天嬢天華生徒会プリフェイズ
1 その②
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それにしても、まさか現代日本で、電車に乗っている最中にパスポートの確認を求められるなんて予想もしていなかった。
写真とぼくの顔を三度も見比べた車掌は、「ははあお若く見えますねえ」なんて軽口を叩いてからパスポートを返してきた。ぼくは車窓の外を流れていく景色にちらと目をやった。日本のどこにでもありそうなごちゃついた山林だ。
「えっと、なんでパスポート確認するんですか? 国内ですよね?」
就職を世話してくれた人材センターのエージェントにパスポートを作らされたときには、とにかく確実な身分証が必要なのだろう、くらいにしか思っていなかったのだけれど。
「あれ。ご存じない? これから天涯学園に行くのに?」
「はあ。行けばわかる、って言われて。就職エージェントさんに全部お任せだったので、どういう学校かもよく知らなくて」
「いやあ、でも、あれだけ色々ニュースになっていたのに、学園のこと知らない人がまだいるんですねえ。びっくりです」
え、ちょっと待って。そんな社会常識レベルなの? どんな学校? まずいぞ、不勉強すぎたか。エージェントさんも詳しく教えてくれればよかったのに。
残念なことに車掌さんもそれ以上は話を掘り下げなかった。
「まあ、知らん土地でも住めば都ですよね」と笑い、それからぼくのシートのまわりをきょろきょろ見て訊ねる。「寮に入られるんですよね?」
「あ、はい。部屋を用意してくれてるって聞いてます」
「だいぶお荷物少ないようですが大丈夫ですかな? 服とか日用品とか、学園内でも買えますけど物価がやたら高いらしく」
「持ってきてますよ。バッグは預けてあるので」
なんでそんなことまで心配されるのだろう、とぼくは訝しむ。そこまで頼りなく見えるのだろうか。
「ああ、そう! そうですよね! はっは。失礼しました」
車掌さんはごまかすように笑って、それじゃ、と手を振り、他の席に移っていった。いくら乗客が少ないからっていちいち雑談していたら仕事が進まないのでは、と心配になる。
しかし、ぼくが就職する学校、いったいどんな場所なんだ?
やがて窓の外の景色が唐突に闇に呑まれる。
耳がきいんと痛んだ。トンネルに入ったのだ。
ぼくはシートに背を預け、車両の振動を全身で感じながら目を閉じた。
長いトンネルだった。耳鳴りもいっこうにおさまらず、我慢できなくなって再び目を開いても窓の外の暗闇はまだのっぺりと続いていた。
トンネルが長すぎてあくびが出てきたおかげで耳鳴りがおさまったのはありがたかった。
スマホで電子書籍を読んでいると、到着を告げる車内アナウンスがあった。
列車はトンネルから出ず、無機質な蛍光灯の明かりで満たされたプラットフォームに滑り込んで停まった。
降車したぼくは、あらためて駅を見回し、盛大なため息をついた。
雰囲気は地下鉄の駅にそっくりだった。ただし、ほとんどのスケールが五倍くらいなのだ。天井の高さ、プラットフォームの幅、並んで立つ支柱の太さ。
預けた荷物が貨車からまとめて運び出されてくる。駅員に預かり証を見せ、自分のボストンバッグを受け取った。ぼく以外の乗客もみんな荷物が多い。列車や人間や鞄のサイズは普通なせいで、おもちゃの列車に詰め込まれて巨人の国に連れてこられたみたいな錯覚に陥る。
どこに行けばいいのかよくわかっていないまま、他の乗客についていく。階段を上がったところは大きく開けたホールで、高い窓から陽光が差し込み空の青が見えているところからしてどうやら地上に出たらしい。
改札を抜けた向こう側には、物々しい検査機を備えたゲートが何列もずらりと並んでいる。
まるっきり空港の税関だ。
改札のカウンターであらためてパスポートの提示を求められたので、年若い審査官に小声で訊いてみる。
「えっと、ここ日本じゃないんですか?」
「はい。あちらのゲートの向こうは日本領外となりますので携帯品検査にご協力よろしくお願いします」
ぼくの疑問は微妙に理解してもらえなかったらしく、大まかな事情は当然知っているだろうみたいな感じの応答をされてしまった。もっと詳しく聞きたかったけれど後ろにも何人も並んでいたのであきらめて改札を通過する。
米軍基地みたいなものなんだろうか? いや米軍基地はべつにアメリカ領ってわけじゃないんだっけ。
これから始まる教員生活に言い知れない不安をおぼえ始めた。外国人を相手に授業をしろ、なんて言われたらどうしよう。
不安は、あまりにも早く実体化した――ただし、ぼくの想像をはるかに超えた形で。
検査係に手渡したボストンバッグがベルトコンベアに載せられて検査機をくぐったそのとき、けたたましい警報音が鳴る。検査係が顔色を変えた。制服姿の警備員らしき男性も何人も駆け寄ってくる。ぼくはすくみあがった。
「失礼、中を拝見」
検査係が固い声で言ってボストンバッグを開いた。
息を呑む音がいくつも重なる。そのうちのひとつはぼく自身の驚嘆だ。
詰め込まれた服の上に異様なものが載っている。四本並べてガムテープで束ねられた褐色の筒、その一端につなげられた電極から伸びるコード、なにかの基板に貼り付けられたキッチンタイマー。液晶画面のデジタル数字がひとつ、またひとつと減り――
「なんですかこれはッ?」
声を引きつらせた検査係がぼくをにらむ。
「いや、し、知りません、ぼく入れてませんこんなの」
警備員が二人、寄ってきてぼくの腕を両側からつかんだ。
「避難!」
「避難させて!」
「爆発物!」
ロビー全体の空気が煮え立ったように感じた。



