真剣な表情で、
「この〝織機綺〟ってヤツさ──どこか東梨に似ている気がする──なんというか、こう──根本的なところで、人の話を聞かなそうな感じがする……」
と言った。それから悲しそうに、
「統和機構はこいつらを始末する気なんだね。可哀想に──」
どこか投げやりに、無責任な調子でそう言った。それから肩をすくめて、
「だってそうだろう? 僕らだって同じだったじゃないか。他人とは違うちょっと変わった能力があるからって、世界中から集められて、一緒に世界を創ろうとか言われてその気になって、でも結局、捨てられたんじゃないか──」



